自民党憲法改正草案を読む/番外11(08月18日NHK報道)
08月18日NHKの報道された「家庭の経済的事情で進学を断念」がさまざまなところで話題になっている。私は仕事中に偶然、「パソコンが買えないので、練習用のキーボードだけ買ってもらった」と少女が語っているところ、「進学の夢をもっている子供を助けてほしい」というようなことを語っている部分を見ただけなのだが。
その後の、ネットでのバッシングが強烈である。
発言した少女の部屋には高額のイラスト用のセットがあるという指摘から始まり、報道されなかった部分をネット(ツイッターの書き込み)から探し出し、「1000円以上のランチを食べている」「アニメのグッズを買っている」「コンサートに行っている」、だから「貧乏じゃない」。
さらに、これに自民党の片山さつきが加わり、少女の生活ぶりに皮肉を言ったあと、「NHKに説明を求める」とも言ったらしい。(伝聞で読んでいるだけで、片山の発言を直接読んだわけではない。)
これは、なんだか、とても気持ちが悪い。
少女が入学金(50万円だったかな?)を工面できなくて進学を断念したというのは「事実」としてある。そのことを少女は訴えた。
それに対して、「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買うなら、貧乏ではないとネットの書き込み社は言うのだが、こういう論理は「感情的」であって、「論理」そのものとしては成り立たない。書き込み者が指摘しているものはどれも「50万円」以下である。少女が訴えたのは「50万円が工面できない」ということであって、何かが買えないと訴えたのではない。
少女を批判した人は、いろいろ節約すれば50万円は工面できるのではないか、ということかもしれない。他の人はそうしている、と言いたいのかもしれない。そういう「論理」は成り立つかもしれないけれど、それは人に対して「生き方」を強要することにはならないか。
「貧困」を訴え、「助け」をもとめるなら、「貧困者らしくしていろ」と言っているように聞こえる。
それは何といえばいいのか、「理想の貧困者象」の押し付けのように聞こえる。自分が定義する「貧困者」に合致するなら助けてやる。そうでないなら、助けない、と言っているように聞こえる。
そして、それは私には、自民党憲法改正草案の「先取り」に見える。
改正草案には「保障する」ということばがたくさん出てくる。「保障する」とは「社会保障」「安全保障」ということばから考えると、困っているとき「助ける」、困っているひとを「守る」ということだと思うが、改正草案の「保障する」はただ「守る」「助ける」とは言っていない。
貧困ではなく、思想、良心に触れた部分を読む。(すでに書いてきたことの繰り返しだが)
現行憲法の「侵してはならない」は「国は侵してはならない」という意味。国に対して「禁止」している。改正草案では、この国に対する禁止がない。ただ「保障する(守る)」と言っている。でも、どんな「思想」でも「守る」ということは、どうみてもおかしい。「守る」ことのできない「思想」というものもある。
安倍内閣は、3月22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定したが、これなどは「共産党の思想は保障しない(守らない/何をするか監視し続ける)」ということだろう。
改正草案が「保障する」のは、政権が「理想とする思想」のみを「保障する」のである。相反する思想は「保障しない」ということ。
「貧困」についても同じなのだ。政府が「貧困」と認定する「理想の貧困」なら助けるが、「理想としない貧困」は助けない。「保障しない」。
「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買えるなら「貧困ではない」。だから、「助けない」。「貧困」を訴えるなら、あらゆる個人的な楽しみを放棄しろ、と言っているように聞こえる。イラスト用セットも、1000円ランチも、アニメグッズも、コンサートも、少女が、専門学校にいけないならせめて自分でアニメキャラクターのデザインを勉強しようとして出資したものかもしれないのに、なぜ、それを買ったのかも訪ねないで、「貧困の定義にあわない」(理想の貧困者ではない)と否定している。
こういう不思議なバッシングは、もちろん「個人」がおこなっているのだが、その背後には「理想の人間像」だけを育てる、保障するという自民党の憲法改正草案の「先取り」行動が反映されているように、私は感じる。
