詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光『北方』

2009-08-10 10:30:51 | 詩集
田中清光『北方』(思潮社、2009年07月10日発行)

 田中清光『北方』には、日常の会話ではつかわないことばが多い。「北方 Ⅰ」の「一」の書き出しの3連。

向かってくるのはギリヤークの風
骨まで氷らせる寒気の地ふぶき
体のすみずみに
流転の一刻一刻で浴びせられた罵声のしぶき
それを狂おしく振りはらいながら
歩いてきた

とぎ澄まされてゆく精神は
涯てまで行き
発作に襲われる
せきこむのは 誰にも見えない<永遠>
その永遠をのみこもうとするから

死ぬほど苦しくても
吐き出せないこの極北の凶暴の嵐
生来の肋骨の痛み

 「日常つかわないことば」。それは「ギリヤークの風」というようなことばを指していうわけではない。辞書を引かないとわからないようなそういうことばも、もちろんつかわないけれど、そうではなくて「意味」がわかるけれど、ふつうはつかわないことばというものがある。
 たとえば、「流転」。「るてん」ということばを突然聞いても、それはたぶん、わからない。思わず聞き返してしまうことばである。「流転の一刻一刻」も、きっと「会話」のなかででてきたら、この人は何を言っているだろう、ときっと不思議な気持ちになる。(だろう。)「罵声のしぶき」(あ、比喩だ)とか「狂おしく振りはらいながら」にも、おおげさなことばだなあ、と感じるだろう。
 だが、この「おおげさ」なことば、「わざと」のことばの動きのなかに「詩」がある。田中は「日常」のことばから田中自身を切り離し、日常を拒絶した「とぎ澄まされた」世界でことばを動かしているのである。
 「とぎ澄まされてゆく精神」の世界を、ことばで、ことばだけの力で確立しようとしている。

 「北方」というタイトルが象徴的だ。それはある特定の「場」ではなく、「方」なのだ。そこには「場」があるのではなく、「方向」、つまりベクトルがあるだけなのである。「場」がなく、常にどこかを指し示すという行為(精神の運動)だけがある。そういうものを描こう、ことばで確立しようとすると、どうしたって「日常」と同じことばではむりである。「日常」の暮らしを捨てて、ことばを純粋さにむけて駆り立てなくてはならない。
 そして、そんなふうにことばを駆り立ててこそ、<永遠>というようなものも見えてくる。

 田中の詩が、そういう「とぎ澄まされた精神」の世界を描いているけれど、不思議な夾雑物というか、「透明」「純粋」だけではない何かを含んでいる「肉体」を含んでいる。それは、引用部分でいうと、

発作に襲われる
せきこむのは 誰にも見えない<永遠>
その永遠をのみこもうとするから

 である。「発作」「せき」。この、肉体の運動が、精神と拮抗する。「頭」(精神)の純粋な運動だけではなく、そこに野蛮な「肉体」が出てくる。「肉体」の「肉体」による「肉体」の裏切りが出てくる。そういうものは、人間を、ぐいと人間そのものに近づける。
 急にせきこんでいる人を見れば、その人が「頭」でどんな純粋な世界を考えているか理解できなくても、あ、いま、せきこんで苦しんでいる、ということが人間にはわかる。人間は、他人の精神の痛みはなかなかわからないが、「肉体」の痛み、苦悩には、すぐに共感してしまう。肉体を見ると、何に苦しんでいるかがわかる。
 そういう力を借りながら、「とぎ澄まさ」た「精神」を、底からささえる。「肉体」が言語運動の底力になっている。
 こんな堅苦しいことばは、ちょっと読むのに疲れるなあ--と思いながらも、そこに書いてあることばに引きずられ、誘われるのは、「肉体」の底力がことばにみなぎっているからである。その底力が、信頼を生む。ここには、うそが書いてない、と信頼させてくれる。田中は、きちんと肉体を生きた上で、その肉体と向き合うために、強靱な精神のことばを作り上げようとしているのだ。
 そして、こういう表現が適切であるかどうかはわからないのだけれど、強靱な精神の運動を展開し、それをことばに定着させる過程で、肉体がふいにでてきて、そこで衝突するとき、とても美しい抒情が輝く。
 「永遠」と「せき」(発作)もそうだが、次の部分も、とても美しい。

北の海はいま青く
そこで叫ぼうとする咽喉が
雪と氷を吹き上げている

 自然というか、大地というか、いや、地球というべきなのかもしれないが、そういうものと肉体が拮抗し、合体し、宇宙になる。そういう瞬間が美しい。

 こういう詩集は、最近は、珍しい。 



北方
田中 清光
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(53)

