北原千代『真珠川 Barroco』(思潮社、2016年07月31日発行)
北原千代『真珠川 Barroco』には、不思議な「わかりにくさ」がある。「わかりにくい」というのは、言いなおすと、何かが「わかる」のだけれど、それがうまくつかみきれないということ。「わかる」と「わからない」のあいだに誘い込まれるようにして読み進むのだが……。
「わかりにくさ」の原因は、文体の「長さ」にある。この一連目は「届くのだろう」でいったん句点「。」をつけて、ふたつの文章にわけることができるが、「届くのだろう」のあとに「と」という「助詞」を補って「訝る」につなぎひとつの文章にもできる。「意味」としては「と、訝る」の方が「論理的」である。つまり「私は、訝る」という「主語+動詞(述語)」が完結する。「訝る」の「内容」は別個に言うことができる。
で、この「主語+述語(動詞)」が、実は、いま書いたように単純ではない。
言いなおすと、「私は+訝る」とは別に「私は+見る(見ながら)」という「私」を主語にした文章もある。「私は+もたれかかる」という文章も、いっしょに動いている。「私」の「動詞」は、「分散」して存在している。
それとは別に「ひかりは+届く(のだろう)」という文章があり、その「ひかり」という「主語」は、実際には「エウロパ(のひかり)」であり、「木星第二衛星(のひかり)」である。修飾語(修飾節)が、複数の行に「分散」している。
この「分散する」文体が北原の特徴かもしれない。
「分散」しているのだけれど、その「分散」には、一種の「定型」がある。「私は(図鑑を)見ながら(見て)訝る。」(見ないことには、訝る、という動きは生まれない)。「私は、(書架に)もたれかかり、訝る」というとき、「訝る」はちょっと「真剣」から離れる。「軽く」訝るという感じがする。真剣に、答えを求めるというよりは、軽くことばを動かしてみるという感じ。「訝る」は「疑う」とか「悩む」とは違う。それが「(書架に)もたれかかる」という動詞で、静かにつながる。
この静かなつながりという「定型」は、「図鑑」「図書館」「書架」という「場」のつながりにも、それから「エウロパ」を「図鑑に見る」、「果てない/ひかり」「傾きかけた/図書館」というつながりにも共通する。「論理的」である。そしてその「論理」は翻訳というか、西洋風の「論理」を感じさせる。
「分散」するけれど、そこには静かなつながりがあり、「論理的」な統一があり、深い「断絶」や「飛躍」はないので、「わかりやすい」。しかし、「わかりやすい」というのは、その瞬間の「誤解」であって、実は「わからない」と言うしかない。「わかりやすさ」が次に「わかりにくさ」を生み出していく。
二連目は、こうつづく。文体が突然変化する。変化したように、私には感じられる。
一連目の「あかい地肌」が「血管」につながり、「衛星」が「妊婦の下腹」につながり、「血管」はそのとき「胎児」へとつながる。ここには「強い」つながりがある。「見る」という動詞が「目」を離れ、「肉体」のなかにもぐり込んで、「見えない」ものを「見る」、遠くにあるものを見るのではなく、内部にあるものを見るという具合に内向する。
それは「わかる」のだが、一連目のことばの「つながり」の静かさ(外的な論理の整合性)と、二連目のことばの「つながり」の強さ、「静かさ/外的関係」から「強さ/内的関係」への変化が、「わかりにくい」。ことばをつないでいた「論理」のあり方が違ってしまった感じがする。そのため、私には、まったく違った文体という感じになり、そこに「わかりにくさ」を感じてしまう。
「わかりにくさ」のなかに、北原の「肉体」がある。私の「肉体」とは別の、断絶した「肉体」があると言ってしまうと、それはそうなのかもしれないが。私は、ここに、つまずくのである。
言いなおすと、「主語」と「動詞」が、大きく変わってしまったと感じ、ついていけなくなる。
