詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ「怪予兆」

2016-08-08 09:24:37 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「怪予兆」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 暁方ミセイ「怪予兆」は、最後の方に(特に終わりから数えて二連目に)、暁方の書きたいことが凝縮されているのかもしれないが、私は前半を繰り返し繰り返し読んだ。

抜かれた奥歯に舌を差し入れ
何度も柔らかな血塊に触れてみれば
さながらユートピアの
惨めな常夏と
やさしいぬるい風が
脳の奥ではじける
ああ熱を少し持っている
結構痛む
肉に開いた穴に風が通って
さみしげな音をたてる

 最初の六行の、不思議な粘着力。舌が口の奥を触るときの連続感じがそのままぬるっと動く感じがおもしろい。そのあと「ああ熱を少し持っている/結構痛む」と一行ずつ完結させて、ふたたび一文が伸びる。そのときの変化が美しい。
 それまで自分の「肉体」をたどる「わたし」が「主語」だったのに、こでは「風」が文章上の「主語」になる。もちろん実際は、「さびしげな音をたてる」と感じ取る「わたし」という「主語」が隠れているのだが、隠れるというよりも「わたし」が「風」になって「寂しげな音をたてる」という「動詞」を生きている感じがする。
 「私」がとても自然に「わたし」以外のものになる。「比喩」とになって、「わたし」を生きる。「わたし」が「比喩」になって「比喩」を生きる、という方が「現実的」な読み方なのかもしれないが、「比喩」の方が「わたし」になって生きる、といいたい感じがする。
 それだけ「比喩」と「私」が一体感をもって融合しているということだろう。

わたしは道の右側
あの森へは近づかない
何年も前に首吊があった森だからだ
雨上がりに花束が置いてあるからだ
まっすぐに街灯の下を通って
田んぼまで出てきた
そこで、ぞお、ぞお、と鳴る
闇と雲とを
灰色になるまで眺めていた

 「ぞお、ぞお、と鳴る」が、強い。その前に書かれている「森」そのものの中を通ってきた風の音という感じ。
 「あの森へは近づかない」と書いているのだから「肉体」そのものは「森」を通ってはいない。しかし「近づかない」と決意し、さらに「首吊があった」と思い出し、「花束が置いてある」という情景を思い出すとき、「わたし」はその森を通っている。記憶の肉体/肉体の記憶が、そこを通っている。「わたし」は、そのとき「精神/記憶」という「比喩」である。「比喩」として森を通ることで、「肉体」は「風」になり、「ぞお、ぞお、と鳴る」。
 この「ぞお、ぞお、と鳴る」は次の行の「闇と雲」を修飾しているのかもしれないが、私は「闇と雲」を修飾すると同時に、前に書かれている「通って」を言いなおしているものと感じた。
 「現実の肉体」は森を通らず、街灯のある道を通る。けれど「比喩としての肉体」は森を通り、「森」になり、「森」が抱え込んでいるものを、「音」として吐き出す。
 前半で「音をたてる」という運動だったものが「ぞお、ぞお、と鳴る」とかわる。「音をたてる」は「わたし」が何かに触れて「音をたてる」という感じ。「音」を発生する「対象」が「わたし」の外にある感じ。それに対して「鳴る」というのは、何か「内部」から「音」が出てくる感じがする。
 「比喩」が「わたし」を生きることで、「わたし」の内部に何かが生まれ、それが外に引き出される感じ。「わたし」が何かを生み出す感じ。そこから「世界」そのものがかわっていく。

白い花の香りを蔓草に乗せ
風にか細く唸りながらやってきた
重力のようなもの
わたしが生き物たちの呼吸を数えながら
知らないふりをして歩いていくと
花は萎れて
もっと強い草の匂い
踏み潰された肉厚の葉の汁が
低く、土のほうへと呼ぶ
呼ぶ