春先、子供が幼稚園に落ちた女性が、「日本死ね」とネットで発言した。このままじゃ、働けない。助けてという悲鳴なのだが、これに対して安倍は「匿名発言で事実かどうかわからない」と言った。自民党議員は「死ね」という言い方はよくない、というようなことを言った。「困っているなら政府を乱暴なことばで批判するのではなく、ていねいにへりくだって頼みなさい」ということだろう。批判するのではなく、丁寧に、「お願いします」というのなら保障する(助けてやる)と言っているように、私には聞こえた。
政府に対して批判するのではなく、お願いするのが国民の「正しい姿である」というのが改正草案に書かれていることなのだ。
そういう風潮は、じわりじわりと国民を縛りつけている。そして、政府のそういう「理想像」にあわせるように、政府に気に入られるように、ふるまう国民が増えてきているということだろう。政府に気に入られるように動けば、自分にもいいことがあるのではないだろうか、という「期待」をしているようにも思える。
ここにはさらに、自分よりも貧困な人間をつくりだすことで(貧困層を定義することで)、自分はまだ貧困ではないという「幻想」をもとうとしている人間もいるように私は感じてしまう。「一億総中流」と言われた時代は終わった。なんとか「中流」にとどまっているという「幻想」のために、「貧困層」を求めているひとがいるというのが、いまの「現実」なのではないのか。
「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買って、そのうえでデザイン専門学校に進学したいと「貧困者」は思ってはいけないのか。「貧困者」は「理想の貧困者」にならないかぎり、あらゆる「保障」は受けられないのか。
さらにギョッとするのが片山さつきの行動である。
国会議員は国民を助けるためにいるはずである。国民の生活を「保証する」のが国会議員であるはずだ。それが逆に動いている。(片山は、「偽装貧困者」を許すことは、ほんとうの貧困者の助けるとき、資金不足になる恐れがある、というかもしれないが。)
国会議員がそんなことをしていては、貧困者はますます「声」をあげられなくなる。「助けて」と言えなくなる。
さらに、さらに問題なのが「NHKに説明を求める」ということ。これは放送への「圧力」ではないのか。片山が考えている「貧困」とは違うものを貧困問題として取り扱っている、どうしてなのか、と説明を求めるのだろうか。「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買っても「貧困」ととらえるのは間違っているというつもりなのだろうか。あるいは「政府批判」や「権利の要求」につながることは放送するなと言うつもりなのか。
これは「事後検閲」にならないのか。
「検閲」については、改正草案で
とあり、「禁止」されているように見える。しかし、このときの「してはならない」の「禁止されている対象」は「国」ではなく「国民」である。
それは改正草案の
と関連づけて読まないといけない。「第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。」は現行憲法にはない文言である。
ここで注意しなければならないのは「してはならない」の「主語」が「何人」であることだ。禁止されているのは「国民」であって、「国」ではない。(現行憲法は、国に対して「禁止」を設けているが、国民に対しては何も禁止していない。国民に対する禁止は「法律」で決められている。)
これは逆に言えば、国民は「他人の情報を不当に取得し、利用する」、あるいは「検閲する」ことや「通信の秘密を侵す」ことは禁じているが、国はしていもいいと言ってるのである。
そして、実際に片山は「事後」ではあるが、それをやろうとしている。
「事後」だからいいのでは、という意見もあるかもしれないが、一度「事後」を許してしまえば、それはすぐに「事前」の「自粛」につながる。こういうことを放送すれば、また「苦情」がきて、「検閲」がおこなわれる。それは面倒だ。ということになってしまう。
「事後」を当然のことのようにしておこなうことで、「事前」をやるぞと、「先取り」する形で動いているのである。
いま起きていることを、改正草案と結びつけて読むことで、憲法が改正されてしまったらどうなるか、それに注目しなければならないと思う。
*
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08月18日NHKの報道された「家庭の経済的事情で進学を断念」がさまざまなところで話題になっている。私は仕事中に偶然、「パソコンが買えないので、練習用のキーボードだけ買ってもらった」と少女が語っているところ、「進学の夢をもっている子供を助けてほしい」というようなことを語っている部分を見ただけなのだが。
