ジェイ・ローチ監督「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(★★★★)
監督 ジェイ・ローチ 出演 ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン
ハリウッドの黄金期は、同時に「赤刈り」の時期とも重なる。その「標的」になった脚本家、トランボを描いている。
不屈の精神もさることながら。
うーん、画面が揺るぎない。がっしりしている。色彩がいいのだ。使い込まれた(かといって古くはなっていない、つまりていねいに使われている)室内の感じがとてもいい。光の処理と、出演者の服の色合いが、とても落ち着いている。
このころを描いたもう一本の「ヘイル・シーザー」(コーエン兄弟監督)と比較するとわかりやすい。「ヘイル・シーザー」は色調が明るい。映画の質の違い(コメディーかシリアスか)もあるけれど。
で、この使い込まれた色彩に、ブライアン・クランストンがとても似合っている。花がない、というと変だが、花を抑えている。肉体に「花」を与えず、ことばに「花」を与えている。脚本家の訳だから、そうなるのだ、と言ってしまえばそれまでだが、これがなかなか。特に、家庭でのシーンがいいなあ。
子供に「お父さんは共産党員なの? 私も共産党なの?」というようなことを聞かれる。それに対してブライアン・クランストンは、「学校で、弁当を持っていない子がいたらどうする?」というようなことを聞く。「弁当をわけてやる」という具合に会話はつづくき「りっぱな共産党員だ」みたいな「結論」にいたる。
このときの、質問し、ことばを引き出し、考えさせるという過程。
自分で「説明」するのでない。答えを求めているひとのなかから、答えが出てくるように促す。あくまで相手に「花」をもたせる。
「主役」なんだけれど「脇役」に徹する。他人を輝かせる。
だから、クライマックス(カタルシス)も同じ構図。
「スパルタカス」のカーク・ダグラスがトランボを訪ねてくる。「脚本」の手直しをしてくれ、という。トランボが「赤刈り」の対象になったことは知っている。しかし、それ以上にトランボの脚本家としての能力が優れていることも知っている。いい映画には彼の脚本(ことばと、その展開の仕方)が必要だと知っている。そして、脚本が出来上がり、映画も完成する。そのあと。クレジットをどうするか。脚本家の名前をどうするか。カーク・ダグラスは、「脚本家の名前はトランボとクレジットに入れろ」と指示する。見ていて、胸が熱くなる。
このとき、ヒーローはトランボではなく、カーク・ダグラス。彼がトロンボを復権させたのだ。ケネディ大統領が「スパルタカス」を見て「いい映画だ。ヒットするだろう」と語る。その一言でトランボは完全復権するのだけれど、こういうときって、「主役」はもちろんトランボなのだけれど、それ以上にカーク・ダグラスが「主役」というか、スポットライトを浴びる。トランボを復権させた男。かっこいいね。
トランボはもちろんかっこいいのだけれど、そのかっこよさをカーク・ダグラスに譲っている。
この感じがとてもいい。他人のなかから「答え」が出てくるのを待ち、それを「支える」という「脇役」に徹している。
これは、不遇時代を支えたジョン・グッドマンについても言えるね。ジョン・グッドマンはいわゆるB級映画をつくっている。金がもうかればそれでいい。美女が周りにいて、金さえあれば満足。そういう、まあ、ろくでもない男なのだが、そのろくでもない男が、やっぱりトランボを支えた影のヒーローなのだ。彼がいなければトランボは生活できなかった。表には出てこなくて、裏で、一種の「酷使」というかトランボをこきつかっているのだが、そのときの「信念」は、なんだかかっこいいでしょ? 彼がいてよかったなあ、と思えてくるでしょ?
映画の最後にトランボの演説がある。「不幸な時代があった。でも、それを批判するのではなく、許して、進んでいこう」というようなことを語る。(映画を見たのが二週間前なので、うろ覚え)これもなんというか、「脇役」の強さがにじむことばだねえ。「場」が一気に膨らみ、充実する。あの時代が、とても「豊か」なものにかわる。批判してしまうと、きっとトランボの「正義」は明確になるし、トランボは「主役」として躍り出てリベンジするという感じになるのだが、そうすると「時代」はぎすぎすしたものに見えてくる。ヘレン・ミレンみたいなやつはやっつけろ、というとこになってしまう。そういう「対処方」をトランボはとらないのだ。
「時代」そのものに、静かに語らせるのである。「時代」が語り始めるのを待つのである。「主役」は「時代」、トランボはその時代を生きた「脇役」。
ダイアン・レインも「脇」に徹していて、とてもよかった。名子役が名女優になった。こういう演技にこそ「アカデミー賞」をやりたいね。
余談だが、ヘレン・ミレンの役は、「ヘイル・シーザー」ではティルダ・スウィントンが「双子」で演じている。「帽子」をキーアイテムに、そう思った。と、考えたりすると、当時のハリウッドの「スター」以外の生活、ゴシップのあり方が見えてきておもしろい。
おもしろいといえば、随所にでで来る当時の映画もいいなあ。役者がきちんと演技をしている、というか、まあ、下手くそなんだけれど、それを丁寧に撮っている。役者の演技から、そのスターの人間性がにじみ出てくるのを捉えている。いまはカメラが演技して、人間に演技をさせない。あ、この映画は別。きちんと、役者に演技をさせている。ダイアン・レインの役所など、「花」がないから、とってもむずかしいのに、そこからちゃんと「人間性」がにじみ出てくる。