 「わたし」が「歩いていく」、「匂い(葉の汁)」が「わたし」を「呼ぶ」と読むと「学校文法」になるのだろうけれど、「わたし」が「におい」になって「わたし」を呼ぶと、私は読んでしまう。「わたし」のなかにある「強い匂い」になってしまう「わたし」。「土のほうへ」というのさえ、「わたし」が「土」になって、「わたしである土」のほうへと呼ぶと感じてしまう。
 区別がなくなって、あらゆる動詞が「述語」になって、世界が広がっていく。こういう感じが、私は好きである。
ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外7

2016-08-08 06:28:49 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外7

 稲田防衛相は、かつて次のようなことを言っている。

「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」。これがずっと自分の生き方の基本。

出典があるらしい。

「多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかりを見てゐて、その道徳的、宗教的意義を理会(理解?)しない。(中略)肉体の無と、大生命への帰一とが同時に完全融合して行はれるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは、地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとつては耐へ得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。」(戦前版『生命の實相』第十六巻、二四六~二四七頁)

 以上、
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=673825566101611&set=pcb.673825732768261&type=3&theater
 から。

 稲田の発言は、二つの問題点を持っている。
(1)内容そのもの。「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」というのが「真実」かどうか。
(2)その「理想/思想」と憲法、つまり稲田の職務との関係。

 (1)についていえば、人はどんな思想をもとうと自由であると私は考えている。稲田のように私は考えないが、稲田がどう考えるかは稲田「個人」の問題である。ほんとうにそう思っているのだったら、戦場へ行って「宗教行事」に参加してください。実践してください、としか言えない。
 もちろん、私はそういう「思想」の持ち主ではないので、戦場にはゆきたくない。

 (2)は、少し込み入るのだが。
 「戦争が宗教行事」であるのなら、「宗教」を理由に、戦争へゆくことを拒否できるのか、という問題が生じる。「宗教/信教」を理由に、拒否できるのなら、稲田が防衛相であっても、私はかまわないと考える。(その場合、たくさんの兵役拒否者が出るだろう。)
 しかし、「宗教」を理由に拒否できないとしたら、憲法との関係はどうなるのか。
 現行憲法では「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第十九条)「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第二十条)とある。
 自民党憲法改正草案では、「思想及び良心の自由は、保障する」「信教の自由は、何保障する」となっている。
 「侵してはならない」が省かれ「保障する」に、さらに「何人に対しても」が省かれる。この改正草案のもとでも「宗教」を理由に兵役を拒否できるか。
 私は疑っている。
 「侵してはならない」と「国への禁止」を省いた段階で、国は「国の理想とする宗教」のみを「保障する(守る)」と言っているに等しい。(これは、すでに何度も書いてたので省略。)
 稲田が防衛相になり、軍隊に関与するようになると、そのときの「理想の宗教」は「戦争は宗教行事」ととらえる宗教になり、それ以外を信じることが拒絶される。「私の信じている仏教(キリスト教/イスラム教……)は戦争を宗教行為と認めていないので兵役を拒否する」という主張はできないくなる。兵役拒否という形で自分自身の宗教を守ることができなくなる。
 「何人に対しても」とは宗教の多様性に配慮したことばだが、改正草案では、その多様性が取り除かれている。多様性を認めないということは、「ひとつ」のものの押しつけにつながる。したがって、そこには「信教の自由」というものはない。
 あるのは「国が進める宗教を信じるなら、その宗教を保障する」という一種の強制である。

 稲田の発言を、単に「異様」と切り捨てるのではなく、改正草案下ではそれはどう動くのかということを私たちは考える必要があると思う。私たちは(私はもうすでに老人だから、その恐れは少ないが)、やがて稲田の信じる「宗教」を押しつけられ、戦争に駆り立てられ、それを「霊魂の進化」と定義されるのである。
 安倍は改正草案を先取りする形で、どんどん「既成事実」を増やしている。
 稲田の発言も、その「先取り実施」というものを含んでいる。
 見かけは「信教の自由」と言っている。しかし、実際は「戦争を宗教行事」ととらえる宗教しか許されない国がやがて生まれる。「霊魂の進化」という「名目」で殺し合いをさせられ、死んでゆくのである。
 このままでは。
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