最果タヒ「球体」(「現代詩手帖」2016年08月号)
「現代詩手帖」2016年08月号は「2010年代の詩人たち」という特集を組んでいる。「2010年代」といってもやっと前半を折り返したところなのだけれど……。
最果タヒ「球体」は、特集の巻頭におかれている。
書き出しの一連。「7月の最初はいちねんのまんなか」という表現に驚いた。「論理的」というか、理詰めで世界に向き合っている。この「理屈っぽさ」は「私の体温も少し変わって、曖昧な自我の立ち位置がまたさらに歪んでゆく。」の「さらに」にも感じられる。そして、それが最終的に「窓をとざして、日光が照らす部屋の中に風が吹いたのならそれは、幽霊でしかなかった。」という「論理」になる。「窓をとざして」いるなら風は入ってこない。それなのに部屋の中に風が動く。それは「実体」ではなく「幽霊」だという。
「曖昧な立ち位置」ということばが出てくるが、その「曖昧」というのは、他者と「論理」を共有していないということかもしれない。「曖昧」は、自分を的確にあらわし、他人と共有できるものがない、ということ。それを「幽霊」という「曖昧」な実体に託している。比喩にして、語っている。
最果には、その「共有感覚」はない。最果は、そう自覚しているのだけれど……。
「共有感覚」のなさは、「死にたくなる感情がどんなものか、さみしい私にはわから
ない。」と言いなおされている。「わからない」が「共有感覚がない」ということ。
そのあとの「私の隣に何かを置いた人は、みんな大抵それを忘れていく。」の「それ」とは何だろう。「何か」ということになるが、その「何か」とは何か。「わからない」ものだから、それは「死にたくなる感情」ということになる。
ここが、おもしろい。
最果以外のだれかは、最果の「曖昧」な何かに共感して、その人の「何か」を置いていく。置き去りにして、それが「共有」されることを願って、それを置いていく。「死にたくなる感情」と呼ばれるものを置いていく。
「わからない」のだから、それを「死にたくなる感情」と呼んではいけないのかもしれないが、たぶんそれだろうと最果は推測していることになる。
「わからなくても」人は推測する。「わからないから」人は推測する。その瞬間に、何かが「共有」される。
このとき何が起きているのか。
このことばに私はどきりとする。
「共有」とか「わかる」というのは、何かの障害がなくなることだ。障害が消えてしまう。それが「透明」。「私(最果)」と「他者」の「区別」がなくなる。少なくとも、「何か」を最果の隣に置いていく、置いて忘れていく人は、最果を「他人」とは思っていない。そこに「他人」がいるとは感じていない。自分と最果の「区別」を忘れてしまうということ。
その区別のなさ、「透明」のなかで、ひとが「一体化」する。
「透明」を「区別がない」と言い直すことができるなら、それは一連目に出てきた「曖昧」ということも重なる。「曖昧」とは区別がないことである。ただ、私の場合、「曖昧」は「混沌/不透明」という印象があるのだけれど、最果は、その「曖昧」を「不透明」ではなく「透明」へと生まれ変わらせる。
他人と出会ったとき、互いの「不透明」がぶつかり、沈殿していって、「場」が「透明」になるのかもしれない。
「私と友達になればいい。」は「場」の「共有」ということでもあるだろう。
「うつくしいと思った光景にはすべて色が付いていた。」の「色」は「透明」とは反対の概念かもしれない。しかし、まったく反対の概念ではなく、「色」はついているけれど、その「色」は「透明」へと変化していくということだろう。「色」は「名前」でもある。すべてに「名前」がある。けれど、その「名前」も消えて「透明」になる。
この「消える」は「溶ける」という動詞になって書かれている。
何かとの区別が「溶ける」。消える。そのとき「区別」は「曖昧」になる。その「曖昧」は、最果にとっては「透明」。「透明」のなかで一体感が生まれる。
この「変化(一連の動き)」を「過去」と呼んでいるのもおもしろいなあ。
全てを「透明」なものに昇華して、生まれ変わるということが、「すべてを過去にする」ということなのだろう。
最果の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア)は2か月で3刷、一万七千部突破したというが、こんなに多くの人に読まれるのは、そのことばが意外と「論理的」だからかもしれない。
この点で、最果のことばの「運動」は谷川俊太郎に似ているものがある。谷川俊太郎の詩は、どんなにナンセンスなものでも「論理」がある。
「論理」は「共有」されることで、さらに「論理」になる。(変な言い方だが。)つまり、ことばの動かし方として、広がっていく。それは「新しい感情」を生み出していくということでもある。「新しい感情」が共有されることでもある。
もっとも、私は古い人間なので、最果のことばに「論理」を感じるのだが、最果の読者は違うものを感じているのかもしれない。
「現代詩手帖」2016年08月号は「2010年代の詩人たち」という特集を組んでいる。「2010年代」といってもやっと前半を折り返したところなのだけれど……。
最果タヒ「球体」は、特集の巻頭におかれている。
7月の最初はいちねんのまんなかだから、いろんろことが
始まったり終わったりする。海が開かれたり、スキーが終
わったり。私の体温も少し変わって、曖昧な自我の立ち位
