詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(68)

2009-08-25 10:33:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六四
めざめる夢をみる男の如く
ねむられず夜明前
露の間(ま)の旅に
何人の山の家か知らねど
白いペンキの門をくぐり
坂をのぼった
東南に傾いた山
青磁色の山々が地平に
小さく並んでゐる
そのテラスの上に
水つきひからびた噴水の
真中に古さびた青銅のトリトンの
淋しくしやがんでゐる
水なきふくべの如く
香水の空瓶の如く
鎗さびの五月の朝

 視点がすばやく動いていく「絵画的」な詩である。同時に、また、音も非常におもしろい。
 「東南に傾いた山」。これは何でもないことばのようだけれど、山の傾き(稜線?)が東南に延びているということを描写しただけのような感じがするけれど、読み終わるとなぜか頭のなかに「とうなん」という音がよみがえってくる。
 なぜか。
 「真中に古さびた青銅のトリトンの」の「トリトン」が異質な音で、その「トリトン」と「とうなん」が響きあうのだ。そして、いったん、音が響きあうと、「絵画的」な詩が、ことばの数々が、突然「音楽的」にかわる。
 「青磁色の」「青銅の」、「水つき」「水なき」、「ひからびた」「古さびた」、「古さびた」「鎗さびの」。そして、「の」の繰り返し、「如く」の繰り返し。
 この詩は、「東南に傾いた山」の「東南」ということばが西脇に訪れたときから、突然、駆けだしたのだ。
 その証拠、というのも奇妙な言い方になるが。

そのテラスの上の

 の「その」。「その」は何を指し示すか。「山の家」。「南東の山」へ動いた視線が、突然、「山の家」にもどり、その「テラス」にもどり、近景のなかで、音が響きあう。視線を遠景から近景に引き戻すための「その」。
 これは音が響きあう「近景」をすばやく引き寄せる、粘着力のある力で引き寄せるための「その」なのである。

 後半は、その家の窓の描写から、女の描写(想像の女の描写)へと動いていくのだが、そこでは「か」という音が印象に残る。

家の窓は皆とざされ
ただ二階にひとつあく窓
花咲くいばらの中から外へ開かれ
鏡台のうしろが見える

 「二階」というのはふつうのことば(?)だが、その「か」が、その直前の「ただ」という濁音、「とざされ」という濁音をふくんだことばのあとでは、非常に開放的な響きである。「閉められ(しめられ)」や「二階にひとつだけあく窓」では「か」が死んでしまう。「とざされ」「ただ」だから「二階」の「か」が美しい。
 その開放的な響きを引き継いで「中から外へ開かれ」という説明的な、散文的なことばが、突然、明るい音楽にかわる。
 途中を省略して、

夢を結ぶ女の住むところか
この荒れ果てた家に
うれしき夢の後かまた
ねむれずにか早く起きて
髪をくしけずる
女(ひと)の知りたき
蜜月の旅のねどこか

 「疑問」の「か」の連続。疑問だけれど、深刻ではない。軽い。軽々と飛んで行く連想である。「か」の音のない「この荒れはてた家に」という行には、「か行」の「この」が挿入されている。「その」テラスと同様、「この」家の「この」もなくてもことばは動く。意味的には「この」以外にはあり得ない(あの、そのと離れた場所にある家ではあり得ない)のだが、そのわかりきった「この」を音楽のためにつかっているのだ。「か行」の音がないと、ことばの「間(ま)」がだらしなくなる。

 音へのこだわりは、最後の行にも象徴的にあらわれている。

ばらの実の
いとほしき生命の実の
ささやきのささやきも
葉をうつ音永劫の思ひ

 「葉をうつ音永劫の思ひ」のアキなしの連続したことば--連続させることで、隠された「音」という「意味」と「音」。



西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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北野丘「草冠川」「樞 くるる」

2009-08-25 00:09:06 | 詩(雑誌・同人誌)
北野丘「草冠川」「樞 くるる」(「榎の木の下で」2、2009年08月発行)

