詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沖田修一監督「南極料理人」(★★★★)

2009-08-23 16:47:51 | 映画


監督・脚本 沖田修一 出演 堺雅人、生瀬勝久、きたろう、高良健

 最近、日本の映画には傑作が多い。題材をていねいに描き、細部に人間性を塗り込めるからだろう。人間があたたかい。そのあたたかさが、とてもいい。
 「南極料理人」は、南極の、昭和基地よりももっと奥部(?)の基地での8人の日常を描いている。観測の仕事は仕事としてあるのだが、その紹介は少し。もっぱら、日常を描いている。それも、タイトルからわかるように、食べることを中心にして話が進む。
 そして、この映画は、その料理がとてもうまそうである。食べることが、そこに生活している8人を「家族」にするのだ。同じものを食べる。そのことが人間を家族にする。そして、その一緒に食べるものがうまければ、その家族は、こころが通い合う。たとえけんかしても、こころが通い合う。
 なかには伊勢海老のエビフライというものまで登場する。これは、うまそうではない。前の南極観測隊が残して行った伊勢海老を見つけ、それを料理することになったのだが、ひとりが「伊勢海老といえばエビフライ」と口走ったために、そんなものになったのだ。料理人は他の料理を提案するが、「みんなの気持ちはエビフライになってしまっているからね」と隊長に念押しされてしまう。「伊勢海老は、やっぱり刺身だよなあ」などといいながら、うまくないなあ、としぶしぶ食べるのだが、それもこれも忘れられない思い出になる。同じものを、同じ気持ちで食べた--ということろに、「家族」の一番大事なものがある。「同じ気持ち」。
 これが、最後の最後に、「おいしい」思い出として登場する。
 ラーメン。隊員のなかにラーメン狂いの男がいて、夜食にラーメンをつくって食べていた。食べすぎて、在庫がなくなる。途中からラーメンのない日々がつづく。小麦粉、卵はあるが、カンスイ(?)がない。だから、手打ちもできない……。しかし、あるとき、隊長がカンスイの分子構造を調べ、それと同じ分子構造を、台所にあるものでつくれることがわかる。
 そこで、一念発起。
 料理人がカンスイづくりからはじめ、ラーメンの麺を打つ。そして、待望のラーメンができあがる。全員がそろって食事するのが「家族」のならいだが、ひとり、時間になってもやってこない。迎えにひとりを出す。けれど、待っていたらラーメンが延びてしまう。我慢できない。早く食べたい。ということで、2人が欠けたまま、ラーメンを食べはじめる。「うまい」。至福の時間だ。
 遅れてやってきた2人が、外はすごいオーロラだ。こんなすごいのは見たことがない。というが、だれもラーメンの丼を手放さない。席を立とうとしない。「観測しなくていいんですか?」。いい。観測よりも、ラーメン。食べたい食べたいと思っていたものを、食べたい食べたいという気持ちのまま、一緒に食べる。それは、最高に、うまい。「気持ち」がひとつになるのだ。
 それは、この映画のなかで紹介されたフランスのコース料理や、分厚いステーキよりも、はるかに8人のこころをひとつにする。どんな高級なものよりも、どんな豪華なものよりも、「大好きなもの」が一番おいしい。そして、その「大好き」を分かち合うのが「家族」。「大好き」をちゃんとつくるのが「おかあさん」。
 このとき、堺雅人演じる料理人は、南極観測隊の「おかあさん」になったのだ。最後の食事のシーンでは、堺雅人はエプロンをつけている。昔ながらのおかあさんの恰好をしている。そして、その食卓では、隊長は「おとうさん」をやっている。家族のなかには「おとうさん」と仲違いしている子供もいる。あいさつもしない。それに対して「おとうさん」が文句を言う。それを「長男」が「おとうさん、まあ、いいから、いいから」となだめたりする。ただ仲がいいというのではない。そういう「不協和音」もまじえて、家族の日常というものはある。そして、たとえそういうことがあっても、一緒に食べる、というのが家族なのだ。
 この一緒に食べるから家族--ということには、オチもついている。
 南極から帰ってきて、家族で遊園地へ出かける堺雅人一家。遊園地で、娘の誕生会の話をしながら、ハンバーガーやポテトを食べる家族。照り焼き(だったかな?)ハンバーガーはべとべと。うーん、まずそう。特に、何でも料理できる堺雅人の舌にはあわないんじゃないかなあ。と、思っていたら。「うまい」。
 なぜ、うまいか。
 ちゃんと理由があるのだ。「誕生会には友だちを沢山呼んで、オードブルみたいに、フライドポテトとかいろいろ並べて」というようないかにも子供向きの会のことを母親が話していたら、娘が「そうだ、お父さんが料理つくってよ」という。堺雅人は南極では料理をつくっているが、家ではつくっていない。つくったことがない。妻のつくったから揚げを「二度揚げしないと、べたべたで胃にもたれる」と苦情を言いながら、我慢して食べている。その「お父さん」が、わが家でも「おかあさん」をやることになったのだ。「お父さんが南極へ出張に行ってから、家が楽しくて仕方ありません」というような娘が、父親に「おいしい料理をつくって」と甘えている。おいしいものを一緒に食べたい。それをつくって、と甘えている。このとき、家族がほんとうに家族になった。「父」が「父」からを破って、「おかあさん」になる。その変化のなかに、「うまい」が隠れている。
 それがラーメンであれ、から揚げであれ、フライドポテトであれ、「大好き」なのものをこころをこめてつくり、いっしょに食べる。そのとき、それは最高の味になる。その味が、先取りの夢のようにして、ハンバーガーにかぶりついた堺雅人の口のなかに広がっているのだ。
 最後のシーンは、南極での料理の数々に比べると、付け足しのデザートのようなものだが、ほんとうは、この最後のシーンがメーンディッシュなのかもしれない。とてもいいラストシーンだ。とても気に入った。