2009-08-10 08:16:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一〇八
むくの実が坂に降る頃
ゴブラン織をあけて
かなしげなる窓を開いて
ぼけた遠山の方へ飛ぶ水鳥
渡し守りの煙草を吸ふのを
眺めてゐると
昔読んだ小説の人々が生霊
の如くやつてくる
一緒になりまた別れる
悪霊を避けよ
苦しき立場
レモン畑
かみそりの歯
猿女房
と次から次へとやつてくる
その辺にゐる本当の人間の方
が幽霊に見える

 「生霊」「悪霊」「幽霊」。これを西脇は、どう読んだのだろうか。「いきりょう」「あくりょう」「ゆうれい」と私は読むが、これでは、「音楽」にならない。音が響かない。と、私の耳、というより、発声器官が、不満の声をあげる。
 「せいれい」「あくれい」「ゆうれい」、「せーれー」「あくれー」「ゆーれー」と読みたい。
 「その辺」は「そのへん」。「へん」と読むと、「ほんとう」「にんげん」「ほう」と音が動く。
 この行をはさむことによって、「いきりょう」「あくりょう」(ほんとう)(にんげん)(ほう)「ゆうれい」と音が変わる--という風にも読むことができるかもしれないけれど、その音の動きは、私にはなじめない。「せーれー」「あくれー」「ゆーれー」「そのへん」「ほんとう」「にんげん」「ほう(ほー)」の方が読みやすい。
 「生霊/の如く」「人間の方/が幽霊」という行のわたりも「れー」「ほー」と、なにかしら、開放した音の脚韻(?)のようなものを活かす工夫だと思う。「わざと」おこなわれている行のわたりだと思う。

一〇九
ゐろりに
アカシアの木をたいてゐた
老人の忘らるるとは

 「ゐろり」「いた」「ろうじん(ろーじん)」「わすらるる」。この、音の動きが気持ちかいい。間にはさまる「アカシア」というし異質な音、「アカシアの木をたいてゐた」のなかの「い」の音の動きと「ろ」の対比。
 あ、「ゐろり」のなかには、最初から「い」と「ろ」がある。
 この詩は、「ゐろり」という音に誘われて動いたことばなのだ。「ゐろり」からはじまる音の変奏なのだ。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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高橋睦郎『永遠まで』(9)

2009-08-10 01:15:53 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(9)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」には「田原に」という副題がついているから、きっと中国を旅したときの詩なのだろう。高橋は、日本の死と中国の死を見つめていることになるのだろうか。

 1
大地が土だけで出来ていることを
ここに来て あらためて知った
土だけの大地の上に 土だけの道
男が 大きな麻袋を肩に 歩いていく
彼の後ろにも 前にも 土の大地だけ
家らしいものは 何も見えないから
とりあえず 男はただ歩いているだけ
大きな袋を担(かた)げて 一足 一足ずつ
生きるとは つまるところ 歩くこと
重い荷物を 担げるか 手に持つしかして

 3行目の「土だけの道」ということばに強くひかれる。周り中土。そのなかに、土だけの道。どうやって道と道以外を区別するのだろう。区別することはできない。ただ、歩くことが「道」をつくることなのだ。それは歩きながら「道」になることでもある。
 その男は「大きな麻袋」を担いでいることになっているが、3行目の「土だけの道」の印象があまりに強いので、私には、その麻袋は「まぼろし」に見えてしかたがない。何も担いでない男しか見えない。(私には、ことばに書かれていることを正確に想像してみる能力が欠けている。)
 男は、自分の肉体だけを、まるで麻袋を担ぐようして運んでいる。もし、大きな麻袋があるとしたら、それはきっと男の肉体の形をした麻袋だろうと思ってしまう。
 そして、私はいま、男は歩きながら「道」になる、と書いたばかりなのだが、いや、そうではなく、男は歩きながら「道」を消して、ほんとうは「大地」に、「土」になるのだと思ってしまう。土になるために、男は歩く。
 では、土になるとは、どういうことか。

 2
小蠅が来る
私が死ぬものだということを 嗅ぎつけて
私が生きていることは 刻刻に死に近づいていること
私が息をしなくなっても しばらくは離れないだろう
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼はもう そこにはいない
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間の最も親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)持つ者よ

