暁方ミセイ「怪予兆」(「現代詩手帖」2016年08月号)
暁方ミセイ「怪予兆」は、最後の方に(特に終わりから数えて二連目に)、暁方の書きたいことが凝縮されているのかもしれないが、私は前半を繰り返し繰り返し読んだ。
最初の六行の、不思議な粘着力。舌が口の奥を触るときの連続感じがそのままぬるっと動く感じがおもしろい。そのあと「ああ熱を少し持っている/結構痛む」と一行ずつ完結させて、ふたたび一文が伸びる。そのときの変化が美しい。
それまで自分の「肉体」をたどる「わたし」が「主語」だったのに、こでは「風」が文章上の「主語」になる。もちろん実際は、「さびしげな音をたてる」と感じ取る「わたし」という「主語」が隠れているのだが、隠れるというよりも「わたし」が「風」になって「寂しげな音をたてる」という「動詞」を生きている感じがする。
「私」がとても自然に「わたし」以外のものになる。「比喩」とになって、「わたし」を生きる。「わたし」が「比喩」になって「比喩」を生きる、という方が「現実的」な読み方なのかもしれないが、「比喩」の方が「わたし」になって生きる、といいたい感じがする。
それだけ「比喩」と「私」が一体感をもって融合しているということだろう。
「ぞお、ぞお、と鳴る」が、強い。その前に書かれている「森」そのものの中を通ってきた風の音という感じ。
「あの森へは近づかない」と書いているのだから「肉体」そのものは「森」を通ってはいない。しかし「近づかない」と決意し、さらに「首吊があった」と思い出し、「花束が置いてある」という情景を思い出すとき、「わたし」はその森を通っている。記憶の肉体/肉体の記憶が、そこを通っている。「わたし」は、そのとき「精神/記憶」という「比喩」である。「比喩」として森を通ることで、「肉体」は「風」になり、「ぞお、ぞお、と鳴る」。
この「ぞお、ぞお、と鳴る」は次の行の「闇と雲」を修飾しているのかもしれないが、私は「闇と雲」を修飾すると同時に、前に書かれている「通って」を言いなおしているものと感じた。
「現実の肉体」は森を通らず、街灯のある道を通る。けれど「比喩としての肉体」は森を通り、「森」になり、「森」が抱え込んでいるものを、「音」として吐き出す。
前半で「音をたてる」という運動だったものが「ぞお、ぞお、と鳴る」とかわる。「音をたてる」は「わたし」が何かに触れて「音をたてる」という感じ。「音」を発生する「対象」が「わたし」の外にある感じ。それに対して「鳴る」というのは、何か「内部」から「音」が出てくる感じがする。
「比喩」が「わたし」を生きることで、「わたし」の内部に何かが生まれ、それが外に引き出される感じ。「わたし」が何かを生み出す感じ。そこから「世界」そのものがかわっていく。
「わたし」が「歩いていく」、「匂い(葉の汁)」が「わたし」を「呼ぶ」と読むと「学校文法」になるのだろうけれど、「わたし」が「におい」になって「わたし」を呼ぶと、私は読んでしまう。「わたし」のなかにある「強い匂い」になってしまう「わたし」。「土のほうへ」というのさえ、「わたし」が「土」になって、「わたしである土」のほうへと呼ぶと感じてしまう。
区別がなくなって、あらゆる動詞が「述語」になって、世界が広がっていく。こういう感じが、私は好きである。
暁方ミセイ「怪予兆」は、最後の方に(特に終わりから数えて二連目に)、暁方の書きたいことが凝縮されているのかもしれないが、私は前半を繰り返し繰り返し読んだ。
抜かれた奥歯に舌を差し入れ
何度も柔らかな血塊に触れてみれば
さながらユートピアの
惨めな常夏と
やさしいぬるい風が
脳の奥ではじける
ああ熱を少し持っている
結構痛む
肉に開いた穴に風が通って
さみしげな音をたてる
最初の六行の、不思議な粘着力。舌が口の奥を触るときの連続感じがそのままぬるっと動く感じがおもしろい。そのあと「ああ熱を少し持っている/結構痛む」と一行ずつ完結させて、ふたたび一文が伸びる。そのときの変化が美しい。
それまで自分の「肉体」をたどる「わたし」が「主語」だったのに、こでは「風」が文章上の「主語」になる。もちろん実際は、「さびしげな音をたてる」と感じ取る「わたし」という「主語」が隠れているのだが、隠れるというよりも「わたし」が「風」になって「寂しげな音をたてる」という「動詞」を生きている感じがする。
「私」がとても自然に「わたし」以外のものになる。「比喩」とになって、「わたし」を生きる。「わたし」が「比喩」になって「比喩」を生きる、という方が「現実的」な読み方なのかもしれないが、「比喩」の方が「わたし」になって生きる、といいたい感じがする。
それだけ「比喩」と「私」が一体感をもって融合しているということだろう。
わたしは道の右側
あの森へは近づかない
何年も前に首吊があった森だからだ
雨上がりに花束が置いてあるからだ
まっすぐに街灯の下を通って
田んぼまで出てきた
そこで、ぞお、ぞお、と鳴る
闇と雲とを
灰色になるまで眺めていた
「ぞお、ぞお、と鳴る」が、強い。その前に書かれている「森」そのものの中を通ってきた風の音という感じ。
「あの森へは近づかない」と書いているのだから「肉体」そのものは「森」を通ってはいない。しかし「近づかない」と決意し、さらに「首吊があった」と思い出し、「花束が置いてある」という情景を思い出すとき、「わたし」はその森を通っている。記憶の肉体/肉体の記憶が、そこを通っている。「わたし」は、そのとき「精神/記憶」という「比喩」である。「比喩」として森を通ることで、「肉体」は「風」になり、「ぞお、ぞお、と鳴る」。
この「ぞお、ぞお、と鳴る」は次の行の「闇と雲」を修飾しているのかもしれないが、私は「闇と雲」を修飾すると同時に、前に書かれている「通って」を言いなおしているものと感じた。
「現実の肉体」は森を通らず、街灯のある道を通る。けれど「比喩としての肉体」は森を通り、「森」になり、「森」が抱え込んでいるものを、「音」として吐き出す。
前半で「音をたてる」という運動だったものが「ぞお、ぞお、と鳴る」とかわる。「音をたてる」は「わたし」が何かに触れて「音をたてる」という感じ。「音」を発生する「対象」が「わたし」の外にある感じ。それに対して「鳴る」というのは、何か「内部」から「音」が出てくる感じがする。
「比喩」が「わたし」を生きることで、「わたし」の内部に何かが生まれ、それが外に引き出される感じ。「わたし」が何かを生み出す感じ。そこから「世界」そのものがかわっていく。
白い花の香りを蔓草に乗せ
風にか細く唸りながらやってきた
重力のようなもの
わたしが生き物たちの呼吸を数えながら
知らないふりをして歩いていくと
花は萎れて
もっと強い草の匂い
踏み潰された肉厚の葉の汁が
低く、土のほうへと呼ぶ
呼ぶ
「わたし」が「歩いていく」、「匂い(葉の汁)」が「わたし」を「呼ぶ」と読むと「学校文法」になるのだろうけれど、「わたし」が「におい」になって「わたし」を呼ぶと、私は読んでしまう。「わたし」のなかにある「強い匂い」になってしまう「わたし」。「土のほうへ」というのさえ、「わたし」が「土」になって、「わたしである土」のほうへと呼ぶと感じてしまう。
区別がなくなって、あらゆる動詞が「述語」になって、世界が広がっていく。こういう感じが、私は好きである。
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