その後の、ネットでのバッシングが強烈である。
発言した少女の部屋には高額のイラスト用のセットがあるという指摘から始まり、報道されなかった部分をネット(ツイッターの書き込み)から探し出し、「1000円以上のランチを食べている」「アニメのグッズを買っている」「コンサートに行っている」、だから「貧乏じゃない」。
さらに、これに自民党の片山さつきが加わり、少女の生活ぶりに皮肉を言ったあと、「NHKに説明を求める」とも言ったらしい。(伝聞で読んでいるだけで、片山の発言を直接読んだわけではない。)
これは、なんだか、とても気持ちが悪い。
少女が入学金(50万円だったかな?)を工面できなくて進学を断念したというのは「事実」としてある。そのことを少女は訴えた。
それに対して、「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買うなら、貧乏ではないとネットの書き込み社は言うのだが、こういう論理は「感情的」であって、「論理」そのものとしては成り立たない。書き込み者が指摘しているものはどれも「50万円」以下である。少女が訴えたのは「50万円が工面できない」ということであって、何かが買えないと訴えたのではない。
少女を批判した人は、いろいろ節約すれば50万円は工面できるのではないか、ということかもしれない。他の人はそうしている、と言いたいのかもしれない。そういう「論理」は成り立つかもしれないけれど、それは人に対して「生き方」を強要することにはならないか。
「貧困」を訴え、「助け」をもとめるなら、「貧困者らしくしていろ」と言っているように聞こえる。
それは何といえばいいのか、「理想の貧困者象」の押し付けのように聞こえる。自分が定義する「貧困者」に合致するなら助けてやる。そうでないなら、助けない、と言っているように聞こえる。
そして、それは私には、自民党憲法改正草案の「先取り」に見える。
改正草案には「保障する」ということばがたくさん出てくる。「保障する」とは「社会保障」「安全保障」ということばから考えると、困っているとき「助ける」、困っているひとを「守る」ということだと思うが、改正草案の「保障する」はただ「守る」「助ける」とは言っていない。
貧困ではなく、思想、良心に触れた部分を読む。(すでに書いてきたことの繰り返しだが)
(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
現行憲法の「侵してはならない」は「国は侵してはならない」という意味。国に対して「禁止」している。改正草案では、この国に対する禁止がない。ただ「保障する(守る)」と言っている。でも、どんな「思想」でも「守る」ということは、どうみてもおかしい。「守る」ことのできない「思想」というものもある。
安倍内閣は、3月22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定したが、これなどは「共産党の思想は保障しない(守らない/何をするか監視し続ける)」ということだろう。
改正草案が「保障する」のは、政権が「理想とする思想」のみを「保障する」のである。相反する思想は「保障しない」ということ。
「貧困」についても同じなのだ。政府が「貧困」と認定する「理想の貧困」なら助けるが、「理想としない貧困」は助けない。「保障しない」。
「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買えるなら「貧困ではない」。だから、「助けない」。「貧困」を訴えるなら、あらゆる個人的な楽しみを放棄しろ、と言っているように聞こえる。イラスト用セットも、1000円ランチも、アニメグッズも、コンサートも、少女が、専門学校にいけないならせめて自分でアニメキャラクターのデザインを勉強しようとして出資したものかもしれないのに、なぜ、それを買ったのかも訪ねないで、「貧困の定義にあわない」(理想の貧困者ではない)と否定している。
こういう不思議なバッシングは、もちろん「個人」がおこなっているのだが、その背後には「理想の人間像」だけを育てる、保障するという自民党の憲法改正草案の「先取り」行動が反映されているように、私は感じる。