 「土」になるとは死ぬことだ。ただ死ぬのではない。「じゅうぶんに死んで 解体して/死ですらなくな」る。それが「土」だ。
 死ぬというのは、「息をしなくな」ることではないのだ。そのあと死を生きて、死を生き抜いて、十分に死ななければならない。--死を生きる、死を生き抜くというのは矛盾したことばだが、この矛盾のなかにこそ、詩がある。
 矛盾しているから、詩なのだ。
 では、死を生きるとはどういうことか。常に死を求めることである。それは、またまた矛盾した言い方になるが、蠅になることだ。「土」になるだけでは不十分だ。「土」になることを見届けたら、こんどは蠅になって、「新しい死の みずみずしい匂い」を求めて、ここを立ち去る。
 そのときの、その新しい死の匂いを求めて旅立つという思想のなかに「透明な 優雅な翅」が潜んでいる。輝かしいものが潜んでいる。ことばでしか、ことばの運動の中でしか、存在し得ない輝かしいものが潜んでいる。

 死とは、常に想像されなければならない。しかも、その死は、固定したものではない。「土」になり、「蠅」になる--という具合に、変わっていく。死を生きながら、想像力は、別のものを生み出しつづける。それが死なのだ。

 私の書いていることは、飛躍が多すぎるかもしれない。たぶん、こういう飛躍の多いことばを誘ってくれるのが「中国」という「大地」(土)なのかもしれない。それは日本の「土」とは違う。そして、そこには日本の死とは違う死がある。
 高橋は、田原の生きてきた中国で、日本には存在しない死を探し、それを生き抜いてみようとしている。

 3
砂漠の中のその樹は 千年を生き
枯死して千年 立ったまま
倒れてなお 千年は腐らぬ という
砂あらしから 樹皮を 自分を護るため
おびただしい髭枝を 周りに垂らし
おびただしい髭根で 土砂を掴んでいる
梢のなかば枯れた葉むらは 風に鳴り
からからと 千の鈴 千の言葉
近く 遠く 囁きあい 呼びかわす
雲多い秋天の下(もと) そよぎの会話は
日の限り つづく起伏の涯の涯まで

 もう、ここでは高橋は「蠅」ではなくなっている。別な死を見つめている。千年死を生き抜く樹木の死。十分に死ぬには千年が必要なのだ。「蠅」のように短い寿命(?)の生き物では、死を千年も生きることはできない。新しい死の匂いを探して、ここから離れ、どこかへ行くしかない。
 けれど、どこまで行っても「土」(大地)なら、どこかへ行くことはどこへも行かないことにひとしくなる。それよりも、どこにも行かないことで千年死を生きる方が、とんでもない「場」へ行ってしまうことになるのかもしれない。
 千年死を生きると、その死は「言葉」になる。
 あ、これは、すごい。
 これは、また、逆に言えば、ことばになるためには、死を千年も生きなければならない、ということになる。
 この千年という時間。この悠久が、もしかすると、中国ということかもしれない。

 死は、千年かけて「言葉」になる。中国の大地には、その「言葉」が「囁きあい 呼びかわ」し、その会話は「そよいでいる」。(「そよぎの会話」と高橋は書いている。)
 「そよぎの会話」の「そよぎ」は、それに先行する「風」ということばが誘い出したものかもしれない。「言葉」の「葉」が風にそよぐ。

 このことばを読みながら、私は、一気にぶっ飛ぶ。

 高橋が書こうとしたことではないかもしれないが……。「そよぐ」は漢字で書くと「戦ぐ」である。中国人である田原は「そよぎの会話」ということばに触れたとき(この詩は田原に向けて書かれている、第一の読者を田原と想定して書かれている)、田原の頭のなかで(肉体のなかで)、どんな漢字が飛び交っただろうか。
 中国でも「そよぐ」という状態をあらわすのに「戦」という文字をつかうのだろうか。そして、その文字から、同時に「戦争」を思い浮かべるだろうか。--私は中国人ではないので、私の感想を書くしかないのだが……。
 「そよぎの会話」。それは「戦ぎの会話」。そして、それは言い換えると「会話の戦争」、「ことばの戦争」。
 死を生きるとは、ことばの戦争を生きることである。
 生きていたときにつかっていたときのことばが、そのことばでは表現できないものにであって、戦う。戦争をする。多田智満子の死を悼んだ作品のなかに、「未知」のむこう、死の世界が愉しみだという表現があったが、それは「未知」とことばで戦う愉しみ、どんなことばなら未知と戦えるかことばを探してみるという愉しみかもしれない。
 「いのち」をかけて、ことばを戦わせる。
 そのとき、ことばの風は、さわやかになる。「千の鈴」のように美しい音を響かせる。きっと、そうだと思う。

 田原でなくてもいい、だれか中国人で「そよぎの会話」ということばを漢字で書くならどうなるか、わかる人がいたら、ぜひ、教えてください。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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