詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部幸織「ティンパニー」

2009-08-28 16:19:50 | 詩(雑誌・同人誌)
阿部幸織「ティンパニー」(「読売新聞」2009年08月28日朝刊)

 読売新聞の「くらい」面に「こどもの詩」というコーナーがある。そこに載っていた作品。阿部幸織「ティンパニー」の全行。

すいそう楽を見たよ
えんそう中にならしていた
ティンパニー
さつまいもを
わぎりに切った形だったよ
さつまいもをたたいたら
どんな音がでるのかな

 音楽は聞くものであると同時に見るもの。見て楽しくなる音楽も確かにある。阿部幸織は「すいそう楽を見たよ」と1行目に書いている。この素直さに引き込まれてしまった。「見る」とうことから音楽に近づいていって、最後に「さつまいもをたたいたら/どんな音がでるのかな」と音にたどり着くのもおもしろかった。
 しかし、それよりも楽しいのは、長田弘の感想。

 輪切りの形はティンパニー。ほかほかホルン。細長ならクラリネット。吹奏楽器なんだ。さつまいもは。

 どんどん楽器が増えていく。視覚が楽器を増やして行き、音が増えてゆく。そして、音楽になってゆく。音と音とが互いの音を聞きながら、自分の音を出す。和音ができ、メロディーが生まれる。リズムが生まれる。
 長田弘は、こどもの感性にあわせて(こどもだけではないだろうけれど)、音楽を生み出すことができる人だ。
 批評とは、作品の音、メロディーを、こんな風に育てていくことだ――読みながら、はっとさせられた。

 楽しくなって、詩を読み返した。そして、私は脱線した。「誤読」した。2行目。「えんそう中にならした」。「さつまいも」が頭にあるためか、「おならした」と読み違えてしまった。みんなが演奏中におならして、おならの合奏が始まると楽しいかもしれない。太った人、痩せた人、背の高い人、低い人、立った人、座った人、たくさん食べた人、少ししか食べなかった人、思いっきりおならする人、はずかしそうにおならする人、いろんな音が混じり賑やかな笑いがひろがるだろうなあ。





長田弘詩集 (ハルキ文庫)
長田 弘
角川春樹事務所

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誰も書かなかった西脇順三郎(71)

2009-08-28 07:27:47 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六七
山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲り角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取つてみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「春かしら今頃」。この1行がおもしろい。倒置法によって、ことばが緊密につながっている。そして、その「今頃」は実際に結びついているのは「春かしら」ではなく、「(花の)満開」である。書き出しから「春からしら」までの4行がゆったりと動いているのに対して、「春かしら」から「満開」までは、精神が(意識が)急激に動く。凝縮して動く。そして、その凝縮そのものが「春かしら今頃」という切れ目のないことばになっている。
 こういう精神の凝縮は誰でもが体験することである。そして、それは「錯覚」(勘違い)であったりすることが多い。錯覚や勘違いとわかったとき、ふつう、ひとはそれを訂正して(修正して)書くが、詩人は、そういう錯覚、勘違いのなかに「詩」があると知っているから、それをそのまま書き留める。

花の満開
折り取ってみれば
こほつた雪であつた

 これは古今集からある「錯覚」の詩。梅に雪、花かとみまごう雪、という例がある。これに対する次の行が非常におもしろい。

これはうつつの夢
詩人の夢ではない

 すでに定型化されたことばの運動、定型化された錯覚は「詩人の夢」、詩人がめざす詩ではない、というのである。そして、その詩人の夢ではないものを「うつつの夢」、「現実が見た夢」と否定している。「うつつ」とは、このとき「日常」にもつながるだろう。「日常」とは「定型化」した「時間」である。
 西脇が詩でやろうとしていることが、ここに、正確に書かれている。
 定型化したことばの運動が描き出す「美」は詩ではない。それを破っていくものが美である。「日常」「現実」を破っていく美--それが、詩である。

