詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外11(08月18日NHK報道)

2016-08-25 12:33:17 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外11(08月18日NHK報道)

 08月18日NHKの報道された「家庭の経済的事情で進学を断念」がさまざまなところで話題になっている。私は仕事中に偶然、「パソコンが買えないので、練習用のキーボードだけ買ってもらった」と少女が語っているところ、「進学の夢をもっている子供を助けてほしい」というようなことを語っている部分を見ただけなのだが。
 その後の、ネットでのバッシングが強烈である。
 発言した少女の部屋には高額のイラスト用のセットがあるという指摘から始まり、報道されなかった部分をネット(ツイッターの書き込み)から探し出し、「1000円以上のランチを食べている」「アニメのグッズを買っている」「コンサートに行っている」、だから「貧乏じゃない」。
 さらに、これに自民党の片山さつきが加わり、少女の生活ぶりに皮肉を言ったあと、「NHKに説明を求める」とも言ったらしい。(伝聞で読んでいるだけで、片山の発言を直接読んだわけではない。)

 これは、なんだか、とても気持ちが悪い。
 少女が入学金(50万円だったかな?)を工面できなくて進学を断念したというのは「事実」としてある。そのことを少女は訴えた。
 それに対して、「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買うなら、貧乏ではないとネットの書き込み社は言うのだが、こういう論理は「感情的」であって、「論理」そのものとしては成り立たない。書き込み者が指摘しているものはどれも「50万円」以下である。少女が訴えたのは「50万円が工面できない」ということであって、何かが買えないと訴えたのではない。
 少女を批判した人は、いろいろ節約すれば50万円は工面できるのではないか、ということかもしれない。他の人はそうしている、と言いたいのかもしれない。そういう「論理」は成り立つかもしれないけれど、それは人に対して「生き方」を強要することにはならないか。
 「貧困」を訴え、「助け」をもとめるなら、「貧困者らしくしていろ」と言っているように聞こえる。
 それは何といえばいいのか、「理想の貧困者象」の押し付けのように聞こえる。自分が定義する「貧困者」に合致するなら助けてやる。そうでないなら、助けない、と言っているように聞こえる。
 そして、それは私には、自民党憲法改正草案の「先取り」に見える。
 改正草案には「保障する」ということばがたくさん出てくる。「保障する」とは「社会保障」「安全保障」ということばから考えると、困っているとき「助ける」、困っているひとを「守る」ということだと思うが、改正草案の「保障する」はただ「守る」「助ける」とは言っていない。
 貧困ではなく、思想、良心に触れた部分を読む。(すでに書いてきたことの繰り返しだが)

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。

 現行憲法の「侵してはならない」は「国は侵してはならない」という意味。国に対して「禁止」している。改正草案では、この国に対する禁止がない。ただ「保障する(守る)」と言っている。でも、どんな「思想」でも「守る」ということは、どうみてもおかしい。「守る」ことのできない「思想」というものもある。
 安倍内閣は、3月22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定したが、これなどは「共産党の思想は保障しない(守らない/何をするか監視し続ける)」ということだろう。
 改正草案が「保障する」のは、政権が「理想とする思想」のみを「保障する」のである。相反する思想は「保障しない」ということ。

 「貧困」についても同じなのだ。政府が「貧困」と認定する「理想の貧困」なら助けるが、「理想としない貧困」は助けない。「保障しない」。
 「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買えるなら「貧困ではない」。だから、「助けない」。「貧困」を訴えるなら、あらゆる個人的な楽しみを放棄しろ、と言っているように聞こえる。イラスト用セットも、1000円ランチも、アニメグッズも、コンサートも、少女が、専門学校にいけないならせめて自分でアニメキャラクターのデザインを勉強しようとして出資したものかもしれないのに、なぜ、それを買ったのかも訪ねないで、「貧困の定義にあわない」(理想の貧困者ではない)と否定している。
 こういう不思議なバッシングは、もちろん「個人」がおこなっているのだが、その背後には「理想の人間像」だけを育てる、保障するという自民党の憲法改正草案の「先取り」行動が反映されているように、私は感じる。
 春先、子供が幼稚園に落ちた女性が、「日本死ね」とネットで発言した。このままじゃ、働けない。助けてという悲鳴なのだが、これに対して安倍は「匿名発言で事実かどうかわからない」と言った。自民党議員は「死ね」という言い方はよくない、というようなことを言った。「困っているなら政府を乱暴なことばで批判するのではなく、ていねいにへりくだって頼みなさい」ということだろう。批判するのではなく、丁寧に、「お願いします」というのなら保障する(助けてやる)と言っているように、私には聞こえた。
 政府に対して批判するのではなく、お願いするのが国民の「正しい姿である」というのが改正草案に書かれていることなのだ。
 そういう風潮は、じわりじわりと国民を縛りつけている。そして、政府のそういう「理想像」にあわせるように、政府に気に入られるように、ふるまう国民が増えてきているということだろう。政府に気に入られるように動けば、自分にもいいことがあるのではないだろうか、という「期待」をしているようにも思える。