春先、子供が幼稚園に落ちた女性が、「日本死ね」とネットで発言した。このままじゃ、働けない。助けてという悲鳴なのだが、これに対して安倍は「匿名発言で事実かどうかわからない」と言った。自民党議員は「死ね」という言い方はよくない、というようなことを言った。「困っているなら政府を乱暴なことばで批判するのではなく、ていねいにへりくだって頼みなさい」ということだろう。批判するのではなく、丁寧に、「お願いします」というのなら保障する(助けてやる)と言っているように、私には聞こえた。
政府に対して批判するのではなく、お願いするのが国民の「正しい姿である」というのが改正草案に書かれていることなのだ。
そういう風潮は、じわりじわりと国民を縛りつけている。そして、政府のそういう「理想像」にあわせるように、政府に気に入られるように、ふるまう国民が増えてきているということだろう。政府に気に入られるように動けば、自分にもいいことがあるのではないだろうか、という「期待」をしているようにも思える。
ここにはさらに、自分よりも貧困な人間をつくりだすことで(貧困層を定義することで)、自分はまだ貧困ではないという「幻想」をもとうとしている人間もいるように私は感じてしまう。「一億総中流」と言われた時代は終わった。なんとか「中流」にとどまっているという「幻想」のために、「貧困層」を求めているひとがいるというのが、いまの「現実」なのではないのか。
「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買って、そのうえでデザイン専門学校に進学したいと「貧困者」は思ってはいけないのか。「貧困者」は「理想の貧困者」にならないかぎり、あらゆる「保障」は受けられないのか。
さらにギョッとするのが片山さつきの行動である。
国会議員は国民を助けるためにいるはずである。国民の生活を「保証する」のが国会議員であるはずだ。それが逆に動いている。(片山は、「偽装貧困者」を許すことは、ほんとうの貧困者の助けるとき、資金不足になる恐れがある、というかもしれないが。)
国会議員がそんなことをしていては、貧困者はますます「声」をあげられなくなる。「助けて」と言えなくなる。
さらに、さらに問題なのが「NHKに説明を求める」ということ。これは放送への「圧力」ではないのか。片山が考えている「貧困」とは違うものを貧困問題として取り扱っている、どうしてなのか、と説明を求めるのだろうか。「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買っても「貧困」ととらえるのは間違っているというつもりなのだろうか。あるいは「政府批判」や「権利の要求」につながることは放送するなと言うつもりなのか。
これは「事後検閲」にならないのか。
「検閲」については、改正草案で
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
とあり、「禁止」されているように見える。しかし、このときの「してはならない」の「禁止されている対象」は「国」ではなく「国民」である。
それは改正草案の
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
と関連づけて読まないといけない。「第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。」は現行憲法にはない文言である。
ここで注意しなければならないのは「してはならない」の「主語」が「何人」であることだ。禁止されているのは「国民」であって、「国」ではない。(現行憲法は、国に対して「禁止」を設けているが、国民に対しては何も禁止していない。国民に対する禁止は「法律」で決められている。)
これは逆に言えば、国民は「他人の情報を不当に取得し、利用する」、あるいは「検閲する」ことや「通信の秘密を侵す」ことは禁じているが、国はしていもいいと言ってるのである。
そして、実際に片山は「事後」ではあるが、それをやろうとしている。
「事後」だからいいのでは、という意見もあるかもしれないが、一度「事後」を許してしまえば、それはすぐに「事前」の「自粛」につながる。こういうことを放送すれば、また「苦情」がきて、「検閲」がおこなわれる。それは面倒だ。ということになってしまう。
「事後」を当然のことのようにしておこなうことで、「事前」をやるぞと、「先取り」する形で動いているのである。
いま起きていることを、改正草案と結びつけて読むことで、憲法が改正されてしまったらどうなるか、それに注目しなければならないと思う。
*
『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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