植木信子『田園からの幸福についての便り』(思潮社、2016年07月31日発行)
植木信子『田園からの幸福についての便り』は、タイトルにある通り、田園で感じ取った「幸福」についての報告なのだろう。
こんな具合だ。
この二行には聴覚と嗅覚の出会いと融合があって、肉体が目覚める感じがする。
でも、この感覚の融合はつづかない。そのために、どうにも植木のことばのなかへ肉体がはいっていけない。
「絵」を、しかも「描いた絵」を見ている感じ。「描いた絵」というのは、表現として重複しているが、その「重複感」というか「既視感」というか、そういうものが、まとわりついてくる。
「追いかけても」のつづき。
ことばが「肉体」に集中していかない。「肉体」をくぐって出てきている感じがしない。
こういうことばよりも、「行動」を書いたことばの方がしっかりと響いてくる。
「象の目」。
この「象の背で踏む」というのは、ちょっと体験した人間でないと出てこないことばかもしれない。ほおっと、思った。
象の背は、植木が触れる「大地」でもある。「分厚い皮膚」は「大地」だろう。ただ、それは「比喩」になってしまう。ほんとうの「大地」や「大地(この国)」がもつ「尊厳」「希望」には直接触れるのではなく、「比喩」をとおして間接的にふれることしかできない。
そのことを確かめている「肉体」がここにある。
夕日の中で象の目が光るのも印象的だ。
もっと直接的に「肉体」を描いたものもある。「穏やかな日より」。父の納骨に言ったときのことを描いている。
眠って目を覚ますの繰り返し。それをただ報告しているのだが、「正直」がそのままことばになって動いている。その「正直」が父を呼び寄せるところが、とてもいい。
他の詩も、こんなふうにことばが動くといいと思う。ことばを探すのではなく、ことばを捨てると、もっと詩が動くと思う。
植木信子『田園からの幸福についての便り』は、タイトルにある通り、田園で感じ取った「幸福」についての報告なのだろう。
こんな具合だ。
朝遅く 野鳩の鳴く声がした
藤の花のにおいに混じり (「追いかけても」)
この二行には聴覚と嗅覚の出会いと融合があって、肉体が目覚める感じがする。
でも、この感覚の融合はつづかない。そのために、どうにも植木のことばのなかへ肉体がはいっていけない。
「絵」を、しかも「描いた絵」を見ている感じ。「描いた絵」というのは、表現として重複しているが、その「重複感」というか「既視感」というか、そういうものが、まとわりついてくる。
「追いかけても」のつづき。
冬の間 倒れていた幹を食い破り蝶が舞い上がる
光ふりそそぐ幻影
そんな日には色とりどりの花咲く野へ車を押していく
被せた紅の帽子にヒラヒラ羽毛が散ってきて
メタボの猫の手 絡まる羽とじゃれている
追いかけても春
ことばが「肉体」に集中していかない。「肉体」をくぐって出てきている感じがしない。
こういうことばよりも、「行動」を書いたことばの方がしっかりと響いてくる。
「象の目」。
象に乗る
象は大きな足で大地を踏み
わたしは象の背で踏む
この「象の背で踏む」というのは、ちょっと体験した人間でないと出てこないことばかもしれない。ほおっと、思った。
象は黙々と大地を踏んだ
分厚い皮膚には悲しみがあって
それはこの国の尊厳にも希望にも見えた
(それに触れることはできない)
夕日が落ちてゆき
象の涙が光って消える
象の背は、植木が触れる「大地」でもある。「分厚い皮膚」は「大地」だろう。ただ、それは「比喩」になってしまう。ほんとうの「大地」や「大地(この国)」がもつ「尊厳」「希望」には直接触れるのではなく、「比喩」をとおして間接的にふれることしかできない。
そのことを確かめている「肉体」がここにある。
夕日の中で象の目が光るのも印象的だ。
もっと直接的に「肉体」を描いたものもある。「穏やかな日より」。父の納骨に言ったときのことを描いている。
葉山には夜遅くに着いた
夕食を食べて早々に眠った
早朝に浜辺にいった
霧のかかる浜から富士が海を抱くようにそびえ美しく見えた
帰ってまた眠った
納骨を済ませてきたばかりだったから眠っていたかった
二度目に目が覚めたときには日が高く
部屋中に金屏風を開いたように陽が明るく差していた
のどかだった
父が近くにいる気がした
眠って目を覚ますの繰り返し。それをただ報告しているのだが、「正直」がそのままことばになって動いている。その「正直」が父を呼び寄せるところが、とてもいい。
他の詩も、こんなふうにことばが動くといいと思う。ことばを探すのではなく、ことばを捨てると、もっと詩が動くと思う。
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