禿慶子『しゃぼん玉の時間』(砂子屋書房、2016年06月20日発行)
禿慶子『しゃぼん玉の時間』の「仲秋」は突然あらわれたしゃぼん玉のことを書いている。「突然」ということばはないのだが、禿は、突然あらわれるものとむきあい、ことばを動かすのが好きなようだ。
その二連目、
ここで、つまずく。「存在感」ということばにつまずく。「存在感」の「感」は「存在そのもの」にあるというよりも、それを見る人の「感じ/感情」だろう。自分はこんなに「感じている」。だから、他の人も「感じる」べきである、と言われているようで、いやな気持ちになる。「感じ」の押し売りは、いやだなあ。
私が好きなのは、たとえば「鳥と少年の街」の二連目。死んだ鳥(これは切られた木の象徴かも)を大地に横たえる。それから、
鳥が空を握って死んでいるというのが美しい。その美しさを発見するまでの「肉体」の動きがとても自然だ。「指先で用心深く」というときの「指先」は少年の「指先」。少年は自分の指で鳥の爪を開く(足の指を開く)。それは、まるで自分自身の指を開くようではないか。
空を握っていたのは鳥なのだが、それは普通の人には見えない。鳥の指(爪)を、自分の指で開いていった少年にだけ見える。少年は、そのとき鳥になっている。
これと同じことが、「仲秋」でも起きているはずである。突然あらわれたしゃぼん玉に驚き、それを追いかけるとき、禿はしゃぼん玉になって、そこからたとえば「高層ビルの窓」を「覗いた」のである。「覗く」という動詞は、「開く/握る」という動詞と同じように、対象(しゃぼん玉)と禿を「一体」にしてしまう。さらにその「一体感」は「暮れてきた空」につながっていくのだが、それを「存在感」と言ってしまっては、「禿自身に存在感がある」と禿を読者に押しつけることになる。禿にはそういうつもりはないかもしれないが、私はそう感じてしまう。それが、いや。
鳥と少年には、そういう「押しつけ」がない。「押しつけ」のかわりに具体的な「肉体」と「その動き」(動詞)がある。
詩集のなかで一番おもしろかったのは「鳥葬の果実」。粗末な家がある。柿の木がある。老人が住んでいる。
このカラスの群れを、禿は、老人の死骸を啄みに来たものと勘違いしてことばを動かしているのだが、その勘違いの中で、カラスと老人(と柿)と禿が一体になっている。
この「一体感」が「存在感」というもの。ある存在のなかに別の存在がある、それがつよく絡み合って、融合して、「一体」になってしまっているとき、「存在」が「存在」でてばく「異質の存在」になる。
そういうことが書けるのだから「存在感」というようなことばはつかわずに書いてもらいたい。
禿慶子『しゃぼん玉の時間』の「仲秋」は突然あらわれたしゃぼん玉のことを書いている。「突然」ということばはないのだが、禿は、突然あらわれるものとむきあい、ことばを動かすのが好きなようだ。
その二連目、
先ほどは
超高層ビルの窓を覗いていたが
群がる人たちも
碇泊する船も見おろし
暮れてきた空に
存在感を見せている
ここで、つまずく。「存在感」ということばにつまずく。「存在感」の「感」は「存在そのもの」にあるというよりも、それを見る人の「感じ/感情」だろう。自分はこんなに「感じている」。だから、他の人も「感じる」べきである、と言われているようで、いやな気持ちになる。「感じ」の押し売りは、いやだなあ。
私が好きなのは、たとえば「鳥と少年の街」の二連目。死んだ鳥(これは切られた木の象徴かも)を大地に横たえる。それから、
それから 指先で用心深く
折り曲げられた鳥の爪を開いて
握っている空(そら)を取り出し
積みあげていった
鳥が空を握って死んでいるというのが美しい。その美しさを発見するまでの「肉体」の動きがとても自然だ。「指先で用心深く」というときの「指先」は少年の「指先」。少年は自分の指で鳥の爪を開く(足の指を開く)。それは、まるで自分自身の指を開くようではないか。
空を握っていたのは鳥なのだが、それは普通の人には見えない。鳥の指(爪)を、自分の指で開いていった少年にだけ見える。少年は、そのとき鳥になっている。
これと同じことが、「仲秋」でも起きているはずである。突然あらわれたしゃぼん玉に驚き、それを追いかけるとき、禿はしゃぼん玉になって、そこからたとえば「高層ビルの窓」を「覗いた」のである。「覗く」という動詞は、「開く/握る」という動詞と同じように、対象(しゃぼん玉)と禿を「一体」にしてしまう。さらにその「一体感」は「暮れてきた空」につながっていくのだが、それを「存在感」と言ってしまっては、「禿自身に存在感がある」と禿を読者に押しつけることになる。禿にはそういうつもりはないかもしれないが、私はそう感じてしまう。それが、いや。
鳥と少年には、そういう「押しつけ」がない。「押しつけ」のかわりに具体的な「肉体」と「その動き」(動詞)がある。
詩集のなかで一番おもしろかったのは「鳥葬の果実」。粗末な家がある。柿の木がある。老人が住んでいる。
秋も暮れようとする頃 墓地のあたりで騒々しいカラスの声を聞い
た
さして気にもとめず近付くと その家のまわりを おびただしい黒
い影が舞っていた
晩秋の日射しを掻き毟り わめきながら飛びあがり舞い降りる黒い
影たちの喧騒と 屋根や庇 窓や入口などに 油じみた羽を光らせ
おびただしいカラスがとまっている光景は現実を離れて 奇怪な夢
の世界に入ってしまったのか と ひととき 立ち止まった
ややあって それは 柔らかくなった柿の実をカラスたちが啄みに
来たのだと知った
このカラスの群れを、禿は、老人の死骸を啄みに来たものと勘違いしてことばを動かしているのだが、その勘違いの中で、カラスと老人(と柿)と禿が一体になっている。
この「一体感」が「存在感」というもの。ある存在のなかに別の存在がある、それがつよく絡み合って、融合して、「一体」になってしまっているとき、「存在」が「存在」でてばく「異質の存在」になる。
そういうことが書けるのだから「存在感」というようなことばはつかわずに書いてもらいたい。
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