詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ「球体」

2016-08-06 11:11:10 | 詩(雑誌・同人誌)
最果タヒ「球体」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 「現代詩手帖」2016年08月号は「2010年代の詩人たち」という特集を組んでいる。「2010年代」といってもやっと前半を折り返したところなのだけれど……。
 最果タヒ「球体」は、特集の巻頭におかれている。

7月の最初はいちねんのまんなかだから、いろんろことが
始まったり終わったりする。海が開かれたり、スキーが終
わったり。私の体温も少し変わって、曖昧な自我の立ち位
置がまたさらに歪んでゆく。窓をとざして、日光が照らす
部屋の中に風が吹いたのならそれは、幽霊でしかなかった。

 書き出しの一連。「7月の最初はいちねんのまんなか」という表現に驚いた。「論理的」というか、理詰めで世界に向き合っている。この「理屈っぽさ」は「私の体温も少し変わって、曖昧な自我の立ち位置がまたさらに歪んでゆく。」の「さらに」にも感じられる。そして、それが最終的に「窓をとざして、日光が照らす部屋の中に風が吹いたのならそれは、幽霊でしかなかった。」という「論理」になる。「窓をとざして」いるなら風は入ってこない。それなのに部屋の中に風が動く。それは「実体」ではなく「幽霊」だという。
 「曖昧な立ち位置」ということばが出てくるが、その「曖昧」というのは、他者と「論理」を共有していないということかもしれない。「曖昧」は、自分を的確にあらわし、他人と共有できるものがない、ということ。それを「幽霊」という「曖昧」な実体に託している。比喩にして、語っている。
 最果には、その「共有感覚」はない。最果は、そう自覚しているのだけれど……。

死にたくなる感情がどんなものか、さみしい私にはわから
ない。電車とか、喫茶店とか、私の隣に何かを置いた人は、
みんな大抵それを忘れていく。すべてを透明にする体が私
にあるなら、かなしいひとすべて、私と友達になればいい。

 「共有感覚」のなさは、「死にたくなる感情がどんなものか、さみしい私にはわから
ない。」と言いなおされている。「わからない」が「共有感覚がない」ということ。
 そのあとの「私の隣に何かを置いた人は、みんな大抵それを忘れていく。」の「それ」とは何だろう。「何か」ということになるが、その「何か」とは何か。「わからない」ものだから、それは「死にたくなる感情」ということになる。
 ここが、おもしろい。
 最果以外のだれかは、最果の「曖昧」な何かに共感して、その人の「何か」を置いていく。置き去りにして、それが「共有」されることを願って、それを置いていく。「死にたくなる感情」と呼ばれるものを置いていく。
 「わからない」のだから、それを「死にたくなる感情」と呼んではいけないのかもしれないが、たぶんそれだろうと最果は推測していることになる。
 「わからなくても」人は推測する。「わからないから」人は推測する。その瞬間に、何かが「共有」される。
 このとき何が起きているのか。

すべてを透明にする体

 このことばに私はどきりとする。
 「共有」とか「わかる」というのは、何かの障害がなくなることだ。障害が消えてしまう。それが「透明」。「私(最果)」と「他者」の「区別」がなくなる。少なくとも、「何か」を最果の隣に置いていく、置いて忘れていく人は、最果を「他人」とは思っていない。そこに「他人」がいるとは感じていない。自分と最果の「区別」を忘れてしまうということ。
 その区別のなさ、「透明」のなかで、ひとが「一体化」する。

 「透明」を「区別がない」と言い直すことができるなら、それは一連目に出てきた「曖昧」ということも重なる。「曖昧」とは区別がないことである。ただ、私の場合、「曖昧」は「混沌/不透明」という印象があるのだけれど、最果は、その「曖昧」を「不透明」ではなく「透明」へと生まれ変わらせる。
 他人と出会ったとき、互いの「不透明」がぶつかり、沈殿していって、「場」が「透明」になるのかもしれない。
 「私と友達になればいい。」は「場」の「共有」ということでもあるだろう。

うつくしいと思った光景にはすべて色が付いていた。名前
がないひとたちが、いない世界。せめて、溶けたいと願っ
ている。さいていな出来事やきみの傷口すべてに溶けて、
私が生きるたび、すべて過去にしていきたい。

 「うつくしいと思った光景にはすべて色が付いていた。」の「色」は「透明」とは反対の概念かもしれない。しかし、まったく反対の概念ではなく、「色」はついているけれど、その「色」は「透明」へと変化していくということだろう。「色」は「名前」でもある。すべてに「名前」がある。けれど、その「名前」も消えて「透明」になる。
 この「消える」は「溶ける」という動詞になって書かれている。
 何かとの区別が「溶ける」。消える。そのとき「区別」は「曖昧」になる。その「曖昧」は、最果にとっては「透明」。「透明」のなかで一体感が生まれる。
 この「変化(一連の動き)」を「過去」と呼んでいるのもおもしろいなあ。
 全てを「透明」なものに昇華して、生まれ変わるということが、「すべてを過去にする」ということなのだろう。

 最果の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア)は2か月で3刷、一万七千部突破したというが、こんなに多くの人に読まれるのは、そのことばが意外と「論理的」だからかもしれない。
 この点で、最果のことばの「運動」は谷川俊太郎に似ているものがある。谷川俊太郎の詩は、どんなにナンセンスなものでも「論理」がある。
 「論理」は「共有」されることで、さらに「論理」になる。(変な言い方だが。)つまり、ことばの動かし方として、広がっていく。それは「新しい感情」を生み出していくということでもある。「新しい感情」が共有されることでもある。
 もっとも、私は古い人間なので、最果のことばに「論理」を感じるのだが、最果の読者は違うものを感じているのかもしれない。
 