 ここにはさらに、自分よりも貧困な人間をつくりだすことで(貧困層を定義することで)、自分はまだ貧困ではないという「幻想」をもとうとしている人間もいるように私は感じてしまう。「一億総中流」と言われた時代は終わった。なんとか「中流」にとどまっているという「幻想」のために、「貧困層」を求めているひとがいるというのが、いまの「現実」なのではないのか。
 「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買って、そのうえでデザイン専門学校に進学したいと「貧困者」は思ってはいけないのか。「貧困者」は「理想の貧困者」にならないかぎり、あらゆる「保障」は受けられないのか。

 さらにギョッとするのが片山さつきの行動である。
 国会議員は国民を助けるためにいるはずである。国民の生活を「保証する」のが国会議員であるはずだ。それが逆に動いている。(片山は、「偽装貧困者」を許すことは、ほんとうの貧困者の助けるとき、資金不足になる恐れがある、というかもしれないが。)
 国会議員がそんなことをしていては、貧困者はますます「声」をあげられなくなる。「助けて」と言えなくなる。
 さらに、さらに問題なのが「NHKに説明を求める」ということ。これは放送への「圧力」ではないのか。片山が考えている「貧困」とは違うものを貧困問題として取り扱っている、どうしてなのか、と説明を求めるのだろうか。「高額のイラスト用のセット」「1000円以上のランチ」「アニメのグッズ」「コンサートのチケット」を買っても「貧困」ととらえるのは間違っているというつもりなのだろうか。あるいは「政府批判」や「権利の要求」につながることは放送するなと言うつもりなのか。
 これは「事後検閲」にならないのか。
 「検閲」については、改正草案で

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 とあり、「禁止」されているように見える。しかし、このときの「してはならない」の「禁止されている対象」は「国」ではなく「国民」である。
 それは改正草案の

第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 と関連づけて読まないといけない。「第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。」は現行憲法にはない文言である。
 ここで注意しなければならないのは「してはならない」の「主語」が「何人」であることだ。禁止されているのは「国民」であって、「国」ではない。(現行憲法は、国に対して「禁止」を設けているが、国民に対しては何も禁止していない。国民に対する禁止は「法律」で決められている。)
 これは逆に言えば、国民は「他人の情報を不当に取得し、利用する」、あるいは「検閲する」ことや「通信の秘密を侵す」ことは禁じているが、国はしていもいいと言ってるのである。
 そして、実際に片山は「事後」ではあるが、それをやろうとしている。
 「事後」だからいいのでは、という意見もあるかもしれないが、一度「事後」を許してしまえば、それはすぐに「事前」の「自粛」につながる。こういうことを放送すれば、また「苦情」がきて、「検閲」がおこなわれる。それは面倒だ。ということになってしまう。
 「事後」を当然のことのようにしておこなうことで、「事前」をやるぞと、「先取り」する形で動いているのである。
 いま起きていることを、改正草案と結びつけて読むことで、憲法が改正されてしまったらどうなるか、それに注目しなければならないと思う。



*

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松岡政則「こえがれ」

2016-08-25 10:35:22 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「こえがれ」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 松岡政正則「こえがれ」には、わからないところがある。そして、それが魅力的だ。「わからない」ところへ誘われてしまうのだ。

忍耐はない
性癖は治らない
ともだちはいない起立しない
「声帯萎縮です」と医者はいう
「しゃべらないでいると退化するのです」という
誰かのことをみなでうすく笑っている
わたしもお國も取り返しのつかないところにいるらしい
錆びたトタン波板の外壁
みかんの花咲く島で暮らすことになりました。

