詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(54)

2009-08-11 09:31:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一一〇
八月の末頃
海からあがり
或る街を歩いた
プラタヌスの葉が
黄色く街路に落ちてゐた
旅役者がカフェの椅子に
よりかかつて何も註文もせず
休んでゐた
裏通りを歩いてみると
流行しだした模様入りのハンカチフを
売つてゐた
チャプリンがかかつてゐた
仏蘭西で初めて仏蘭西語の小説を買つた
坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる
のぼりきつたところに
カンナの花が咲いてゐる家がある
はいつてみると
としま女がだまつて
メーテルリンクの「蜜蜂の巣の精神」とか
いふ本を読んでゐた
何かまちがつてゐるのではなかつたか
時間がなかつたので
馬車に乗つて帰つた
ヴイーナスの頭のついた古銭を
くれる約束をした若いギリシヤ人が
舎利(きり)の壺に瞿麦(なでしこ)をたてたやうな
顔をして笑つた

 情景がつぎつぎに動いていく。そのスピードと軽さが気持ちがいい。中央あたりの

坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる

 に、こころをひかれる。2行目の「海からあがり」と呼応していて、この2行によって「時間」が反復される。この反復によって、すべてが「現実」(現在)であり、同時に「過去」(記憶)になる。
 旅役者やチャプリン、フランス語の小説は「いま」なのか、それとも「過去」なのかわからない。西脇の(この詩の「主役」の)いる場所も「ここ」なのか「記憶」の場所なのかわからない。
 これに、日本語の「特性」が加わる。

坂をのぼつて行くと
海がうすみどりに光つてゐる
のぼりきつたところに
カンナの花が咲いてゐる家がある

 「光つてゐる」「家がある」。ここの部分だけ動詞が「現在形」である。日本語は、感情が(意識が)動いている瞬間を書く場合「現在形」をつかう。海が光っているのを見たのが「過去」のことであっても、そのときの情景を「現在形」とし書いても何も不思議はない。
 「現在形」「過去形」の違いは、精神の距離なのだ。
 いきいきと思い出せば(つまり、距離が近ければ)、それは「現在形」になる。客観的に(?)見るだけの距離があれば「過去形」になる。
 感情が、なまなまと動き、海が光っているのをみたときの、その海そのものが見えるなら「光つてゐる」なのだ。海そのものよりも、海をみたという記憶を語るなら「光つてゐた」になる。「家がある」も同じ。「現在形」には、一種の「驚き」がある。驚いて、客観的に見ることができない。思わず、その対象に引きずり込まれる、その瞬間がある。
 「現在形」「過去形」は「時制」ではないのだ。あえていうならば「感情の(意識の)距離(空間)制」をあらわすのだ。

 時間ではなく、空間。
 ここにも西脇の「絵画性」が出ている。こういう部分を読むと、確かに西脇は絵画的な詩人だと思う。そういう意見に賛成するしかない。
 感情(意識)の広がり、その「空間」のなかに旅役者、チャブリン、フランス語の小説などが浮かび上がり、それが「空間」の広がりを定義するのだ。
 そして、その構造の中に、「現在形」と指摘した4行が入り込むことで、その空間を入れ子細工のように、重層化する。「坂をのぼつて行くと」から「いふ本を読んでゐた」までは西脇が体験したことなのか、それともフランス語の小説に書いてあったことなのか、どちらともとれるのである。
 そして。
 その構造が、現実なのか、それともフランス語の小説のなかの描写なのかわからなくことに追い打ちをかけるようにして、

何かまちがつてゐるのではなかつたか

 という行が登場する。
 ここで、詩の世界が「空間」から一気に「時間」にかわる。
 「まちがっている」というのは、「現実」ではない。「現実」とまちがいようがない。そこに起きていることが気に食おうが、気に食わまいが、それが起きているなら、それは起きているのだ。「事実」である。その「事実」に対して距離を置くと、それが「正しい」か「間違っている」かが問題になる。
 「事実」を反復する。その反復の中に「間」がある。そして、その「間」こそが「時間」の「間」なのだ。
 (この「間」を西脇は、とても自由に動かす。そこから「音楽」がはじまる--ということを、私はなんとか書いてみたいと思うけれど、どう表現していいのか、実は、よくわからない。)

 詩の世界が「空間」から「時間」にかわった瞬間、それが原因なのかどうかわからないが、「時間がなかつたので」と「時間」ということばが登場するのは、とてもおもしろい。
 西脇の意識が、無意識に「時間」ということばをひきだしたのだろうか。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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高橋睦郎『永遠まで』

2009-08-11 02:42:16 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(11)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「旅にて」のつづき。

 死を生きるとは、死と、ことばで戦うこと--と「そよぎの会話」(戦ぎの会話)から、考える。そうした考えの先に次のことばがあらわれてくる。
 ここからが、壮絶である。