夜空はいつでも最高密度の青色だ
最果 タヒ
リトル・モア
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自民党憲法改正草案を読む/番外編5(情報の読み方)

2016-08-06 01:10:26 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外編4(情報の読み方)

 2016年08月05日の読売新聞夕刊(西部版・ 4版)一面にとても奇妙な記事を見つけた。「天皇陛下「お気持ち」/首相コメントへ」という見出しがついている。

 「生前退位」の意向を持たれている天皇陛下が8日にお気持ちをビデオメッセージで述べられることを受け、安倍首相が同日中にコメントを発表する方向で検討していることが分かった。
 首相が直接コメントするか、文書で発表するか検討している。憲法が天皇の政治的な発言を禁じていることを踏まえ、コメントの表現について慎重に準備を進めている。

 これは一連の「天皇生前退位」報道の続報なのだが。
 07月13日の籾井NHK報道、及び14日の各紙朝刊には安倍のコメントはなかった。翌日14日の夕刊に短いコメントが載ったと私は記憶している。
 その対応と比較すると、とても奇妙である。
 天皇が何かを言い、それに対して安倍が何かを言うのは、特に変わっているとは思わないが、その「予告」をしているのが奇妙である。天皇の発言よりも、その後の安倍の発言の方に注目しろ、という感じではないか。安倍の発言の方に、重要性があると「予告」しているように、私には感じられる。
 だいたい、だれかの発言に対してコメントするというのは、その発言を聞いてから考えることであって、前もって「準備」などしない。特に「表現」について「慎重に準備を進めている」というのが、なんとも不気味である。
 天皇が何を言うと想定しているのか。どういう「ことば」が語られると想定しているのか。つまり、天皇に言わせようとしているのか。言わせたいことがあって、それに対してコメントする形で言いたいことが安倍にはあるから、準備するのではないのか。
 「首相が直接コメントするか、文書で発表するか検討している」というのが、また、変である。言いたいことがあるなら、聞いてすぐに言えばいいだろう。準備しているなら、すぐに発言できるだろう。どちらの方が効果的かを安倍は考えているということだろう。
 「憲法が天皇の政治的な発言を禁じていることを踏まえ、コメントの表現について慎重に準備を進めている」というのは、第一段落でいったことの言い直しなのだが、そこにわざわざ「憲法が天皇の政治的な発言を禁じていることを踏まえ」という文言を組み入れているところが、また不気味である。
 これでは天皇が「政治的発言」をし、「憲法違反」をするということが前提になっている。天皇が「政治的な発言」をしないならば「憲法違反」にならないのだから、それをあらかじめ「踏まえ」、「コメントの表現について慎重に準備を進めている」というのは、なんとも「用意周到」である。
 天皇の「ことば」から、何としても「政治的発言」につながるものを見つけ出し、それに対してコメントしようと待ち構えている感じだ。

 私は一連の報道を、安倍と籾井NHKによって仕組まれた「罠」だと感じているのだが、読売新聞の夕刊を読むと、その「におい」がますます強く漂ってくる。

 天皇が身内で(家族や宮内庁の関係者)と「生前退位」について語り合ったことがあるかもしれない。しかし、それはあくまで「身内」のこと。プライバシーというか、秘密というか、天皇の「思想と良心(内面)」の問題だろう。
 「だんだん体がきつくなってきたなあ。仕事をかわってもらえないかなあ。いまのうちに、おまえに仕事を任せることは抱きないかなあ」というような話を、普通の父親が息子に話すように話したからといって、それは天皇の「政治発言」にはならないだろう。
 一般国民のレベルで言えば、現行憲法第十九条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という「領域」のことだと思う。天皇にも「思想・良心の自由」はあるだろう。何を思っていようが、権力が、「そう思ってはいけない」とは言えないだろう。だいたい、何を思うかというこ(人間の内面)とは「侵すことはできない」。
 そういうものを、「ことば」としてむりやり表現させ、その表現に対して、「それは政治的発言であり、天皇には禁じられている行為である」というのは、なんともむちゃくちゃな論理である。
 もちろん天皇が、ある日突然、記者会見の席で「今のうちに退位して、皇太子に天皇の地位を譲りたい」と言ったいうのなら「政治的発言」になるだろうけれど、皇太子と二人で話し合っても「政治的発言」になり、許されないというのであれば、これは大変だね。だいたい、どうやって二人の会話を聴取するつもりなのかなあ。盗聴器でも仕掛ける?

 いくらなんでも安倍が天皇に「罠」を仕掛けるようなことはない。そんなことをすれば「右翼」が放っておかない、という意見も聞くのだが……。私は、そんなふうに安倍を「甘く」見ていない。何でもするだろう。東京電力福島大一原発の状況を「アンダー・コントロール」と言い、「TPP絶対反対と言ったことは一度もない」と平然と言ってのける人間である。天皇に対しても嘘をつくことはなんとも思っていないだろう。
 今回の「予告」は、安倍が天皇のことをなんとも思っていない証拠だろう。
 本当に天皇のことばを聞く気持ちがあるなら、「天皇のことばを聞いてから自分が思っていることを考え直してみたい」くらいのことしか言えないだろう。その日のうちにコメントする、そのために「表現を検討している」などとは言わないだろう。

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