 「声帯萎縮」というものがあるかどうか、私は知らない。声帯が縮んで、声が出にくくなる。それが「こえがれ」(声嗄れ)だろうか。実際の「声」ではなく、「ことば(もの)」が言いにくい、という状況かもしれない。何かを言おうとすると(あるいは言ってしまうと/行動すると)、誰かが(ひとが)冷笑している。
 たとえば、「君が代」をみんなが起立して歌うとき、歌うことを拒否して椅子に座ったままでいる。そういうことをひとが「うすく笑っている」。
 以前は言えたこと(主張できたこと)が、主張できなくなっている。「声が嗄れた」ようになっている。
 「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」とは、現代の日本の状況か。何かを言おうとすると、言えない。それは「わたし」にとっても取り返しのつかない状況だろうが、「国(松岡は、正字で「國」と古めかしく書いている)」にとっても取り返しのつかないことなのではないか。
 そんなことを思いながら、ひとから離れて「みかんの花咲く島」に引っ越したというのだろうか。
 少し唐突な、そしてだからこそ、何か切羽詰まった感じのする「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」は二連目で言いなおされている。

過剰な接続で
誰しもが疲れている
くろいフレコンバッグと貧困世代
わたしらは知っている
知っていてなにもしないでいる
ひとがひとを信じるとはどういう刹那をいうのだったか
モノになっていくわたしら、
「正気」が保てなくわたしら、
憲法にまもられた時代は終わりました。
もうどんな顔でいたらいいのかわかりません。

 「知っていてなにもしないでいる」とは「知っていて何も言わないでいる」だろう。「しない」は「言わない」なのだ。
 いや、「言わない」でも「言う」ことができる。たとえば、「君が代斉唱」のとき「起立しない」ということができる。そういう「ことば」を発しない瞬間にも、「ひとがひとを信じるとはどういう刹那」というものがある。「行動」が「信じる」に繋がっていく。そういう「行動」の「ことば(声)も失くしている。
 いま、ひとは「声(ことば)」を失くし、「正気」を失くし、「モノになっていく」。
 もう、ひとが「憲法にまもられた時代は終わりました。」と感じている。これは「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」をもっと直接的に言いなおしたものだろう。
 これを松岡はさらに言いなおす。

いみには約めない
歩くの成熟はもとめない
ない、という力
しらない、という歓び
所有する、がひとをダメにする
爆心地の方からなにかくるいっぱいくる
雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい
わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい
しぐさ振る舞いにも感情はあるのです。

 「いみには約めない」は「意味には縮めない(要約しない)」ということか。
 私のこの感想は「意味」に「要約」してしまっているので、松岡の書いていることに反してしまうが、「意味」に要約してしまってはいけないことがある。
 詩は、その「要約してはいけない」もののひとつである。
 「意味」は解放したままにしておかなければならない。
 わかっているつもりだが、もうしばらく、「要約」をつづけよう。わからないものを、わかったふうに装って、近づいていこう。「誤読」をつづけよう。
 「歩くの成熟はもとめない」とは「成長は求めない」と言いなおすことができるかもしれない。「成長」とは「経済成長」のことである。「モノを大量に所有できる」という形での「成長」も求めない、ということかもしれない。「成長」が強いてくる何かを「拒絶する」ということかもしれない。
 「ない」には、たしかに力がある。
 「起立しない」の「ない」は「意思」の力である。
 「爆心地の方からなにかくるいっぱいくる」の「なにか」はことばにできないなにか、ではない。ことばにする「必要がない」何かである。二連目に書かれていた「わたしらは知っている」の「知っている」何かである。「知っている」は自分の「肉体」になっている何かである。そして、そういう「知っている」が出会うとき、「ひとがひとを信じる」ということが起きる。これは、ことばにする必要は「ない」。
 「雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい」の「こわれて」は、ことばを持たないまま、「意味」に要約しないで、「肉体」そのものになって、ということだろう。
 「わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい」は「意味」を放棄して、拒絶して、「無意味の肉体/意味に汚染されない純粋な肉体」になって、ただ動きたいということだろう。
 「ことば/声」だけに「意味」、あるいは「感情」があるのではない。「肉体」そのものにも「感情(意味に要約できないこころの動き)」というものがある。

 最近の松岡は、台湾を旅行し、そこに暮らすひとの「肉体」を反復し、「声」に寄り添う詩を書いてきた、という印象が、私にはある。そうすることで「声帯の領域」を広げてきた。「声」そのものを魅力的にしてきた。
 いま、広島で、「国家」が求める「声」とは違う「声」を鍛えようとしている、と感じた。こういう「誤読(要約)」は松岡の詩の深みをないがしろにするものかもしれないが……。
艸の、息
クリエーター情報なし
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