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ジェイ・ローチ 出演 ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン
ハリウッドの黄金期は、同時に「赤刈り」の時期とも重なる。その「標的」になった脚本家、トランボを描いている。
不屈の精神もさることながら。
うーん、画面が揺るぎない。がっしりしている。色彩がいいのだ。使い込まれた(かといって古くはなっていない、つまりていねいに使われている)室内の感じがとてもいい。光の処理と、出演者の服の色合いが、とても落ち着いている。
このころを描いたもう一本の「ヘイル・シーザー」(コーエン兄弟監督)と比較するとわかりやすい。「ヘイル・シーザー」は色調が明るい。映画の質の違い(コメディーかシリアスか)もあるけれど。
で、この使い込まれた色彩に、ブライアン・クランストンがとても似合っている。花がない、というと変だが、花を抑えている。肉体に「花」を与えず、ことばに「花」を与えている。脚本家の訳だから、そうなるのだ、と言ってしまえばそれまでだが、これがなかなか。特に、家庭でのシーンがいいなあ。
子供に「お父さんは共産党員なの? 私も共産党なの?」というようなことを聞かれる。それに対してブライアン・クランストンは、「学校で、弁当を持っていない子がいたらどうする?」というようなことを聞く。「弁当をわけてやる」という具合に会話はつづくき「りっぱな共産党員だ」みたいな「結論」にいたる。
このときの、質問し、ことばを引き出し、考えさせるという過程。
自分で「説明」するのでない。答えを求めているひとのなかから、答えが出てくるように促す。あくまで相手に「花」をもたせる。
「主役」なんだけれど「脇役」に徹する。他人を輝かせる。
だから、クライマックス(カタルシス)も同じ構図。
「スパルタカス」のカーク・ダグラスがトランボを訪ねてくる。「脚本」の手直しをしてくれ、という。トランボが「赤刈り」の対象になったことは知っている。しかし、それ以上にトランボの脚本家としての能力が優れていることも知っている。いい映画には彼の脚本(ことばと、その展開の仕方)が必要だと知っている。そして、脚本が出来上がり、映画も完成する。そのあと。クレジットをどうするか。脚本家の名前をどうするか。カーク・ダグラスは、「脚本家の名前はトランボとクレジットに入れろ」と指示する。見ていて、胸が熱くなる。
このとき、ヒーローはトランボではなく、カーク・ダグラス。彼がトロンボを復権させたのだ。ケネディ大統領が「スパルタカス」を見て「いい映画だ。ヒットするだろう」と語る。その一言でトランボは完全復権するのだけれど、こういうときって、「主役」はもちろんトランボなのだけれど、それ以上にカーク・ダグラスが「主役」というか、スポットライトを浴びる。トランボを復権させた男。かっこいいね。
トランボはもちろんかっこいいのだけれど、そのかっこよさをカーク・ダグラスに譲っている。
この感じがとてもいい。他人のなかから「答え」が出てくるのを待ち、それを「支える」という「脇役」に徹している。
これは、不遇時代を支えたジョン・グッドマンについても言えるね。ジョン・グッドマンはいわゆるB級映画をつくっている。金がもうかればそれでいい。美女が周りにいて、金さえあれば満足。そういう、まあ、ろくでもない男なのだが、そのろくでもない男が、やっぱりトランボを支えた影のヒーローなのだ。彼がいなければトランボは生活できなかった。表には出てこなくて、裏で、一種の「酷使」というかトランボをこきつかっているのだが、そのときの「信念」は、なんだかかっこいいでしょ? 彼がいてよかったなあ、と思えてくるでしょ?
映画の最後にトランボの演説がある。「不幸な時代があった。でも、それを批判するのではなく、許して、進んでいこう」というようなことを語る。(映画を見たのが二週間前なので、うろ覚え)これもなんというか、「脇役」の強さがにじむことばだねえ。「場」が一気に膨らみ、充実する。あの時代が、とても「豊か」なものにかわる。批判してしまうと、きっとトランボの「正義」は明確になるし、トランボは「主役」として躍り出てリベンジするという感じになるのだが、そうすると「時代」はぎすぎすしたものに見えてくる。ヘレン・ミレンみたいなやつはやっつけろ、というとこになってしまう。そういう「対処方」をトランボはとらないのだ。
「時代」そのものに、静かに語らせるのである。「時代」が語り始めるのを待つのである。「主役」は「時代」、トランボはその時代を生きた「脇役」。
ダイアン・レインも「脇」に徹していて、とてもよかった。名子役が名女優になった。こういう演技にこそ「アカデミー賞」をやりたいね。
余談だが、ヘレン・ミレンの役は、「ヘイル・シーザー」ではティルダ・スウィントンが「双子」で演じている。「帽子」をキーアイテムに、そう思った。と、考えたりすると、当時のハリウッドの「スター」以外の生活、ゴシップのあり方が見えてきておもしろい。
おもしろいといえば、随所にでで来る当時の映画もいいなあ。役者がきちんと演技をしている、というか、まあ、下手くそなんだけれど、それを丁寧に撮っている。役者の演技から、そのスターの人間性がにじみ出てくるのを捉えている。いまはカメラが演技して、人間に演技をさせない。あ、この映画は別。きちんと、役者に演技をさせている。ダイアン・レインの役所など、「花」がないから、とってもむずかしいのに、そこからちゃんと「人間性」がにじみ出てくる。
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