動詞の変化を印象づけるのは、「渡され」という「受け身」で書かれたことば。いったい「だれ(主語)」が「渡す(述語)」のか。この省略された(?)「主語」、不明の「主語」のために、「強引さ」(強さ)を感じるのかもしれないなあ。「訝る」という動詞を生きていた肉体と違う肉体が動いていると感じて、そこに戸惑う。
あ、何を書いているのか、だんだんわからなくなってきた。
違うことを、書こう。
「Barroco」の一連目。
「かすかなところにすまいしているものらが/水を曲げている」がとてもおもしろい。「かすかなところにすまいしているもの」とは「毀された真珠」だろうか。それが何の「比喩」なのか、あるいはそれは「ほんものの真珠」なのかわからないが、「毀された」ものが「受け身」のままにいるのではなく、そこから「能動」的に動き「水を曲げる」というのが、「息をひそめる」という静かな力の反逆のようで、ぐいっと迫ってくる。
「名まえを呼ぶと/おどろいたように水はふりむく」も魅力的だ。呼ばれることで、水は「曲げられた」ことに気がついたのか。振り向いたのは「水」であるはずなのに、何か、水を曲げたもの、息をひそめているものも、いっしょに反応しているように感じてしまう。その反応が水に影響し、そのために水はさらに「驚き」「振り向く」ように感じられる。
またこの一連目で、人間ではなく「もの」「水」が「主語」になっているのも、西洋もの、翻訳物という感じで、その「文体」の一貫性が美しいとも思う。
「聖母子」の一連目と同じように、静かなつながりが文体を美しいものにしているのを感じる。けれど、この詩でも、私は二連目からの変化がよくわからない。誘われて進むけれど、そこでつまずいてしまう。
北原千代『真珠川 Barroco』には、不思議な「わかりにくさ」がある。「わかりにくい」というのは、言いなおすと、何かが「わかる」のだけれど、それがうまくつかみきれないということ。「わかる」と「わからない」のあいだに誘い込まれるようにして読み進むのだが……。
エウロパ
という木星第二衛星のあかい地肌を図鑑に見ながら
果てないところからひかりはどのように
傾き欠けた図書室に届くのだろう
書架にもたれかかり 私は訝る (「聖母子」)
「わかりにくさ」の原因は、文体の「長さ」にある。この一連目は「届くのだろう」でいったん句点「。」をつけて、ふたつの文章にわけることができるが、「届くのだろう」のあとに「と」という「助詞」を補って「訝る」につなぎひとつの文章にもできる。「意味」としては「と、訝る」の方が「論理的」である。つまり「私は、訝る」という「主語+動詞(述語)」が完結する。「訝る」の「内容」は別個に言うことができる。
で、この「主語+述語(動詞)」が、実は、いま書いたように単純ではない。
言いなおすと、「私は+訝る」とは別に「私は+見る(見ながら)」という「私」を主語にした文章もある。「私は+もたれかかる」という文章も、いっしょに動いている。「私」の「動詞」は、「分散」して存在している。
それとは別に「ひかりは+届く(のだろう)」という文章があり、その「ひかり」という「主語」は、実際には「エウロパ(のひかり)」であり、「木星第二衛星(のひかり)」である。修飾語(修飾節)が、複数の行に「分散」している。
この「分散する」文体が北原の特徴かもしれない。
「分散」しているのだけれど、その「分散」には、一種の「定型」がある。「私は(図鑑を)見ながら(見て)訝る。」(見ないことには、訝る、という動きは生まれない)。「私は、(書架に)もたれかかり、訝る」というとき、「訝る」はちょっと「真剣」から離れる。「軽く」訝るという感じがする。真剣に、答えを求めるというよりは、軽くことばを動かしてみるという感じ。「訝る」は「疑う」とか「悩む」とは違う。それが「(書架に)もたれかかる」という動詞で、静かにつながる。
この静かなつながりという「定型」は、「図鑑」「図書館」「書架」という「場」のつながりにも、それから「エウロパ」を「図鑑に見る」、「果てない/ひかり」「傾きかけた/図書館」というつながりにも共通する。「論理的」である。そしてその「論理」は翻訳というか、西洋風の「論理」を感じさせる。
