『旅人かへらず』のつづき。
一四九
夏の日は
青梅の実の悲しき
いたどりの国に生れ
おどろの路に迷ふ
鐘のない寺の屋敷を通りぬけ
朝顔の咲く垣根を過ぎ
もずの鳴く里を通り
雨の降る町に休み
たどたどしく歩み行く
むぐらの里に
茶をのみかはす
せせらぎの
女の
情流れ流る
「おどろの路にまよふ」の「路」は何と読むのだろう。「みち」か。私は「ろ」と読みたくなってしまう。「国に生れ」(くににうまれ)「路に迷ふ」(みちにまよう)はリズムはそろうのだが、「いたどり」の「ど」き「おどろ」の「ど」が響きあったあとでは、「おどろ」の「ろ」と「路(ろ)」を一緒に響かせてみたくなるのだ。そのためなら、「国に生れ」を「くににあれ」と読み、「ろにまよう」とリズムを合わせてもいいじゃないか、とさえ思う。
この詩は、歩いていくリズムがとても速く、「休み」ということばがでてくるのだけれど、少しも休んだ気がしない。休んだついでに何かをじっくり観察する、という具合ではないからだ。逆に、休んだために、リズムが狂い「たどたどしく」なるのがおかしい。そして、この「たどたどしい」には「いたどり」が隠れているのがうれしい。きっと、そこには「杖」も隠れているのだろう。「いたどり」は「虎杖」であるのだから。
最後の方の「茶をのみかはす」には、「いたどり」に「杖」が隠れているのと同じように「かはす」に「かわず」(旧かなでは「かはず」)が隠れているのだろう。だから、すぐに「せせらぎ」が出てくる。
音がなだれて、音の流れのなかで情景が急展開する。それが、とてもおかしい。
最後の「情流れ流る」は「じょう・ながれ・ながる」と読むのだろうか。「なさけ」ではないと思う。「流れ流る」と繰り返したのは、きっと音をもう少し愉しみたかったのだろう。
一五〇
斑猫の出る街道を
真向きに茜を受け急ぐ
尖塔の町に行きつかず
茶の生籬と南天の実のつづく
やがて
まきのまがきから顔を出した
女に道をきいてみた
正反対に歩いたのだ
「まつすぐに戻られよ」
西脇の漢字とひらがなのつかい方はずいぶん奇妙である。漢字で書いてよさそうなことばがひらがなだったりする。(むさし野、とか。)
この詩では「生籬」という妙なことばがある。私はいいかげんに「まがき」と読んでいた。「一四〇」の「むくげの生籬をあけ」も「まがき」と読んでいた。「生」の字を省略して、まあ、「意味」を勝手に優先させていたのだが、「生籬」は「まがき」と読むのではないのかもしれない。
この詩では「茶の生籬」のほかに「まきのまがき」ということばがある。「まがき」と読ませるのなら、同じ断章で書き分ける必要はないだろう。
では、なんと読むか。「なままがき」と読んでみたい。早口ことばみたいだ。早口ことばみたいで愉しい。「なままがきとなんてんのみのつづく」(このとき「が」は鼻濁音でなくてはならない)。あ、すらりと言えたときの快感。「まきのまがきからかおおだした」も同じような快感がある。
そんな早口ことばで遊んだあと、「まつすぐに戻られよ」と言われると、あそんでないでさあ、とたしなめられたような、笑いだしたい気持ちになる。
「はんみょう」を「斑猫」と漢字で書いているのも、「生籬」とおなじように、奇妙にこころをくすぐられる。
西脇順三郎 変容の伝統新倉 俊一東峰書房このアイテムの詳細を見る |