 最後の3行、

夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「うつつの夢」、見てしまった夢(つまり、ある意味で実在してしまった夢)のことなのに、その夢のなかにでできた「季節」が気にかかる。季節というものに反応してしまう。そのことを「淋しき」と、西脇は書く。
 西脇の美意識は、一方で日常を破壊することにあるけど、他方で人間の力のおよばない季節(自然、無常)というものにも反応し、それが気にかかる、という。
 これは、西脇の美は、日常を破壊するけれども、その破壊の仕方は、世界の存在を支えている時間(永遠)を無視するものではない、ということを別のことばで表現したものである。
 日常(現実)を破壊するけれども、永遠は破壊しない。むしろ、日常を破壊することで、永遠を誕生させる--そういうものを詩と考えていることが、ここから読みとることができる。
 日常(現実)を破壊し、永遠を誕生させるという二つのことを同時にやるのが、幻影の人、永劫の旅人なのだ。




西脇順三郎全集〈第6巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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霧山深「わたしにさわってはいけない」ほか

2009-08-28 01:17:19 | 詩(雑誌・同人誌)
霧山深「わたしにさわってはいけない」ほか(「橄欖」1、2009年07月01日発行)

 「橄欖」は瀧口修造研究会報。瀧口の故郷、富山で発行されている。何人かが、それぞれ瀧口に触発されて作品を書いているのだが、そこにひとつの共通したものがある。

ある地点から俯瞰した森の眺望。出口も入口ももはや見つからぬ。
転落も上昇もない。ただ永遠の彷徨と反復。
             (霧山深「わたしにさわってはいけない」)

詩の中へ入って行こうと思うのですが
どこから入ればいいのか入り口が見つからず
さっきから顔を近づけて探しているのです
             (尾山景子「リボンをほどく」)

 十二月。昨日降った雪がとけて、地下へたらたらしみこんでゆく。タイピングはただそのことだけを習熟してゆく。五月女(さおとめ)のように前のめりに。ふだん人は、地面の下のことをどれだけ意識しているか? 時間を物差しで測れば、人の一生など花びらの厚みほどもない。重畳たる第四紀二〇〇万年もの時間に、忘却された多くのものが無名の書として降り積もる。薄くのばされた一頁に、ひとたらしの現像はただ密かに行われる。現れるのは、異界の入り口。
             (寺崎浩文「大塚の雪景をゆく」)

 「入り口」ということばが出てくる。瀧口の作品に、だれもが「入り口」を見ている。何の入り口? シュールレアリスム。現実を超えた世界への「入り口」だろうか。
 私は、実は、シュールレアリスムというものが、まったくわからない。理解できない。どこが「シュール」なのか、なぜ「シュール」と定義するのか、それが理解できないのである。
 だから、「シュール」ということばは、ちょっと、脇にどいていてもらうことにして、瀧口をどうとらえていたか--そのことだけを、見ていく。
 最初に読んだものに、私はどうしても影響を受けるのだが、霧山深「わたしにさわってはいけない」が、私には一番おもしろかった。特に、最初の部分が。

イメージはすでにそこにあった。一挙に。一目瞭然として。
なにか無法な侵入者のように。目にさわる、刻一刻、心を搏つ力として。
「さわるな」という命令をもって、固く拒むもの。障りへの怖れか、危険の予告か。
だが、あらゆる禁止はひとつの挑発あるいは誘惑なのだ。
さわられたものは常に、即座にさわり返す。つめたい膚に残る他者の指の
仄かなぬくもり。

 イメージがそこにある。そこにあることによって、「入り口」を隠す。隠すから、それが「入り口」になる。--私は、そう思う。そして、そのことはシュールレエリスムであろうか、なかろうが、すべて同じである。
 あらゆるものは、そこにある。そして、それは常に「入り口」を隠すことで、「入り口」になる。それ以外に、存在のしようがない。
 このことを霧山は「さわる」ことをとおして検証している。イメージは、目にさわる。目は、イメージをさわり返す。そのとき「さわり」が「障り」になる。目でさわるときにさえ、その視線に、何か余分なもの(?)が紛れ込み、正確(?)にはさわれない。何か、そこに「歪み」のようなもの(個性、と私は思うのだけれど)が紛れ込む。
 そして、そこに「交渉」がはじまる。さわり、さわり返すという交渉が始まる。その交渉の中に、何かが残る。

