詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田順子「つつみ」「やくそく」

2009-08-13 11:17:19 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「つつみ」「やくそく」(「ガーネット」58、2009年07月01日発行)

 池田順子「つつみ」は、女性の肉体についての詩。

やわらかくちいさなおしりをひざにのせ

   どこから うまれてきたの?


少女は
ちいさなつつみをそっとおいた
やんわりゆわえてあるのだが
ほどくのに
ことばが
あわだっている

 「どこから うまれてきたの?」という問いが、あらゆる子供がもつ疑問かどうか、私は知らない。私は、この疑問を一度も持ったことがない。どこから生まれてきたか、疑問に感じたことがない。気がついたら、知っていた。疑問に思う前に、悪ガキ仲間が教えてくれたということなのだろうけれど、教えられたことに対してびっくりしたという記憶もない。鶏が卵を産んだり、牛が子牛を産んだりするのを、ものごころがつく前に見ていた、ということが影響するのかもしれない。
 ことばよりも前に、事実があったのだ。
 池田の「ことばが/あわだっている」という行に出会って、そんなことを思った。同時に、そうか、ことばをとおしてというか、ことばにすることで人は事実を受け入れていくのか。人は事実を肉体に納得させるのか、とも思った。
 私は産むという性と無関係なせいか(いい加減で、乱暴な言い方になってしまうが)、産む、いのちをつなぐということを、女性が「ことば」をとおして納得している、受け入れているということに気がつかなかった。女性の体験は何度も聞いたことがあるし、読んだこともある。ことばにふれながら、それがことばとは感じたことがなかった。もしかすると、私が読んできたことば、触れてきたことばに対して、そのことばを発した女性たちは「ことば」という意識を持たずに語っているかもしれない、とも思った。たまたま私が接触した女性は、ことばを語るとき、ことばを語っているという意識を持たずに、ただ、「事実」を語っている、体験したことを語っている、と思っているだけなのかもしれなかった。
 池田は、違う。「ことば」を意識している。

ことばが
あわだっている

 「ことば」のなかで、自分を見つめ、自分を存在させようとしている。そしてそれは、冒頭の母と少女の対話が象徴的だが、母から娘へと、しっかりつながっていくことばなのだ。ことばのなかで、少女は、女になり、母になる。そして、少女が女になり母になるのを見つめる。

初めて
あかいはなびらがちっていくのを
ゆぶねでみた
とめるすべもなく
はじらうすべもなく
ちる
はなびら

はなびらが
ちるたびに
うすいひふのおくからうきあがるように
蕾が
うまれて

せまい場所で
土をにぎりしめ
棘をからだの芯につつみ
はなも
蕾も
ちらされた
女(ひと)たちがいた

あらがう
はなびらが
ちるたびに

つつみ

そおっとだきしめる

 「とめるすべもなく/はじらうすべもなく」の「すべもなく」。それは確かに「術のない」ことである。それは、本来ことばと無関係なことがらである。(と、書くと、女性から叱られるだろうか。)それは、いのちの「本能」に属することがらであり、ことばを超越した何かである。またまたいい加減なことを書いてしまうが、それは、人間が考えなくていいことがらというか、ことばを持たない「いきもの」すべてが、ことばにすることなく知っていることがらである。(と、産むということを体験したことのない男である私は、無責任に考えている。)しかし、そのことばの領域を超えた世界を、池田は、ことばにしたいと願っている。
 「ことば」を意識している。
 「すべなく」としか言えない。けれど、そう言うのだ。そう「ことば」にするのだ。そうして、そのことばを超えた世界を、自分の「肉体」そのものにする。さらに、それを共有しようとする。「女(ひと)」と。
 「ひと」には男も女もふくまれるが(と男である私は、無意識に男を優先させて書いているが)、池田にとって「ひと」とはまず「女」である。「女」とことばを共有しようとしている。少女が母に「どこから うまれてきたの?」と秘密を訪ねるように、お風呂で静かに聞いたように、お風呂で内緒話をするように、裸の肉体を接触させながら、小さな声で「女」に語りかける。そういう「ことば」を紡ぎだしている。
 この、静かな親密さと「ひらがな」の関係が、とても気持ちがいい詩である。

 「やくそく」は「指切り」を題材にしているが、この詩にも、ことばと肉体の親密な関係がある。

  ゆびきり
  げんまん
  うそついたら
  はりせんぼんのぉます
  ゆびきった

きったゆびは
いったいどこへ行ったのだろう
(略)

きったゆびが
いまも
どこかで
泣いている気がして
ふっと立ち止まる

陽を抱いて
やくそくを
抱いて

 ことばはときどき「肉体」を裏切る。「指切り」とことばは言うが、指は切られず、いまも肉体にきちんとつながっている。けれど、ことばのなかで、切られた指が失われたまま、どこかで泣いている。
 ことばは、肉体を超える。
 そして、そのことばは肉体によって否定される。(指は、あいかわらず、手の先にある)。それでも、ことばにする。ことばのなかにある肉体を静かに差し出す。

 この悲しみは「愛しみ」と書くべきことがらかもしれない。



LOVE交渉それは16Beatのキッスから
池田 順子
新風舎

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誰も書かなかった西脇順三郎(56)

2009-08-13 07:01:40 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一一六
旅につかれて
村の言葉でよそぞめといふ木の下で
休んでゐた時考へた
杓子の化物を考へた
偉大な神話づくりが
我々の先祖の中にゐた
立ち上がってみると
秋も大方過ぎてゐた

