詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外8(全国戦没者追悼式)

2016-08-16 10:49:23 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外8(全国戦没者追悼式)

 8月15日の「全国戦没者追悼式」で、天皇が「お言葉」、安倍と大島衆院議長が「式辞」を述べている。その三人の「ことば」を比較してみる。一番違う部分はどこか。(引用は、読売新聞08月15日夕刊(西部版・4版)から。なお、大島の式辞は「要約」。)

(1)天皇
 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

(2)安倍
 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たおれ)られた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に亡くなられた御霊、皆様の犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。(略)明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。そのことが、御霊に報いる途(みち)であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

(3)大島
 戦没者の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様の心の平安とご健勝を祈念いたします。

 私が注目したのは、

(1)天皇は「御霊」ということばをつかっていない。「人々」ということばしかつかっていない。
(2)安倍は「御霊」ということばを四度つかっている。そのうちの三回は動詞の連体形で修飾されているがひとを指し示すことばはない。最後の一回は「戦没者の御霊」と「戦没者」という「ひと」と「御霊」を結びつけている。「意味」としては最初の三回の「御霊」も「戦没者の御霊」ということだろうが、そこには戦没者ということばはない。人間の存在感が希薄である。そのかわり「どうやって死んでいったか」という「行為」が重視されている。
(3)大島は「戦没者の御霊」と「戦没者の」ということばをつけて一回だけつかっている。「戦没者」のことは、引用はしなかったが「戦禍の犠牲となられた方々」と言っている。「方々」は「人々」と同義語である。大島は天皇と同じ言い方をしたあとで、「御霊」ということばを補っている。

 という点である。
 安倍は「ひと」ということば省略して「御霊」ということばをつかっている。「ひと」よりも「行為」を重視して「御霊」を重視している、ということがわかる。
 これは、私には大問題であると思える。
 「ひと」というのは具体的である。生きている「肉体」として、ひとりひとり、そこに存在する。そして、ひとにはできる行為とできない行為がある。したい行為としたくない行為がある。「肉体」は、とても具体的なものである。
 しかし「霊」となると、それが存在しているかどうか、具体的にはわからない。「霊」を信じるひとには存在は明確だろうが、そうではないひとには、さっぱりわからない。「霊」にできること、できないこと、したいこと、したくないことがあるかどうか、私にはわからない。
 「神」と同じように、「霊」というようなものは存在しないと思うひともいるはずである。私は、そのひとりである。
 そんな存在するかしないかわからない「霊」に「御」という「敬意」をあらわすことばつつけられると、何か奇妙な感じがする。何のために「御霊」などと「呼ぶ」必要があるのか。「御霊」と呼ぶことで、何かの「意味/思想」を押しつけてはいないか。

 「御霊」ということばは「美しい」が、私には、その実体がわからない。「御霊」の「御」は敬意をあらわしているのだろう。「敬意」というのは、「特別視」ということかもしれない。広辞苑によれば「神の霊」という「意味」が最初に出てくる。「御霊」ということばをつかうとき、安倍は「神の霊」(神になった霊)という意味を込めているのだろう。
 もっと具体的に言えば、戦場で戦って死んで、靖国神社にまつられて「神」になった「霊」を「御霊」と呼んでいるのではないのか。

 天皇が、「御霊」という「美しいことば」をつかわないのは、もしかすると、そこに「美しさ/価値」というような「意味」がふくまれるからかもしれない。何かを「神」にあがめること、天皇がある「神」を信じていると表明し、それを語ることは国民の信教の自由を侵害することになると考えているからではないのか。
 「神」とは信仰の対象である。現行の憲法では、第十九条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」、第二十条で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定めている。「神」を連想させることばをつかってしまうと、「信教の自由」を侵してしまうと天皇は考えているのかもしれない。何人も、それぞれの方法で慰霊することが保障されている。その権利を侵害しないように、「人々」とだけ言っているように思える。天皇は「無宗教性」を強く意識している。ことばが「宗教」に触れないように配慮している。
 「霊」ということば、「御霊」という表現を避けているのは、遺族に対して冷たいようであって、そうではない。どのような宗教を生きる遺族をも、同等に見ているから、そうなったのだろう。「神」というのような、「宗教」が関係してくることばを連想させるものを、排除しているのだ。
 天皇は、あくまでも現行憲法を守って、ことばを語っているのだ。