「分散」するけれど、そこには静かなつながりがあり、「論理的」な統一があり、深い「断絶」や「飛躍」はないので、「わかりやすい」。しかし、「わかりやすい」というのは、その瞬間の「誤解」であって、実は「わからない」と言うしかない。「わかりやすさ」が次に「わかりにくさ」を生み出していく。
二連目は、こうつづく。文体が突然変化する。変化したように、私には感じられる。
エウロパを巡る血管欠陥が窓に浮かびあがる
放課のこどもらが
魚がいるよ! と喚きたて
天体図鑑はわたしの手から 若者の温かい手へ
やわらかい湿った幼い手へ ついに
夏服を着たあおじろい妊婦の下腹に睡る児へ 渡され
さらに傾く図書室
一連目の「あかい地肌」が「血管」につながり、「衛星」が「妊婦の下腹」につながり、「血管」はそのとき「胎児」へとつながる。ここには「強い」つながりがある。「見る」という動詞が「目」を離れ、「肉体」のなかにもぐり込んで、「見えない」ものを「見る」、遠くにあるものを見るのではなく、内部にあるものを見るという具合に内向する。
それは「わかる」のだが、一連目のことばの「つながり」の静かさ(外的な論理の整合性)と、二連目のことばの「つながり」の強さ、「静かさ/外的関係」から「強さ/内的関係」への変化が、「わかりにくい」。ことばをつないでいた「論理」のあり方が違ってしまった感じがする。そのため、私には、まったく違った文体という感じになり、そこに「わかりにくさ」を感じてしまう。
「わかりにくさ」のなかに、北原の「肉体」がある。私の「肉体」とは別の、断絶した「肉体」があると言ってしまうと、それはそうなのかもしれないが。私は、ここに、つまずくのである。
言いなおすと、「主語」と「動詞」が、大きく変わってしまったと感じ、ついていけなくなる。
動詞の変化を印象づけるのは、「渡され」という「受け身」で書かれたことば。いったい「だれ(主語)」が「渡す(述語)」のか。この省略された(?)「主語」、不明の「主語」のために、「強引さ」(強さ)を感じるのかもしれないなあ。「訝る」という動詞を生きていた肉体と違う肉体が動いていると感じて、そこに戸惑う。
あ、何を書いているのか、だんだんわからなくなってきた。
違うことを、書こう。
「Barroco」の一連目。
川べりに
毀された真珠が息をひそめ
かすかなところにすまいしているものらが
水を曲げている
名まえを呼ぶと
おどろいたように水はふりむく
「かすかなところにすまいしているものらが/水を曲げている」がとてもおもしろい。「かすかなところにすまいしているもの」とは「毀された真珠」だろうか。それが何の「比喩」なのか、あるいはそれは「ほんものの真珠」なのかわからないが、「毀された」ものが「受け身」のままにいるのではなく、そこから「能動」的に動き「水を曲げる」というのが、「息をひそめる」という静かな力の反逆のようで、ぐいっと迫ってくる。
「名まえを呼ぶと/おどろいたように水はふりむく」も魅力的だ。呼ばれることで、水は「曲げられた」ことに気がついたのか。振り向いたのは「水」であるはずなのに、何か、水を曲げたもの、息をひそめているものも、いっしょに反応しているように感じてしまう。その反応が水に影響し、そのために水はさらに「驚き」「振り向く」ように感じられる。
またこの一連目で、人間ではなく「もの」「水」が「主語」になっているのも、西洋もの、翻訳物という感じで、その「文体」の一貫性が美しいとも思う。
「聖母子」の一連目と同じように、静かなつながりが文体を美しいものにしているのを感じる。けれど、この詩でも、私は二連目からの変化がよくわからない。誘われて進むけれど、そこでつまずいてしまう。
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