高階杞一「歌のアルバム 6月」(「ガーネット」79、2016年07月01日発行)
高階杞一「歌のアルバム 6月」は、流行歌のことばが引用される。
ちあきなおみの歌った「喝采」をすぐに思い出す。歌の力はすごいものである、と書いてしまうと高階の詩の感想にならない。
まあ、特に感想にしなくてもいいし、ちあきなおみの歌を思い出させるとしたらそれはそれで、高階の詩の「手柄」かもしれない。「喝采」を下敷きにしながら「喝采」が下敷きかどうかわからなかったという具合だと、それはそれで変だからね。
一連目の「それでも」「それとも」「はたまた」とつづく三行が、意外と、高階の「本質」かもしれないとも思った。高階の詩は「ライトヴァース」と呼ばれることがある。軽いのである。しかし、それが「軽い」のは、もしかすると「論理的」だからかもしれない。「論理」というのはことばをスムーズに動かす。スムーズに感じさせる。「論理」がないとつまずいてしまって、動けない。
で、その「論理」の真骨頂というのが、二連目の
これだね。危険だから叱られた。書かれていないけれど「だから」が隠れている。「だから」というのは「論理」である。その「論理」の「だから」を隠して飛躍する。そこに軽さがある。
「飛躍」という点で言えば、一連目の最終行の「頭の中を川が流れる」が大きな飛躍。なぜ、川? わからないけれど、きっと捨ててきたふるさとに川があるのだろう。ここは逆に「論理」がないから「重い」。
で、また「論理」にもどるのだが。「そうしてやっと/ここまで来たのに/どうしてこんなふうになったのか」の「来たのに」の「のに」が「しつこい論理」でおもしろく、このしつこさが三連目につながっていく。
「服も/こころも」の「も」の繰り返しがしつこくて、「川」の「重さ」を引きずっている。
そして最後。「自分を笑えば/よけいに泣きたくなってきた」が「逆説の論理(?)」とでも呼びたくなる「論理」だね。「笑う」が「泣く」に結びつき、そのことで「泣く」が弱くなるのではなく、「強く」なる。「飛躍」して飛んで行ってしまう、浮いてしまうのではなく、「飛躍」して深みに飛び込む感じ、深みに飛び込むための「飛躍」という感じ。
目新しい「論理」ではなく、なじみの「論理」なのだけれど、その「なじみ」の感覚が「軽い」抒情ということなのかな?
高階杞一「歌のアルバム 6月」は、流行歌のことばが引用される。
いつものように幕があき
出ていくと
客がひとりもいなかった
それでも始めるべきか
それともひとりでも来るのを待つべきか
はたまたさっさと引っ込むべきか
頭の中を川が流れる
あれは三年前
扉の閉まりかけた汽車に飛び乗って
(怒られた)
そうしてやっと
ここまで来たのに
どうしてこんなふうになったのか
ちあきなおみの歌った「喝采」をすぐに思い出す。歌の力はすごいものである、と書いてしまうと高階の詩の感想にならない。
まあ、特に感想にしなくてもいいし、ちあきなおみの歌を思い出させるとしたらそれはそれで、高階の詩の「手柄」かもしれない。「喝采」を下敷きにしながら「喝采」が下敷きかどうかわからなかったという具合だと、それはそれで変だからね。
一連目の「それでも」「それとも」「はたまた」とつづく三行が、意外と、高階の「本質」かもしれないとも思った。高階の詩は「ライトヴァース」と呼ばれることがある。軽いのである。しかし、それが「軽い」のは、もしかすると「論理的」だからかもしれない。「論理」というのはことばをスムーズに動かす。スムーズに感じさせる。「論理」がないとつまずいてしまって、動けない。
で、その「論理」の真骨頂というのが、二連目の
扉の閉まりかけた汽車に飛び乗って
(怒られた)
これだね。危険だから叱られた。書かれていないけれど「だから」が隠れている。「だから」というのは「論理」である。その「論理」の「だから」を隠して飛躍する。そこに軽さがある。
「飛躍」という点で言えば、一連目の最終行の「頭の中を川が流れる」が大きな飛躍。なぜ、川? わからないけれど、きっと捨ててきたふるさとに川があるのだろう。ここは逆に「論理」がないから「重い」。
で、また「論理」にもどるのだが。「そうしてやっと/ここまで来たのに/どうしてこんなふうになったのか」の「来たのに」の「のに」が「しつこい論理」でおもしろく、このしつこさが三連目につながっていく。
雨の中
とぼとぼと駅へ向かって歩く
服も
こころも濡れて
まるで古い塩化のようだな と
自分を笑えば
よけいに泣きたくなってきた
「服も/こころも」の「も」の繰り返しがしつこくて、「川」の「重さ」を引きずっている。
そして最後。「自分を笑えば/よけいに泣きたくなってきた」が「逆説の論理(?)」とでも呼びたくなる「論理」だね。「笑う」が「泣く」に結びつき、そのことで「泣く」が弱くなるのではなく、「強く」なる。「飛躍」して飛んで行ってしまう、浮いてしまうのではなく、「飛躍」して深みに飛び込む感じ、深みに飛び込むための「飛躍」という感じ。
目新しい「論理」ではなく、なじみの「論理」なのだけれど、その「なじみ」の感覚が「軽い」抒情ということなのかな?
高階杞一詩集 (ハルキ文庫 た) | |
高階 杞一 | |
角川春樹事務所 |