田中清光『北方』(思潮社、2009年07月10日発行)
田中清光『北方』には、日常の会話ではつかわないことばが多い。「北方 Ⅰ」の「一」の書き出しの3連。
「日常つかわないことば」。それは「ギリヤークの風」というようなことばを指していうわけではない。辞書を引かないとわからないようなそういうことばも、もちろんつかわないけれど、そうではなくて「意味」がわかるけれど、ふつうはつかわないことばというものがある。
たとえば、「流転」。「るてん」ということばを突然聞いても、それはたぶん、わからない。思わず聞き返してしまうことばである。「流転の一刻一刻」も、きっと「会話」のなかででてきたら、この人は何を言っているだろう、ときっと不思議な気持ちになる。(だろう。)「罵声のしぶき」(あ、比喩だ)とか「狂おしく振りはらいながら」にも、おおげさなことばだなあ、と感じるだろう。
だが、この「おおげさ」なことば、「わざと」のことばの動きのなかに「詩」がある。田中は「日常」のことばから田中自身を切り離し、日常を拒絶した「とぎ澄まされた」世界でことばを動かしているのである。
「とぎ澄まされてゆく精神」の世界を、ことばで、ことばだけの力で確立しようとしている。
「北方」というタイトルが象徴的だ。それはある特定の「場」ではなく、「方」なのだ。そこには「場」があるのではなく、「方向」、つまりベクトルがあるだけなのである。「場」がなく、常にどこかを指し示すという行為(精神の運動)だけがある。そういうものを描こう、ことばで確立しようとすると、どうしたって「日常」と同じことばではむりである。「日常」の暮らしを捨てて、ことばを純粋さにむけて駆り立てなくてはならない。
そして、そんなふうにことばを駆り立ててこそ、<永遠>というようなものも見えてくる。
田中の詩が、そういう「とぎ澄まされた精神」の世界を描いているけれど、不思議な夾雑物というか、「透明」「純粋」だけではない何かを含んでいる「肉体」を含んでいる。それは、引用部分でいうと、
である。「発作」「せき」。この、肉体の運動が、精神と拮抗する。「頭」(精神)の純粋な運動だけではなく、そこに野蛮な「肉体」が出てくる。「肉体」の「肉体」による「肉体」の裏切りが出てくる。そういうものは、人間を、ぐいと人間そのものに近づける。
急にせきこんでいる人を見れば、その人が「頭」でどんな純粋な世界を考えているか理解できなくても、あ、いま、せきこんで苦しんでいる、ということが人間にはわかる。人間は、他人の精神の痛みはなかなかわからないが、「肉体」の痛み、苦悩には、すぐに共感してしまう。肉体を見ると、何に苦しんでいるかがわかる。
そういう力を借りながら、「とぎ澄まさ」た「精神」を、底からささえる。「肉体」が言語運動の底力になっている。
こんな堅苦しいことばは、ちょっと読むのに疲れるなあ--と思いながらも、そこに書いてあることばに引きずられ、誘われるのは、「肉体」の底力がことばにみなぎっているからである。その底力が、信頼を生む。ここには、うそが書いてない、と信頼させてくれる。田中は、きちんと肉体を生きた上で、その肉体と向き合うために、強靱な精神のことばを作り上げようとしているのだ。
そして、こういう表現が適切であるかどうかはわからないのだけれど、強靱な精神の運動を展開し、それをことばに定着させる過程で、肉体がふいにでてきて、そこで衝突するとき、とても美しい抒情が輝く。
「永遠」と「せき」(発作)もそうだが、次の部分も、とても美しい。
自然というか、大地というか、いや、地球というべきなのかもしれないが、そういうものと肉体が拮抗し、合体し、宇宙になる。そういう瞬間が美しい。
こういう詩集は、最近は、珍しい。
田中清光『北方』には、日常の会話ではつかわないことばが多い。「北方 Ⅰ」の「一」の書き出しの3連。
向かってくるのはギリヤークの風
骨まで氷らせる寒気の地ふぶき
体のすみずみに
流転の一刻一刻で浴びせられた罵声のしぶき
それを狂おしく振りはらいながら