 北野丘「草冠川」。私は2か所、つまずいた。嫌いな音があった。全行。

夏の萼(うてな)が 揺れるたび
風は 梢にとまり

カガヤキノイタダキデ
よぞらを裂くの

マタタクカラユレナイ草
霧(き)れない野 カタコユリ

小舟の水尾は
むらさきで打たれるの

岸は水に
コトリ ほどけて

瑠璃 さえずる 
まわるカガヤキ 草群がる川

 「カタコユリ」の音の美しさが、「岸は水に/コトリ ほどけて」のなかでよみがえり、「コトリ」が最終連で「瑠璃 さえずる」に変わって行くのはとても楽しい。
 そのほかのカタカナの部分も、「いま」「ここ」から逸脱していく感じが楽しい。足で大地を蹴って、「いま」「ここ」を逸脱するというよりも、宙にあるものを想像力の手で掴んで「いま」「ここ」から離脱するという感じがとてもいい。
 けれど。
 たぶん、私だけの好みなのかもしれないけれど、「よぞらを裂くの」「むらさきで打たれるの」の「の」が、ちょっとがまんがならない。嫌いだ。とても嫌いな音だ。重たい。重石になっている。
 宙にあるもの(それは高みだけとはかぎらない。はるか遠くの、水平線上に遠い「宙」というものもある)をつかみ、離脱しようとする想像力を引きとどめる「声」である。北野が無意識に依存している「肉体」である。「口癖」にこめた「意味」である。それを意識しているか、意識していないか。よくわからないが、そうした「口癖」は、私にはことばの自律運動をじゃましているように感じられるのである。
 そうした「口癖」のようなものを振り切ったところで、自由に動く何かがある。「口癖」は、自由に、ある方向性を与える。もちろん、自由にも方向性があっていいのだと思うけれど、そういうときは、2回の「の」くらいではなく、 100回、 200回の「の」が必要なのではないだろうか。それくらい出てくると、好き嫌いは別にして「肉体」がはっきり見えてくる。納得できるものになる。けれど、ちらりと覗いただけの(覗かせただけの)「肉体」は、なんだか、人目をひくだけのもののような印象が残り、私は好きになれない。いや、好きになれないではなく、やっぱり嫌いだ。

 「樞 くるる」という作品もカタカナの部分がおもしろい。作品の後半。

ワタシハ誰カ マダ誰モ居ナイ
ワタ沁ミ出テ 月ニ光レバ

波がくれば 窪の底
揺らぐ音に 絡操(からくり)

 「ワタ沁ミ出テ 月ニ光レバ」の「ワタ」とは「腸(内臓)」のことだろうか。そうなのかもしれないけれど、「ワタ沁」を私は思わず「わたし」と読んでしまう。「わたし」というものが沁み出る。
 「ワタシハ誰カ マダ誰モ居ナイ」の「誰モ居ナイ」は「わたし」すらいないという意味である。まだ「わたし」は「わたし」になっていない。「ワタシハ誰カ」と問わずにいられないのは、「わたし」がまだ「わたし」になっていないからだ。そして、そう気がついた瞬間、その気づいたことがらを裏切るように「わたし」が沁み出て(滲み出て?)、月光に輝く。
 そし、そのあとなのだが。
 私は、またまた、「誤読」をしてしまった。完全に読み違えてしまった。

揺らぐ音に

 を、揺らぐ「昔」に、と読んでしまった。「わたし」になっていない「わたし」にさえ、すでに「わたし」という「昔」があり、「わたし」が沁み出てくれば、その「昔」(過去の時間)が揺らぐ。
 「からくり」というのは、一般的(?)には「絡繰」と書くように思うけれど、北野は「操」という文字をつかっている。「誤植」かもしれないが、「ワタ沁(ミ出テ)」は「腸が沁み出て」ではなく、「わたしが沁み出て」と読ませようとして書いているのだと判断しているので、ここでも北野は「わざと」繰るではなく、操るをつかっているのだと思いたい。
 「わざと」なのだから、「沁ミ出テ」も「わた(し)」が自然に出てくるというよりも、北野が操作(繰る、ではない)して、やっているのことなのだと読んでしまう。
 操るのは、「昔」である。「過去」である。ひとは愛し合うとき、自分の過去さえ操作して、違うものにかえてしまう。かえてしまうのだけれど、そこにはどうしたって、ほんものの昔(過去)が、それこそ沁み出てきてしまう。
 愛を語って、なかなかおもしろい行だなあ、と私は感動したのである。
 ところが、そのあと、最終連。

鴨居は紅く
男が流れつく昔

 あれ、「昔」がここに。そうすると、さっきのは何? 「音」だった。あ、なんだかとてもつまらなくなった。「音」と「昔」は入れ換えた方が絶対におもしろいと思う。入れ換えると、最初の2連も、とてもおもしろくなる。

渚に消えた匂いを
林で愛しあう百葉箱の時限

テトテト
テトテト

 「テトテト/テトテト」がなんなのかわからないのだけれど、最終行がもし「男が流れつく音」ならば、その音に違いないと思うのである。これが「男が流れつく昔」だと、未練っぽくなる--と私は思う。
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