ホセ・ワタナベ『ホセ・ワタナベ詩集』(細野豊、星野由美共編訳)(土曜美術出版販売、2017年06月30日発行)
ホセ・ワタナベという詩人の作品を読むのは初めてである。初めて読む作品は、とても印象に残る。
『ホセ・ワタナベ詩集』の最初に掲載されているは「友人たち」という詩。
書き出しの「アーモンド・アイスクリーム」がこの詩を決定づける。「アイスクリーム」では「味」にならない。「アーモンド・アイスクリーム」という「固有名詞」が「味」になり、それが「喉」という「肉体」を刺激する。ことばを読むと、「アーモンド・アイスクリーム」の「味」が、そのまま私の「肉体」の奥からよみがえってくる。「喉」によみがえってくる。
「アーモンド・アイスクリーム」の「味」なのか、「喉」の「記憶」なのか、わからない。この「一体感」が楽しい。
そうすると、次に出てくる「ロレンソ」が私の知らないはずの人間なのに、「肉体」として出会ったことがあるような気がしてくる。「架空の人物」ではなく、一緒に生きてきた人間として「わかる」。いっしょに同じものを食べて喜びを感じた人間として「わかる」。彼もまた「喉」に「アーモンド・アイスクリーム」の味を思い出している。そう感じて、知らない人間なのに、知っていると勘違いしてしまう。
その彼が「思い出」を「歳月」として語る。「思い出」と言わずに「歳月」というところが、とてもいい。「アーモンド・アイスクリーム」が「固有」の味なのに、「歳月」は「固有」の思い出ではない。「時間」という「抽象」である。「具象」が「抽象」へすばやく動いて行き、ことばの「動ける領域」を一瞬のうちに広げてしまう。活性化する。
このあと、ことばはもう一度変化する。
「木の葉が落ちるときの時間」というときの「時間」は「抽象」でありながら、「木の葉が落ちる」によって「具象」になる。「気づかなかった」ということばが、その「抽象」と「具象」をさらにかき混ぜる。「木の葉が落ちる」とき、その「落ちる」という動詞と一緒に「時間」が動いている。「時間」が「過ぎている」。それは言われてみればそうだが、ふつうは気づかない。その普通は気づかないことを「気づかない」と書くことで気づかせる。この「矛盾」のようなもののなかに、「抽象」と「具象」が衝突し合っているのを感じる。
これは、振り返ってみれば書き出しの「アーモンド・アイスクリーム」もそうなのだ。「アイスクリーム」だけでは、一種の「抽象」。そして、それが「抽象」であると気づくのは「アーモンド・アイスクリーム」と「具体的」にことばにされた瞬間におきる変化でもある。
「抽象」のことばが「具象」となってあらわれ、動き始めるその瞬間が、たぶん、詩なのだ。
詩のつづき。
「マルサス主義」を私は知らない。もちろん読んだことはない。だが、といえばいいのか、だからといえばいいのかよくわからないが「読んだことがない」ということが「わかる」。
必要なものを「読んだことがない」。そうすると、何かをするときに「不利」である。「職探し」だけではなく、学校のテストでも。そういう「苦労」を「肉体」はおぼえている。そういう「おぼえていること」が、ホセの詩に誘われて動き出す。
三連目の「会話」は、ほんとうは深刻な問題である。しかし、そういう深刻な問題も、若者は「軽口」のようにして言ってしまう。そのときの「頭の動き」が、また「感情の動き」が、そのことばと一緒によみがえる。
私が体験したことがそのまま書かれているのではないけれど、「経験」がかよいあう。「共通する」。そうすると、その共通する経験が、そこに書かれている「感情」を「共有する」に変わる。
「具体的なことば」(会話そのまま)が、そこに書かれている「抽象的なこと」を「具体的に」かえて、「共有された感情」へと変化するのだ。
しなければなはないことは、たくさんある。しかし、そのしなければならないことをしないで、公園でおしゃべりしてしまう。そういう「青春」の時間が、ぐいっとせまってくる。
私の「青春」ではないのに、私が体験したことのようだ。
こんな感じを引き起こしてくれる詩が私は好きだ。
こういう「抒情」は古いかもしれない。現代の日本では書かれない。昔、1970年代に書かれた詩に似ているなあ、と思ったら、「友人たち」は1971年に発行された詩集のなかの作品だった。世界のことばは、どこかで共通しているのかもしれない。
ホセ・ワタナベという詩人の作品を読むのは初めてである。初めて読む作品は、とても印象に残る。
『ホセ・ワタナベ詩集』の最初に掲載されているは「友人たち」という詩。
アーモンド・アイスクリームの味は今も
ぼくらの喉に残っていて
ロレンソがぼくらの歳月について話す
そして家族の固い殻から抜け出せないまま彼は思いだす、