つめたい膚に残る他者の指の/仄かなぬくもり。

 「他者」が残る。「つめたい」と「ぬくもり」という対極にあることばが印象的だが、「他者」はいつでも「対極」にあるもの、あらゆる存在が「対極」をもつということを教えてくれる。その「他者」へむけて、自己を解体しながら近づく。それが、あらゆる「芸術」の思想というものだと思う。拒まれれば拒まれるほど、自己解体の作業は忙しくなる。自己を徹底的に解体しないことには、「他者」にはふれることができない。
 瀧口は、そういう自己解体をしつづけた芸術家だと私は思っている。自己解体をしつづけ、ついには自己が「他者」になる。
 そして、その解体のなかには、「入り口」の解体もふくまれるから、どうしたって、そこには「入り口」など、ないのである。解体そのものが、「入り口」を隠した「入り口」なのである。
 --私の書いていることは、矛盾である。
 しかし、矛盾でしか説明できないものがあるのだ。

 霧山は、いくつものイメージの霧山自身を解体している。しかし、「他者」にはなっていないように、私には感じられる。「他者」であるより、解体することで、より「自己」になっている--そういう印象が残る。

 1
腐食した鉛色の骨片のいくつかから、月明のなかで死者の容貌を占う。
誰なのだ、おまえは?

 2
ひたひたと波打ち寄せる渚を見みろす。地熱に溶けてゆく氷河の断崖。

 3
ひしめく樹氷の森をぬけ、冥界へ、冥界へ。霊の森の梟が鳴く暁。

 4
釣り上げられた魚の目に映る冬の渓谷。

 あ、だんだん、俳句になってゆく。「イメージはすでにそこにあった。」というのとは違った感じになっていく。拒絶ではなく、「和解」が残る。
 まあ、これは霧山も気づいていることなのかもしれない。
 必死になって、その「和解」から逃亡しようとしている。瀧口を脇においてしまえば、その逃亡の部分が、おもしろい。そして、ここから「他者」への脱出(?)が始まる。

 6
ワタシハコノ青イ岩盤ヲ貫通スル弾丸デアラネバナラナイ。

 7
雪氷の谷が果てしなくつづく。おまえははたして逃亡者なのか、追跡者なのか?

 8
叫べ!青い樹木が呼び声に応じて立ち上がり、伸び上がる。沈黙の谺。

 9
雪崩、あるいは滝壺への転落。思考は常に挫折する。そのとき

 10
やあ、新たな夜明けの眺めだ。亡霊たちが整列している。

 「9」の最後の「そのとき」が魅力的だ。「そのとき」というのは一瞬のことだが、その一瞬は完結していない。別なことばで言えば、そこでは何かが「建設」されているのではなく、いま「建設」したばかりのものが、一気に「解体」されている。
 「そのとき」というようなことばは、きわめて散文的である。詩から遠い。何かを説明するための、一瞬の「立ち止まり」である。停止である。
 しかし、ここに私は、強い詩を感じる。霧山の詩を感じる。それまでの屹立するイメージとしてのことば、いわば「現代詩」が「そのとき」ということばの一瞬、解体してしまっている。「そのとき」はイメージではない。そして、イメージではなくなることによって、そこに詩が出現している。
 うまく言えない。
 「そのとき」ということばの一瞬、霧山のなかにあるエネルギー、霧山をつくっているもの、瀧口を追いかけているものが、何かではなくなる。「イメージ」をもったものではなくなり、「イメージ以前」のものになる。そういう「イメージ以前」のものこそ、「他者」と呼ばれるのもだろう。「イメージ」になってしまえば、「他者」ではなく「知人」なのだ。

 言いなおそう。突然、飛躍してしまおう。

 「知人」(あるいは「友人」)を殺してしまう。「他人」にしてしまう。そうすることで、自分自身も「他人」になってしまう。それが、詩であり、それが芸術である。そのとき、「シュール」かどうかなんて、関係がない。「シュール」ということばにとじこめると「他者」は「知人・友人」になってしまう。そんなことは、瀧口は望んではいなかっただろうと思う。
 --また、詩の感想からは遠くなってしまったかな。
 まあ、いいか。私の書いているのは「日記」である。そして、「誤読」の記録なのだから。





シュルレアリスムの哲学 (1981年)
フェルディナン・アルキエ、霧山深・巌谷國士訳
河出書房新社

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