 安倍は、そうではない、と思う。「自民党憲法改正草案」を先取りする形でことばをつかっている、と私には思える。
 安倍のことばの特徴的なところは、先に書いたことの補足になるが、「御霊」ということばを「ひと」を省略してつかうことが多い点。「御霊」では「死んでいったひと」の「肉体」は、すぐには思い浮かばない。逆に言うと「生きている霊」という印象になる。(これは、私だけかもしれないが。)「死んでいる霊」というものを、「霊」とか「御霊」とかいうことばをつかう人は想定していないと思う。「肉体」は死んでしまったが「霊」は生きている。その「生きている霊」を「御霊」と呼び、特別視する。それは「霊」を「御霊」として「生かしつづけたい」ということかもしれない。「霊」の「理想像」として存在させたいのだろう。
 しかし、「生きている霊」というものは、なんともつかみ所がない。抽象的で、見えない。抽象的で見えないということは、それを、ことば次第で何とでも言える、ということにつながると思う。つまり、「御霊」の「特別視」は、ある「宗教/神」を特別視することにつながりかねないということである。
 繰り返しになるが、現実の問題として言えば、靖国神社がある。そこに「合祀」されている人々(の霊)。それを「特別視」する。だから、参拝もする。そこに合祀されていない普通のひとびとは、たぶん安倍の「御霊」ということばからは抜け落ちている。
 自民党憲法改正草案では、第十九条は「思想及び良心の自由は、保障する」、第二十条は「信教の自由は、保障する」と定めている。「侵してはならない」が削除され、「保障する」に変わっている。
 この問題については何度か書いたが、これでは、国が理想とする「思想(宗教)」については、それを信じる権利を保障するが、そうではないものに対してはそれを侵害することができる、ということになってしまう。「これこれの宗教を信じろ」という「命令」に変わってしまう恐れがある。具体的には、靖国神社にまつられている人々、その「霊」を尊重する人々の、その宗教を押しつけるということにつながっていく。
 靖国に合祀されている「御霊」の尊重は、これからもそういう「御霊」をつくりだすということでもある。「御霊」が増えれば増えるほど、その「宗教」を信じるひとが増えるということでもある。そういう形で「思想(信教)」を統一したいのだ。
 安倍は、ここでは、そういう改正草案の「神髄」を先取り実施する形で、「御霊」ということばをつかっているように思える。自民党が「正しいと保証する宗教を信じるひとの権利は、保障する」。そうではないひとの「宗教」は保障しない。
 「御霊」の乱発には、そういう「戦場で死んでいった人の霊を祭る」という「宗教」の押し付けがある。
 
 別な角度から見直してみる。
 天皇は「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」と「戦陣」と「戦禍」を連続して、区別せずに書いている。「戦陣」とは「戦場/前線」のことだろう。「戦禍」には空襲にあって死ぬというようなことも含まれるだろう。戦場で死んだひと、国内で死んだひとを区別せずに「戦没者」と呼んでいることがわかる。
 安倍は、まず「戦場に斃られた御霊」と言ったあと、「戦禍に遭われ」た「御霊」と追加している。「御霊」を「区別」している。「戦場に斃られた御霊」を「優遇」している。「戦場で死んでいった」ひとの「霊」こそ「御霊」なのだ、と、その「行為」をたたえているのだ。「優遇」しているのだ。
 この「優遇」は違った視点から言いなおせばわかりやすいかもしれない。
 安倍が「御霊」ということばをつかうとき、戦場以外で死んでしまったひと、たとえば戦争に反対し、抵抗して死んでいったひとも含んでいるだろうか。たとえば作家の小林多喜二とか創価学会創設者の牧口常三郎も、安倍の「御霊」と呼ぶだろうか。
 「戦場に斃られた御霊」を優遇する安倍は、彼らを「御霊」には含まないのではないだろうか。彼らを「戦禍に遭われた御霊」とも呼びはしないだろう。
 安倍が「御霊」と呼ぶのは、国の命令に従って死んでいった肉体の「霊」だけなのである。そういうひとたちのなかには、いやだけれど仕方なしに戦場へ駆り出されたひともいる。反対しても殺される、家族まで弾圧されると思えば、戦場へ行くしかない。そういう苦しみを封印して「国のために戦った美しい精神=御霊」というものをかかげていると思う。
 国の命令で戦場に行っても大丈夫、その「霊」を「御霊」と呼んで、国が大事にしてやる。だから、安心して戦場へ行きなさい、ということばに、それはすぐにかわってしまうだろう。
 「靖国で会おう」が、また、若者の合いことばになる日がくるのだ、と私は感じてしまう。
 ほんとうに戦争の犠牲になって死んでいったひとのことを思うなら「御霊」という「美しいことば」ではなく、もっと「肉体」に密着したことばで語る必要があると私は思う。「美しいことば」の背後に何があるのか、常に疑ってみないといけない。「精神(ない損)というものは、完全に個人のもの。そこに「美しい」という「価値」をおしつけられたくない、と私は思う。