 「よそぞめ」。村の言葉とあるから標準語ではないのだろう。どんな木なのかわからないが、もし、西脇が木そのものに関心があったなら、枝がまがっているとか、葉っぱがくたびれているとか、何らかの描写があっていいはずだ。特に、西脇が「絵画的な詩人」であるなら、そういう描写がなければならない。
 けれども、絵画的な描写はない。
 西脇は、ここでは「よそぞめ」という音そのものに反応している。その音にふさわしい音を展開して楽しもうとしているのだ。「そ」「ぞ」の繰り返し。繰り返しながら、清音と濁音のずれ。ゆらぎ。
 それが「考へた」「考へた」という繰り返し(脚韻)のなかにある。繰り返される「考へた」は2回目は単に脚韻を踏んでいるだけではなく、行のわたりとなって、別の行へ行く。同じ音であっても、そのなかで「意識」がずれる。このずれは、清音と濁音のずれのように、なんだか、意識がむずがゆい。意識がくすぐられる。「中にゐた」「過ぎてゐた」の「ゐた」の繰り返しも愉しい。
 また、「杓子といふ化物」という表現がおかしい。意識の関節が脱臼しそうなおかしさである。杓子が「偉大な神話」というのも、意識の脱臼を誘う。
 こういうずれは、「よそぞめ」という音に出会うことからはじまっている。
 
 西脇の意識を活発にするのは「音」、聞いたことのない音なのだ。

一一八
偉大な小説には
子供の雑記帳に鉛筆で書き始めた
ものがあると誰か言つてゐる
秋のきりん草の中でさう思ひ出した

 「偉大な小説」と「子供の雑記帳」「鉛筆」のとりあわせ、そして、その取り合わせを独立させるような、「ものがある」という行の断絶。「書き始めた/ものがある」という行の展開は、意識の流れを叩ききりながら、繋いで見せる。その一瞬に、その間(ま)に、無意味(ナンセンス)の無垢と空白が輝く。
 空白というより、透明かもしれない。
 それは秋の透明さかもしれない。
 そして、この最終行の透き通った感じは「秋」の「き」、「きんり草」の「き」、「きりん草」の「そう」、「さう思ひだした」の「さう」と響きあう。その音の響きの透明さと、とても似合っている。

 一一九
人間の声の中へ
楽器の音が流れこむ
その瞬間は
秋のよろめき

 これは、音への関心をそのまま書いていて、西脇の嗜好(思考)を知るにはいい断片だが、音そのものは、あまり愉しくはない。
 ことばが「意味」になってしまうとき、音の喜びは消える。ナンセンスな意味の脱臼が音楽には不可欠なものなのかもしれない。





西脇順三郎 (新装版現代詩読本)

思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(13)

2009-08-13 01:16:19 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(13)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「犬いわく」には神と人間の関係をみつめたことばがあるが、私がひかれるのは、後半だ。

彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波が寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつを連れた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ちあがり
愛から 生命が産み落とされたりする

 「言葉でさぐりあう」に、人間は、ことばの生き物であるということが明確に記されている。生きていることを確かめるのもことばなら、死後を生きるのにひつようなものもことばである。
 生きている人間同士がことばをかわし、何かをさぐりあうのが「愛」ならば、死後をことばで生き抜くこと、誰かの死をことばで引き継ぐことも愛になるだろう。そして、それが愛なら、そこから生命が産み落とされる。この生命を「詩」と読み替えるとき、そこに高橋の作品群が浮かび上がる。

歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかはない

 「歴史を自分で満たす」とは歴史を自分のことばで満たすということだろう。他人の死を(他人の生を、というのに、それは等しいのだが)を生きなおすというのは、他人の生と死後をことばでとらえなおすということだ。そのとき、たとえ、他人のことばをつかったとしても、彼(高橋)がそれを繰り返すのだから、そのときは他人のことばであると同時に彼(高橋)のことばにもなる。あらゆることが「彼」(高橋)のことばで満ちることになる。

自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ

 そして、これから先が大いなる矛盾である。自分で完結させないために、そういう願いから、高橋は他人の死後を生きるのだが、他人の死後を生きれば生きるほど、そこには自分のことばが満ちてくる。あらゆる空間に自分があらわれてくる。
 それを超越するには、さらに他人の死後を、次々に生きなければならない。

 どこまで繰り返してもひとり。つまり、孤独。知っていて、高橋は繰り返す。高橋のことばには、どこか死の匂いがするが、それは孤独の匂いと同じものだ。あるいはそれは、完結することば、の匂いかもしれない。
 ことばを完結させないために、つまり開かれたものにするために書けば書くほど、ことばは閉ざされていく。

詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったにちがいない

 これは「詩人を殺す」という作品のなかの行だが、現実に投身自殺する以外にもし自分を殺す方法があるとすれば、それは自分のことばを捨てることである。
 そして、その自分のことばを捨てるということこそ、他人の死後を生きるということなのだが、そう考えると、ここでまた同じことが起きる。堂々巡りがはじまる。

 矛盾。堂々巡り。それを承知で、なお、ことばを動かしていく。それが詩人なのだろう。詩人の仕事なのだろう。矛盾しながら、一瞬だけ、詩人の中でよみがえる詩--それを追い求めるのが詩人の仕事なのだ。



詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
平凡社

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