『旅人かへらず』のつづき。
一一〇
八月の末頃
海からあがり
或る街を歩いた
プラタヌスの葉が
黄色く街路に落ちてゐた
旅役者がカフェの椅子に
よりかかつて何も註文もせず
休んでゐた
裏通りを歩いてみると
流行しだした模様入りのハンカチフを
売つてゐた
チャプリンがかかつてゐた
仏蘭西で初めて仏蘭西語の小説を買つた
坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる
のぼりきつたところに
カンナの花が咲いてゐる家がある
はいつてみると
としま女がだまつて
メーテルリンクの「蜜蜂の巣の精神」とか
いふ本を読んでゐた
何かまちがつてゐるのではなかつたか
時間がなかつたので
馬車に乗つて帰つた
ヴイーナスの頭のついた古銭を
くれる約束をした若いギリシヤ人が
舎利(きり)の壺に瞿麦(なでしこ)をたてたやうな
顔をして笑つた
情景がつぎつぎに動いていく。そのスピードと軽さが気持ちがいい。中央あたりの
坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる
に、こころをひかれる。2行目の「海からあがり」と呼応していて、この2行によって「時間」が反復される。この反復によって、すべてが「現実」(現在)であり、同時に「過去」(記憶)になる。
旅役者やチャプリン、フランス語の小説は「いま」なのか、それとも「過去」なのかわからない。西脇の(この詩の「主役」の)いる場所も「ここ」なのか「記憶」の場所なのかわからない。
これに、日本語の「特性」が加わる。
坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる
のぼりきつたところに
カンナの花が咲いてゐる家がある
「光つてゐる」「家がある」。ここの部分だけ動詞が「現在形」である。日本語は、感情が(意識が)動いている瞬間を書く場合「現在形」をつかう。海が光っているのを見たのが「過去」のことであっても、そのときの情景を「現在形」とし書いても何も不思議はない。
「現在形」「過去形」の違いは、精神の距離なのだ。
いきいきと思い出せば(つまり、距離が近ければ)、それは「現在形」になる。客観的に(?)見るだけの距離があれば「過去形」になる。
感情が、なまなまと動き、海が光っているのをみたときの、その海そのものが見えるなら「光つてゐる」なのだ。海そのものよりも、海をみたという記憶を語るなら「光つてゐた」になる。「家がある」も同じ。「現在形」には、一種の「驚き」がある。驚いて、客観的に見ることができない。思わず、その対象に引きずり込まれる、その瞬間がある。
「現在形」「過去形」は「時制」ではないのだ。あえていうならば「感情の(意識の)距離(空間)制」をあらわすのだ。
時間ではなく、空間。
ここにも西脇の「絵画性」が出ている。こういう部分を読むと、確かに西脇は絵画的な詩人だと思う。そういう意見に賛成するしかない。
感情(意識)の広がり、その「空間」のなかに旅役者、チャブリン、フランス語の小説などが浮かび上がり、それが「空間」の広がりを定義するのだ。
そして、その構造の中に、「現在形」と指摘した4行が入り込むことで、その空間を入れ子細工のように、重層化する。「坂をのぼつて行くと」から「いふ本を読んでゐた」までは西脇が体験したことなのか、それともフランス語の小説に書いてあったことなのか、どちらともとれるのである。
そして。
その構造が、現実なのか、それともフランス語の小説のなかの描写なのかわからなくことに追い打ちをかけるようにして、
何かまちがつてゐるのではなかつたか
という行が登場する。
ここで、詩の世界が「空間」から一気に「時間」にかわる。
「まちがっている」というのは、「現実」ではない。「現実」とまちがいようがない。そこに起きていることが気に食おうが、気に食わまいが、それが起きているなら、それは起きているのだ。「事実」である。その「事実」に対して距離を置くと、それが「正しい」か「間違っている」かが問題になる。
「事実」を反復する。その反復の中に「間」がある。そして、その「間」こそが「時間」の「間」なのだ。
(この「間」を西脇は、とても自由に動かす。そこから「音楽」がはじまる--ということを、私はなんとか書いてみたいと思うけれど、どう表現していいのか、実は、よくわからない。)
詩の世界が「空間」から「時間」にかわった瞬間、それが原因なのかどうかわからないが、「時間がなかつたので」と「時間」ということばが登場するのは、とてもおもしろい。
西脇の意識が、無意識に「時間」ということばをひきだしたのだろうか。
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