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田口三舩『能泉寺ヶ原』

2016-08-16 09:43:01 | 詩集
田口三舩『能泉寺ヶ原』(榛名まほろば出版、2016年08月11日発行)

 田口三舩『能泉寺ヶ原』の「花いちりん揺れた朝」は、こんな具合に始まる。

老人クラブの会員一同 うち揃って
鎌の素振りなどしながら腕を確かめ合い
恒例の堤防の草刈りである
ちょっと清々しい一日のはじまり

 四行目の「清々しい」と書きたい気持ちはわかるけれど、そう書いてしまうと「詩」を狙っているようで、私なんかはおもしろくない。おもしろくない、と書きながらこの連を引用したのは「鎌の素振りなどしながら」が具体的で、こっちの方が「詩」なんだよなあ、と言いたかったからである。
 草刈りというのは、私は長いあいだしていないが、あれはけっこう大変で、草刈り前に鎌をどう動かすか、「素振り(すぶり)」をしてみるのは、体にとっていいことだ。事故を防げる。「腕を確かめ合い」というのは、「いや、そうじゃない、こうだよ」と教えあっているのだろう。なんだが、そこにいるひとが見るえるようでうれしい。

しばらくすると
歳はとりたくねえもんだとぼやいたり
来年の草刈りはもう無理だよなどと
あちこちから心細げな声しきり

 この二連目も散文的だけれど具体的。
 途中を省略するが、そのあと、こんなことがある。

とその時
刈り込んだ草の間から
澄みきった空の色を映した花がいちりん
首をもたげて朝の風に揺れている

ぼやきながら誰かが
鎌をちょっと手加減して
この澄みわたった空の色の花に
イノチのひとかけらを吹きかけたのだ

 あ、いいなあ。「書かれる」ことによって、いままでことばにならなかったことが「見える事実=詩」になった。花を残した人の「肉体」のなかでうごいていたものが「論理的」に浮かび上がり、ゆるぎのないものになった。
 ここで詩は終わってもいいのだが、田口はこのあともう一連書いている。

老人クラブの会員一同 来年の方を見やり
ひときわ明るくわっはっはと笑って
今年の草刈りは無事にそして
めでたく終わったのだ

 ここでまた文体は詩から散文にもどるのだけれど、私は最後の「めでたく」に思わず棒線をひき、そこから線を伸ばして余白に☆マークを書き込んだ。これについて書きたいと思ったのだ。
 この「めでたく」は「詩」のことばではない。詩のことばではない、というのは「清々しく」というような、何かを修飾するために追加されたことばではない、ということ。
 二連目に出てきた「歳はとりたくねえもんだ」とか「来年の草刈りはもう無理だよ」ということばと同じように、そのとき誰かからもらされた「実感」のことばである。「よかったなあ」という「安心」のことばである。
 それは、無意識のうちに、老人クラブの人たちの「肉体」のなかに動いていたことばなのだ。ちゃんと刈れるかなあ、ちゃんと刈れたなあ。めでたいことだなあ。
 肉体の奥で生きていたことばが、ふっと開放されて表に出てくる。
 それは一輪だけ残された花のように目を引く。

 田口の詩には、この詩の最終連を除いたような作品が多い。ある情景を「論理」でととのえ、そこから「意味」を引き出すという感じのものが。
 それはそれでいいけれど、私は、そのあとに追加されたもの、ふっと肉体の奥からあふれてきた「ことば」の方が好き。「自然」がある。そういうことばは、「新しい論理」ではなく、むしろ逆である。むかしからある「実感」。「肉体」のなかにいきつづけている「思い」。それが、ふっと思い出されて、ことばになっている。
 それが、詩の最初の部分、鎌の素振りとか、草刈りをしながらのぼやきと結びつき、世界を立体的にしている。とても「強い」ものを感じる。「自然」の強さ、「生きている」強さを感じさせる。

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