歩いてきた
とぎ澄まされてゆく精神は
涯てまで行き
発作に襲われる
せきこむのは 誰にも見えない<永遠>
その永遠をのみこもうとするから
死ぬほど苦しくても
吐き出せないこの極北の凶暴の嵐
生来の肋骨の痛み
「日常つかわないことば」。それは「ギリヤークの風」というようなことばを指していうわけではない。辞書を引かないとわからないようなそういうことばも、もちろんつかわないけれど、そうではなくて「意味」がわかるけれど、ふつうはつかわないことばというものがある。
たとえば、「流転」。「るてん」ということばを突然聞いても、それはたぶん、わからない。思わず聞き返してしまうことばである。「流転の一刻一刻」も、きっと「会話」のなかででてきたら、この人は何を言っているだろう、ときっと不思議な気持ちになる。(だろう。)「罵声のしぶき」(あ、比喩だ)とか「狂おしく振りはらいながら」にも、おおげさなことばだなあ、と感じるだろう。
だが、この「おおげさ」なことば、「わざと」のことばの動きのなかに「詩」がある。田中は「日常」のことばから田中自身を切り離し、日常を拒絶した「とぎ澄まされた」世界でことばを動かしているのである。
「とぎ澄まされてゆく精神」の世界を、ことばで、ことばだけの力で確立しようとしている。
「北方」というタイトルが象徴的だ。それはある特定の「場」ではなく、「方」なのだ。そこには「場」があるのではなく、「方向」、つまりベクトルがあるだけなのである。「場」がなく、常にどこかを指し示すという行為(精神の運動)だけがある。そういうものを描こう、ことばで確立しようとすると、どうしたって「日常」と同じことばではむりである。「日常」の暮らしを捨てて、ことばを純粋さにむけて駆り立てなくてはならない。
そして、そんなふうにことばを駆り立ててこそ、<永遠>というようなものも見えてくる。
田中の詩が、そういう「とぎ澄まされた精神」の世界を描いているけれど、不思議な夾雑物というか、「透明」「純粋」だけではない何かを含んでいる「肉体」を含んでいる。それは、引用部分でいうと、
発作に襲われる
せきこむのは 誰にも見えない<永遠>
その永遠をのみこもうとするから
である。「発作」「せき」。この、肉体の運動が、精神と拮抗する。「頭」(精神)の純粋な運動だけではなく、そこに野蛮な「肉体」が出てくる。「肉体」の「肉体」による「肉体」の裏切りが出てくる。そういうものは、人間を、ぐいと人間そのものに近づける。
急にせきこんでいる人を見れば、その人が「頭」でどんな純粋な世界を考えているか理解できなくても、あ、いま、せきこんで苦しんでいる、ということが人間にはわかる。人間は、他人の精神の痛みはなかなかわからないが、「肉体」の痛み、苦悩には、すぐに共感してしまう。肉体を見ると、何に苦しんでいるかがわかる。
そういう力を借りながら、「とぎ澄まさ」た「精神」を、底からささえる。「肉体」が言語運動の底力になっている。
こんな堅苦しいことばは、ちょっと読むのに疲れるなあ--と思いながらも、そこに書いてあることばに引きずられ、誘われるのは、「肉体」の底力がことばにみなぎっているからである。その底力が、信頼を生む。ここには、うそが書いてない、と信頼させてくれる。田中は、きちんと肉体を生きた上で、その肉体と向き合うために、強靱な精神のことばを作り上げようとしているのだ。
そして、こういう表現が適切であるかどうかはわからないのだけれど、強靱な精神の運動を展開し、それをことばに定着させる過程で、肉体がふいにでてきて、そこで衝突するとき、とても美しい抒情が輝く。
「永遠」と「せき」(発作)もそうだが、次の部分も、とても美しい。
北の海はいま青く
そこで叫ぼうとする咽喉が
雪と氷を吹き上げている
自然というか、大地というか、いや、地球というべきなのかもしれないが、そういうものと肉体が拮抗し、合体し、宇宙になる。そういう瞬間が美しい。
こういう詩集は、最近は、珍しい。
北方田中 清光思潮社このアイテムの詳細を見る |