木の葉が落ちていたときにも時間は過ぎるのだと気づかなかったことを。
書き出しの「アーモンド・アイスクリーム」がこの詩を決定づける。「アイスクリーム」では「味」にならない。「アーモンド・アイスクリーム」という「固有名詞」が「味」になり、それが「喉」という「肉体」を刺激する。ことばを読むと、「アーモンド・アイスクリーム」の「味」が、そのまま私の「肉体」の奥からよみがえってくる。「喉」によみがえってくる。
「アーモンド・アイスクリーム」の「味」なのか、「喉」の「記憶」なのか、わからない。この「一体感」が楽しい。
そうすると、次に出てくる「ロレンソ」が私の知らないはずの人間なのに、「肉体」として出会ったことがあるような気がしてくる。「架空の人物」ではなく、一緒に生きてきた人間として「わかる」。いっしょに同じものを食べて喜びを感じた人間として「わかる」。彼もまた「喉」に「アーモンド・アイスクリーム」の味を思い出している。そう感じて、知らない人間なのに、知っていると勘違いしてしまう。
その彼が「思い出」を「歳月」として語る。「思い出」と言わずに「歳月」というところが、とてもいい。「アーモンド・アイスクリーム」が「固有」の味なのに、「歳月」は「固有」の思い出ではない。「時間」という「抽象」である。「具象」が「抽象」へすばやく動いて行き、ことばの「動ける領域」を一瞬のうちに広げてしまう。活性化する。
このあと、ことばはもう一度変化する。
木の葉が落ちていたときにも時間は過ぎるのだと気づかなかったことを。
「木の葉が落ちるときの時間」というときの「時間」は「抽象」でありながら、「木の葉が落ちる」によって「具象」になる。「気づかなかった」ということばが、その「抽象」と「具象」をさらにかき混ぜる。「木の葉が落ちる」とき、その「落ちる」という動詞と一緒に「時間」が動いている。「時間」が「過ぎている」。それは言われてみればそうだが、ふつうは気づかない。その普通は気づかないことを「気づかない」と書くことで気づかせる。この「矛盾」のようなもののなかに、「抽象」と「具象」が衝突し合っているのを感じる。
これは、振り返ってみれば書き出しの「アーモンド・アイスクリーム」もそうなのだ。「アイスクリーム」だけでは、一種の「抽象」。そして、それが「抽象」であると気づくのは「アーモンド・アイスクリーム」と「具体的」にことばにされた瞬間におきる変化でもある。
「抽象」のことばが「具象」となってあらわれ、動き始めるその瞬間が、たぶん、詩なのだ。
詩のつづき。
ぼくらは職を探さなければならない
彼の恋人はマルサス主義のパンフレットを読んだことがなかったから。
彼女は笑いながら言った、
「窓から飛び下りた方がましよ。」
彼が言った、
「そんなことをしたらどこまでも落ちていくだけだ。」
だが、いつも午後にはじまる
ぼくらの新たな職探しは
どこかの公園の草のうえで話し合いながら終わる。
「マルサス主義」を私は知らない。もちろん読んだことはない。だが、といえばいいのか、だからといえばいいのかよくわからないが「読んだことがない」ということが「わかる」。
必要なものを「読んだことがない」。そうすると、何かをするときに「不利」である。「職探し」だけではなく、学校のテストでも。そういう「苦労」を「肉体」はおぼえている。そういう「おぼえていること」が、ホセの詩に誘われて動き出す。
三連目の「会話」は、ほんとうは深刻な問題である。しかし、そういう深刻な問題も、若者は「軽口」のようにして言ってしまう。そのときの「頭の動き」が、また「感情の動き」が、そのことばと一緒によみがえる。
私が体験したことがそのまま書かれているのではないけれど、「経験」がかよいあう。「共通する」。そうすると、その共通する経験が、そこに書かれている「感情」を「共有する」に変わる。
「具体的なことば」(会話そのまま)が、そこに書かれている「抽象的なこと」を「具体的に」かえて、「共有された感情」へと変化するのだ。
しなければなはないことは、たくさんある。しかし、そのしなければならないことをしないで、公園でおしゃべりしてしまう。そういう「青春」の時間が、ぐいっとせまってくる。
私の「青春」ではないのに、私が体験したことのようだ。
こんな感じを引き起こしてくれる詩が私は好きだ。
こういう「抒情」は古いかもしれない。現代の日本では書かれない。昔、1970年代に書かれた詩に似ているなあ、と思ったら、「友人たち」は1971年に発行された詩集のなかの作品だった。世界のことばは、どこかで共通しているのかもしれない。
ホセ・ワタナベ詩集 (新・世界現代詩文庫14) | |
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