置がまたさらに歪んでゆく。窓をとざして、日光が照らす
部屋の中に風が吹いたのならそれは、幽霊でしかなかった。
書き出しの一連。「7月の最初はいちねんのまんなか」という表現に驚いた。「論理的」というか、理詰めで世界に向き合っている。この「理屈っぽさ」は「私の体温も少し変わって、曖昧な自我の立ち位置がまたさらに歪んでゆく。」の「さらに」にも感じられる。そして、それが最終的に「窓をとざして、日光が照らす部屋の中に風が吹いたのならそれは、幽霊でしかなかった。」という「論理」になる。「窓をとざして」いるなら風は入ってこない。それなのに部屋の中に風が動く。それは「実体」ではなく「幽霊」だという。
「曖昧な立ち位置」ということばが出てくるが、その「曖昧」というのは、他者と「論理」を共有していないということかもしれない。「曖昧」は、自分を的確にあらわし、他人と共有できるものがない、ということ。それを「幽霊」という「曖昧」な実体に託している。比喩にして、語っている。
最果には、その「共有感覚」はない。最果は、そう自覚しているのだけれど……。
死にたくなる感情がどんなものか、さみしい私にはわから
ない。電車とか、喫茶店とか、私の隣に何かを置いた人は、
みんな大抵それを忘れていく。すべてを透明にする体が私
にあるなら、かなしいひとすべて、私と友達になればいい。
「共有感覚」のなさは、「死にたくなる感情がどんなものか、さみしい私にはわから
ない。」と言いなおされている。「わからない」が「共有感覚がない」ということ。
そのあとの「私の隣に何かを置いた人は、みんな大抵それを忘れていく。」の「それ」とは何だろう。「何か」ということになるが、その「何か」とは何か。「わからない」ものだから、それは「死にたくなる感情」ということになる。
ここが、おもしろい。
最果以外のだれかは、最果の「曖昧」な何かに共感して、その人の「何か」を置いていく。置き去りにして、それが「共有」されることを願って、それを置いていく。「死にたくなる感情」と呼ばれるものを置いていく。
「わからない」のだから、それを「死にたくなる感情」と呼んではいけないのかもしれないが、たぶんそれだろうと最果は推測していることになる。
「わからなくても」人は推測する。「わからないから」人は推測する。その瞬間に、何かが「共有」される。
このとき何が起きているのか。
すべてを透明にする体
このことばに私はどきりとする。
「共有」とか「わかる」というのは、何かの障害がなくなることだ。障害が消えてしまう。それが「透明」。「私(最果)」と「他者」の「区別」がなくなる。少なくとも、「何か」を最果の隣に置いていく、置いて忘れていく人は、最果を「他人」とは思っていない。そこに「他人」がいるとは感じていない。自分と最果の「区別」を忘れてしまうということ。
その区別のなさ、「透明」のなかで、ひとが「一体化」する。
「透明」を「区別がない」と言い直すことができるなら、それは一連目に出てきた「曖昧」ということも重なる。「曖昧」とは区別がないことである。ただ、私の場合、「曖昧」は「混沌/不透明」という印象があるのだけれど、最果は、その「曖昧」を「不透明」ではなく「透明」へと生まれ変わらせる。
他人と出会ったとき、互いの「不透明」がぶつかり、沈殿していって、「場」が「透明」になるのかもしれない。
「私と友達になればいい。」は「場」の「共有」ということでもあるだろう。
うつくしいと思った光景にはすべて色が付いていた。名前
がないひとたちが、いない世界。せめて、溶けたいと願っ
ている。さいていな出来事やきみの傷口すべてに溶けて、
私が生きるたび、すべて過去にしていきたい。
「うつくしいと思った光景にはすべて色が付いていた。」の「色」は「透明」とは反対の概念かもしれない。しかし、まったく反対の概念ではなく、「色」はついているけれど、その「色」は「透明」へと変化していくということだろう。「色」は「名前」でもある。すべてに「名前」がある。けれど、その「名前」も消えて「透明」になる。
この「消える」は「溶ける」という動詞になって書かれている。
何かとの区別が「溶ける」。消える。そのとき「区別」は「曖昧」になる。その「曖昧」は、最果にとっては「透明」。「透明」のなかで一体感が生まれる。
この「変化(一連の動き)」を「過去」と呼んでいるのもおもしろいなあ。
全てを「透明」なものに昇華して、生まれ変わるということが、「すべてを過去にする」ということなのだろう。
最果の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア)は2か月で3刷、一万七千部突破したというが、こんなに多くの人に読まれるのは、そのことばが意外と「論理的」だからかもしれない。
この点で、最果のことばの「運動」は谷川俊太郎に似ているものがある。谷川俊太郎の詩は、どんなにナンセンスなものでも「論理」がある。
「論理」は「共有」されることで、さらに「論理」になる。(変な言い方だが。)つまり、ことばの動かし方として、広がっていく。それは「新しい感情」を生み出していくということでもある。「新しい感情」が共有されることでもある。
もっとも、私は古い人間なので、最果のことばに「論理」を感じるのだが、最果の読者は違うものを感じているのかもしれない。
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