詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一方井亜稀「青色とホープ」、江夏名枝「光の萼」

2016-08-10 11:00:14 | 詩(雑誌・同人誌)
一方井亜稀「青色とホープ」、江夏名枝「光の萼」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 きのう読んだ板垣憲司の詩。「素材」というか登場してくる「もの」が古くてびっくりしたが、一方井亜稀「青色とホープ」にも同じことで驚かされた。

捨てられた青い目の人形
その青を望みのようにして
飾りのように過ごしていく
高い窓から転落した体も
フロアの隅に置き去りにされた体も
言葉になって取引されて
古いレコードばかりが回る

 「レコード」はまたブームになっているようだから「古い」とは言えないかもしれないが、「捨てられた青い目の人形」に驚いてしまう。一方井には「青い目」が新鮮なのだろうか。「捨てられた」という1970年代の「抒情」が新鮮なのだろうか。
 「捨てられた青い目の人形」は「高い窓から転落した体も」と言い換えられたあと、「フロアの隅に置き去りにされた体」と「話者」の「体」と重ねあわせられる。そのとき「捨てられた」は「置き去りにされた」となり、「置き去りにされた」の意味が「捨てられた」へと変わる。「体」という「名詞」がそれをつなぐ。
 この瞬間、「話者」は「青い目の人形」という「比喩/象徴」と入れ代わる。つまり、「話者」は自分自身を「青い目の人形」と見ていることになる。
 整然とした「抒情」だなあ。
 ここから「古いレコード」へとつながっていくのだが、うーん、レコードのように「一本の道」でできた「抒情」だと私は感じてしまう。
 いまの若者って、ほんとうにこう感じている?

HOPEをポケットに捩じ込んでいく
空き地のライターも
螺子もコードも
すべて吹っ飛んだあとだろう

 私はたばこを吸わないので知らないが、まだ「HOPE」というのはあるんだろうか。「空き地」「ライター」「螺子」「コード」というのは、いまもあるだろうけれど、うーん、そういうものに目が注がれる、そしてそれがことばになる、というのは、私の年代の「肉体」ではどうしても1970年代へ引き戻された感じがしてしまう。
 「ライター」は、私は、ここ10年以上、見たことがない。いや、たばこを吸っている人や、たばこを吸う人を見たことがあるから、そのとき「ライター」も見ているはずだろうけれど、「ライター」ということばで、そのものが「分節」されてくることはなかった。なんだか驚いてしまうのである。

いつもの角を曲がろうにも
いつもの角が見つからない
取引されたあとの
空の青さだけがあり
ここには望みしかないのだと
誰かがうたう

 「空の青さ」。その直前の「取引されたあと」というのは、「捨てられた」「置き去りにされた」と同じ意味だろう。
 「捨てられる」を「取引する」という「動詞」へと動かしていくところが、1970年代とは違うね。
 この「新しさ」を指摘しないといけないのだろうけれど、途中に出てくる「素材」に足元をすくわれる感じがして、どうことばを動かしていっていいのか、まだ、わからない。
 そういうこととは関係なく。
 この「空の青さ」は最果の詩にも、暁方の詩にもあったような気がするなあ。虚無と言っていいくらいの絶対的な青。透明すぎる青。透明すぎて、逆に暗くなる青。深さを持った青。その「深さ」。そうか、あれは「捨てられた」青、「断絶した」青だったのか、とぼんやりと思うのだった。
 それは「世代」の共有感覚なのか。



 江夏名枝「光の萼」。

 薄明は見そめられたかのように深い濃紺へ眉をひき、初夏は夕暮れから息を長く。反射する塵のうつわ。言葉を介さずとも、あなたの背中が綺麗だ。

 ここに出てくる「深い濃紺」も、一方井の「空の青さ」に通じるのだろう。
 江夏の書き出しの一行は「薄明」から「夕暮れ」へと時間的に長い。「眉をひき」という「比喩」を挟んで、一気に飛躍する。その「飛躍」の「着地」が私にはよくわからないが「眉をひき」の「ひく」という動詞が、「息を長く/ひく」という具合に隠されているのかもしれない。
 「眉を(長く)ひく」と「息を長く(ひく)」ということばの中には、隠蔽と表出が交錯していて、この見せているような、隠しているような感じが、交錯の瞬間、反射する。「反射する」ということばが出てくるから、そう感じるのかもしれないが。
 そのあとの、「言葉を介さずとも、あなたの背中が綺麗だ。」の「言葉を介さずとも」は、「言葉を介して」何かを「綺麗」にしたいという江夏の欲望を隠しているかもしれない。存在を「言葉を介して」明るみに出す、存在させる、「言葉を介して」生まれ変わらせる。それが、詩。そう信じているのだと思う。

 夏の空が美しいのは、季節は終わらないというやさしい嘘をついてくれるから。

 「ことばを介して」は「嘘」をついて、と同じである。そこから読み直すと、「あなたの背中は、嘘をつかなくても、綺麗だ」ということになる。「ほんとうに」綺麗だということになる。
 本当と嘘(ことば)が、ここでも隠蔽と表出の拮抗として動いている。

 このあと江夏のことばは、一方井のことばとは違って、1970年代のキッチュ(?)へではなく、「外国文学」のなかのことばを収集しにゆく。

 いまの若い人たちは、いったいどこにいるのかなあ、その「場」がよくわからない。「断絶」というのは古いことばだが、私とは「断絶」した世界にいるのだろうなあ、というようなことを感じた。
 (最果や暁方の詩には、同じ時代に生きている、という感じはするのだが。)

白日窓
一方井 亜稀
思潮社
コメント
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