 4
私はまだ じゅうぶんに死んでいないから
月光に誘(いざな)われて 土盛(ども)りの外へ出てくる
死者どうしの媾合で生まれるのは
血液と体温のない赤子だ と知っているから
真夜中の墓原で愛しあおう とは思わない
戸の隙間から しばらく覗いてみて
寝息を立てるあなたの脇に しのび入る
熟睡するあなたに跨(またが)り 精を絞りつくしたら
ふらふらと出て行く 私は胎(みごも)っている
だが何を? 孤児という死児を?
まっ黒な穴のような絶望を?
目覚めたあなたは 私のことなど知らない
私の落ちつくところは 何処にもない
墓の中は暗く湿って 居心地の悪いところ
私を じゅうぶんに殺してください

 「媾合」。しかし、それは愛ではない。戦いだ。相手から「いのち」をしぼりとる。そして、あってはならないものをみごもる。ただし、このあってはならないもの、というのは「生きている」ということを前提にしたとき、つまり、死を生きることを前提としないとき、言い換えると、「現世のことば」で表現すると「あってはならないもの」であって、死を生きるときに、それがあってはならないものかどうかはわからない。
 むしろ、それは死を生きるときに、絶対的に必要なものかもしれない。

 死を生きる、とは、どういうことか、まだだれも知らない。
 その知らないものを書く--死を借りながら書く。ことばを動かす。そこでは、「愛」ではなく、別なものが、暴力が必要である。

私を じゅうぶんに殺してください

 死者をさらに殺すこと、死者は殺されて死ぬときに、死者として生きる--矛盾。私の書いていることは、同じことばが同じことばを追いかけるだけで、どこへも進んでいかない。

 この循環を、むりやり破壊し、打ち破るように、高橋は暴力を描く。愛ではなく、暴力を。「そよぐ」という音とはうらはらに「戦ぐ」という文字(漢字)が連想させる(どこかでつながっている)暴力に引きつけられていく。

 5
墓は 暴(あば)かれなければならない
死者は 鞭打たれなければならない
骨と記憶は 砕かれなければならない
打って 打って 打つ手が痺れきるまで
砕いて 砕いて 砂と見分けがつかなくなるまで
そうしないと 死者は私たちに立ちはだかる
死者は突然 生から疎外されたことで
生きていた時以上に 嫉みぶかくなっているから
嫉みはけっきょく 誰のことも倖せにしない
生きている私たちも 死んだ彼ら自身も
砕かれて 微塵になって 死者はやっと解放される
墓の上を 安らかな天が流れる

 死者を生きることは死者と戦い、死者を「殺す」こと。「殺す」ことによって、すべては引き継がれる。「殺す」--殺す過程で生きる「いのち」が、たぶん「永遠」につづいていくのだろう。

安らかな天

 それは、そのとき、ふいにやってくるものなのだろう。

 しかし、これは何という旅だろう。「大地が土だけで出来ていることを」知ったことからはじまった旅は、死者の存在に気づき、死者を生きることは死者と戦い殺すことだと気がつき、唐突に「天」を発見する。
 「大地」と「天」の間。
 そこにある、「いのち」。
 高橋の詩は、このあと、「大地」と「天」のあいだにある「肉体」を発見する。つまり、死者ではなく、生きているものを発見する。生きている肉体というものは、あらゆるものを「いのち」のなかに取り込み、そして同時に排泄する。
 たぶん、死者をも、殺し、殺すことによって肉体の中に取り込み、存分に、その栄養吸収したあと、残ったものを排泄する。
 暴力--美しい暴力の結果としての排泄。

 6
人は 猿のようにしゃがんで 脱糞する
いきむ わななく 屁(ひ)る 糞(ば)る
いや 猿を汚(けが)してはならない
人は 人として 脱糞する
いきむ わななく 屁る 糞る
脱糞する人は 脱糞することに集中
全身 糞となって 発光している

 死者を殺し、殺すことで、死者になり、発光する。糞(排泄したもの)と糞をする人間(排泄する人間)は、「ひとつ」のいのちである。ひとつとなって、「発光」する。
 田原と出会い、その田原の「風土」である中国の大地に触れ、高橋は、そういうところまで、ことばを突っ走らせた。中国の大地と「戦い」ながら、そこまで、いのちを問い詰めてきた。そうすることで、田原とも中国とも「ひとつ」になった。「ひとつ」になって発光している、ということができる。

 詩は、このあともまだつづくのだが、「全身 糞となって 発光している」ということろまできたら、あとは、その発光している光が照らす風景である。
 最後の4行。

さて 詩人は何をする?
彼はだんまりを決めこむ
言葉に そう簡単に来られても
困るので

 ことば。やってくることばを拒絶するようにして、「発光」後の行は書かれている。私には、そう思える。それから先へことばが動いていくことがあるにしろ、急ぐ必要はない。ことばを拒絶して、もう一度「大地」へ還る時間なのだ。「土だけの大地の上に 土だけの道」へ帰って、高橋は、田原とともに、あらためて「旅」をする。
 いま、書いたことを捨てるために。ことばを「殺す」ために。言い換えると、「旅にて」という詩に書いたことばを超越する新しいことば生むために。

 この旅に終わりはない。終わりはないけれど、ともに歩く人がいるとき、それはきっと愉しい。



十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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