笑う食卓―面白南極料理人 (新潮文庫)
西村 淳
新潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も書かなかった西脇順三郎(66)

2009-08-23 06:53:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六一
秋の夜は
床に一輪の花影あり
もろもろの話つきず
心の青ざめたる
いと淋し
『古屏風の風俗画の中にある
狐のやうな犬
遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉
思ひ残る』

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の
女のへそが見たいと云つた
女がある
秋の日のうらがなしさ』 

誰か立ちぎきするものがある

 まだつづきがあるのだが、この作品の「もろもろの話」には、終わりから2番目(ここでは引用していない)の連ににだけ「女」が登場しない。あとは「女」が登場する。ただし、最初の「話」のなかの「女」は絵である。その最初の「話」は屏風絵を題材にしているせいか、とても絵画的である。
 特に、 

遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉

 が絵画的である。「桜と雲の上に半分見える」は屏風絵の描写だが、まるで絵のなかの女がさくらや雲の上に半分頭を出している寺や神社の屋根を見ているような感じがする。まるで、「湯算する女」そのものになって、絵ではなく、実際の風景を見ているような錯覚に陥る。絵の登場人物になったと錯覚するくらい、つまり、西脇の詩ではなく(ことばではなく)絵そのものを見ているような錯覚に陥る。ことばが絵画的だから、そういう印象が生まれるのだと思う。
 また、「秋のまつげのやうな」ということばの中にある「まつげ」が「遊山する女の眼」へ引き返すので、いっそう、絵のなかの登場人物になったような気がする。
 だから「思ひ残る」ということばに触れたとき、自分のこころが、絵のなかの女、遊山する女の中に、確かに思いが残ってしまったのだという気持ちになる。

 次の「話」。その3行目「女がある」は少し変わっている。「いた」ではなく「ある」。存在した、「いた」(いる)という意味で「ある」。「誰か立ちぎきするものがある」の「ある」と同じつかい方である。
 ただし、厳密には、同じではない。「誰か立ちぎきするものがある」というとき、その「誰か」は「男」か「女」かわからない。どんな存在かわからないとき、「いる」ではなく「ある」ということが多い。英語では、こういうとき主語に「he(she )」ではなく「it」をつかい、動詞は「be」をつかうが、日本語では「動詞」の方で「いる」「ある」という使い分けをするように思う。
 ここで「ある」をつかわれると、なんとなく、くすぐったい感じになる。なぜ「いる」(いた)をつかわなかったのか。
 次の行と微妙に関係しているのではないか、と思う。
 「女がある」でことばがおわるのではなく、「女が/ある秋の日のうらがなしさ」という具合にことばが行を渡ってゆくべきなのではないか、という思いが私には残る。
 3行目が「女が」でおわってしまうと、それを受ける「動詞」がなくなるが、詩は、散文とは違うから、そういう乱れはあっていいのだ。「女が……」と言おうとして、その「……」を考えているうちに、次のことばがやってきたので、ついついそれを取り込んでしまった。そういう印象がある。
 「いま」「ここ」の「秋の日のうらがなしさ」ではなく、「ある」秋の日のうらがなしさ。過去を思い出している。思い出している限り、女は、また「いま」「ここ」にはいない。「いま」「ここ」にはいないのだけれど、「秋の日のうらがなしさ」とつながる形で思い浮かぶ。「いま」「ここ」にあらわれてくる。
 だから「ある」なのだ。
 いくつもの「意味」がかさなりあって、「ある」を奇妙な存在感のあることばにかえてしまっている。
 詩、というのは、きちんとした散文にはなれずに、ふいに乱れる意識かもしれない、と思うのである。
 「女がいた」と書けば単純だけれど、そう書こうとする意識をふいに裏切って、ことば自身が動いていくのだ。ことばがことば自身で、ことばの「理想」を実現してしまう。詩人は、それをきちんと受け止め、書き留める--それが詩人の仕事なのかもしれない。





詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金澤一志『魔術師になるために』

2009-08-23 00:03:25 | 詩集
金澤一志『魔術師になるために』(思潮社、2009年07月30日発行)

 私は近視、乱視、音痴である。したがって、といっても理解してもらえるかどうかわからないが、文字があちこちに散らばった作品は、まったく感性に触れて来ない。目がちかちかして、どこに焦点をあわせていいかわからない。どこから読んでいいかわからない。私は音読をする習慣はない。けれども、どうやら口蓋、舌、鼻腔、歯、喉を無意識につかって(耳はつかわずに、という意味である)、ことばを読んでいるらしく、本を読むと非常に喉がつかれる。発声器官の「快感」を基準に読んでいるふうなところがある。
 金澤の詩集は、私のような読み方を許してくれない。文字は散らばり、したがって音そのものも散らばっている。複数の音源から響くさまざまな音を目で見ながら、頭のなかに楽譜を再現するような能力がないと、その「交響楽」は理解できない。私には、そういう能力はまったくない。音楽の「採譜」というのは、私には絶対にできないことのひとつである。--こういう詩は、絶対音感の耳を持ったひとにまかせるしかない。

 私にもかろうじて読むことができるのは「モランディの尺骨」のような、きちんと(?)縦に書かれた詩である。3行から成り立っているのだが、その最後の行。

ふなびとととがびとの恋とがびととととがびとの情まよいびととたびびととゆあみびとこもれびとはまれびとの灯

 「ふなびと」というのは前の行の「ゆらのとをわたるふなびと」という百人一首(この歌は、私は大好きだ)の「ふなびと」を受けているのだが、船に乗るひとは高瀬舟ではないが、罪人である。その罪人の恋。情。罪人(金澤は「とがびと」と書いているのだけれど)は、いわば「迷いびと」。何かに迷い、恋に迷い、正しい道(?)から逸脱して、とんでもない道に迷い込んだひとだろう。それは人生の「旅人」、どこにもない場所へとむけて旅をするひとかもしれない。そういう旅をするにはまず「ゆあみ(湯浴み)」びととなって身を清めるということも必要なのかもしれない。湯浴みの清潔さに、「木漏れ日」(こもれび)の美しさが重なる。湯浴みの、飛び散ったきらきら輝くしぶき(しずく)が「木漏れ日」のように揺れる。
 おっと、木漏れ日ではなく、「こもれびと」だった。
 でも、ここでは「こもれ人」ではなく「木漏れ日と」と読むこともできる。ふいに、ことばが逸脱していく。それこそ、ことばがそれまでの論理を外れ、迷っていくように。
 これは、「誤読」? そうかもしれない。そうに違いないのだけれど、私は何度も書いているが「誤読」が大好き。「誤読」するために本を読む。
 「木漏れ日」はなんのための輝きだろう。金澤は「まれびとの灯」と書いている。「まなれ」な「ひと」の灯す明かり。輝き。
 あ、そうかもしれないと、私の想像力は勝手に飛躍する。罪人は、とてもまれな人。それは俗人が手にいれることのできない「輝き」をもっている。罪人こそ輝かしい。その罪人の恋とは、世界で一番輝かしい恋ではないだろうか。
 --こうした読み方は「誤読」だろう。「誤読」に違いない。けれど、私は、そうい「誤読」がやめられない。そして、この1行には、そういう「誤読」を誘うように、ひらがなのかたまりがうごめいている。ひらがなの「びと」「と」「が」が入り乱れて、簡単には「意味」にならない。私は便宜上、漢字をあてて、私の「誤読」を説明したけれど、私の口蓋は、舌は、喉は、繰り返される音のなかで、たださまよう。さまよいながら、複数の意味を行き来する。つまり、意味を否定しながら、意味をさがし、さまよい、意味に出会うたびに、それを叩き壊し、音そのものを口蓋に、喉に、舌に、歯に、触れさせながら、あ、この早口ことばみたいなことばは気持ちがいい、と感じる。

 こういう詩ならば、何篇でも読みたい。



魔術師になるために
金澤 一志
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする