詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

植木信子『田園からの幸福についての便り』

2016-08-20 09:25:57 | 詩集
植木信子『田園からの幸福についての便り』(思潮社、2016年07月31日発行)

 植木信子『田園からの幸福についての便り』は、タイトルにある通り、田園で感じ取った「幸福」についての報告なのだろう。
 こんな具合だ。

朝遅く 野鳩の鳴く声がした
藤の花のにおいに混じり                  (「追いかけても」)

 この二行には聴覚と嗅覚の出会いと融合があって、肉体が目覚める感じがする。
 でも、この感覚の融合はつづかない。そのために、どうにも植木のことばのなかへ肉体がはいっていけない。
 「絵」を、しかも「描いた絵」を見ている感じ。「描いた絵」というのは、表現として重複しているが、その「重複感」というか「既視感」というか、そういうものが、まとわりついてくる。
 「追いかけても」のつづき。

冬の間 倒れていた幹を食い破り蝶が舞い上がる
光ふりそそぐ幻影
そんな日には色とりどりの花咲く野へ車を押していく
被せた紅の帽子にヒラヒラ羽毛が散ってきて
 メタボの猫の手 絡まる羽とじゃれている
追いかけても春

 ことばが「肉体」に集中していかない。「肉体」をくぐって出てきている感じがしない。
 こういうことばよりも、「行動」を書いたことばの方がしっかりと響いてくる。
 「象の目」。

象に乗る
象は大きな足で大地を踏み
わたしは象の背で踏む

 この「象の背で踏む」というのは、ちょっと体験した人間でないと出てこないことばかもしれない。ほおっと、思った。

象は黙々と大地を踏んだ
分厚い皮膚には悲しみがあって
それはこの国の尊厳にも希望にも見えた
(それに触れることはできない)
夕日が落ちてゆき
象の涙が光って消える

 象の背は、植木が触れる「大地」でもある。「分厚い皮膚」は「大地」だろう。ただ、それは「比喩」になってしまう。ほんとうの「大地」や「大地(この国)」がもつ「尊厳」「希望」には直接触れるのではなく、「比喩」をとおして間接的にふれることしかできない。
 そのことを確かめている「肉体」がここにある。
 夕日の中で象の目が光るのも印象的だ。

 もっと直接的に「肉体」を描いたものもある。「穏やかな日より」。父の納骨に言ったときのことを描いている。

葉山には夜遅くに着いた
夕食を食べて早々に眠った
早朝に浜辺にいった
霧のかかる浜から富士が海を抱くようにそびえ美しく見えた
帰ってまた眠った
納骨を済ませてきたばかりだったから眠っていたかった

二度目に目が覚めたときには日が高く
部屋中に金屏風を開いたように陽が明るく差していた
のどかだった
父が近くにいる気がした

 眠って目を覚ますの繰り返し。それをただ報告しているのだが、「正直」がそのままことばになって動いている。その「正直」が父を呼び寄せるところが、とてもいい。
 他の詩も、こんなふうにことばが動くといいと思う。ことばを探すのではなく、ことばを捨てると、もっと詩が動くと思う。


田園からの幸福についての便り
植木信子
思潮社
コメント
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