詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樋口武二『拾遺譚』

2016-08-24 12:57:13 | 詩集
樋口武二『拾遺譚』(詩的現代叢書18、2016年07月27日発行)

 樋口武二『拾遺譚』は感想を書くのがむずかしい。
 「本日は治療中」は、こんな感じ。

 雨が降ってきたよ、と言われてから、はじめて眠っていたのに気がついた。窓ガラスは濡れていて、路地を歩いている人も足早である 風も、すこし出てきた様子で、植え込みのプラタナスの葉が細かくふるえていた

 引用が長くなるので先取りして書いてしまうと、歯科治療中である。局部麻酔をかけらさて治療を受けているのだが、どうやら眠ってしまったらしい。で、「雨が降ってきたよ」と言われて、眠っていたことに気づく。
 歯の治療中に眠ってしまうなんてことがあるか、と思う人がいるかもしれないが、私は樋口と同じように眠ってしまう人間なので、これは自然に受け入れられる。(私は脳のMRTIの検査を受けたときも眠ってしまい、終わってから起こされた経験がある。目をつむると、いつでもどこでも、激しい騒音のなかでも眠ってしまう。)
 で。
 私は、この「気づいた」がとてもおもしろいと思った。他者からの働きかけがあって、「はじめて」「気づいた」。そして「気づいた」あと、言われたことを少しずつ確かめていく過程が、区切りがなくて、おもしろいと思う。直接、雨が「風景」として目に飛び込んでくるのではなく、「窓ガラスが濡れていて」と「手前」の光景があり、その向こう側に「路地を歩いている人」が見え、その人が「足早である」と気づく。「気づく」とは、そのときには書かれていないのだが、気づいたのである。「気づく」が省略されている。そのあとの「風も、すこし出てきた様子で、植え込みのプラタナスの葉が細かくふるえていた」も「気づいた」のである。そこに書かれているのは、「事実」だが、その「事実」は「気づかれ」、その結果「ことば」になるのことで「事実」になる。
 で。
 この「気づく」。そこに「気」がある。「気」とは、しかし、何だろう。何かを「気」と呼んでいるだけで、それを「取り出して」みせるわけにはいかないのが「気」であろう。そういう「気」は、「物理的なもの」ではないので、「気」どうしが区切りなくまざってしまう。

傘は貸してあげますからね、やさしいことばとしぐさが何とも可愛いのだが、これは、たぶん夢であって、ほんとうの私は、まだ目覚めてはいないのであろう 麻酔を打たれた歯茎の痺れが頭蓋一杯に広がってきた やはり、これは、夢のなかのことなのか

 夢と現実が区別なくつづいていく。「ほんとうの私は、まだ目覚めてはいないのであろう」と気づく。「麻酔を打たれた歯茎の痺れが頭蓋一杯に広がってきた」と気づく。「夢のなかのことなのか」と気づく。
 これは「自分の内部」のことに「気づく」でもある。さっきは、「自分の外部」の変化に「気づいた」。「気づく」という「動詞」を中心にして、「外部」と「内部」が交錯する。

それにしても外は雨らしい 誰かが、小さな声をあげはじめた 私の破れかけた夢の小窓からは、白衣がふらふらと揺れているのが見えた 夢だというのには無理がある 口内に指が入れられて、 

 「破れかけた夢の小窓」というのは、うーん、樋口の「詩」なのか。こういうことばに「詩」を感じて、挿入しているのか、とちらりと考える。
 でも、私の関心は、すぐにそこを離れ、

 口内に指が入れられて、

 という具体的な「肉体」の関係に移っていく。「気づく」を「気づかされる」と言いなおしてみると、「気」のなかに何かが入ってくることが「気づく」なのである。「外部」が「内部」に入ってくることが「気づく」。
 で、「口内に指が入」ってくると……。
 樋口は、「入れられて、」のあとにことばを直接つづけず、そこでいったん切断し、連を変えて、二連目へ飛躍する。

 隣の席で治療をはじめると、私の頭の中にまで音が入ってくる。

 「入る」が引き継がれ、接続していく。
 「気づく」はここでは「頭の中に入る」と言いなおされていると考えることができる。そうであるなら、「気」とは「頭」なのだ。

 違うかもしれない。

 違うかもしれないが、「気づく」から「入る」という動詞を経て「頭の中」ということばに出会うと、「気」とは「頭」にあるのか、という感じが強くなる。「頭」のなかに何かが入ってきて、「頭」が動き始める。それを「気づく」という。

 こんなことばを書きつらねて、それが「感想」になるかどうかわからないが、私は、樋口の「区切りのない」気づくの連鎖、あるいは一連目から二連目への不思議な飛躍/接続のありかたに、私のことばの何かがつまずくのを感じたのだ。
 あ、このあたりに樋口がいるなあと思ったのだ。
 その樋口がいる、その「場」(ことばが生まれてくる瞬間の領域)を、もっとぴったりと代弁してくれることばがどこかにあるのかもしれないが、今の私にはよくわからない。「気づく」ということが、樋口を動かしているのだな、という「予感」のようなものを、きょうはメモにしておく。





呼ぶひと、手をふるひと (詩的現代叢書)
樋口武二
書肆山住
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