岡本啓「風の車両」、大崎清夏「炊飯器」、大江麻衣「踏み絵」(「現代詩手帖」2016年08月号)
岡本啓の詩にはアメリカの匂いがする、というのが私の記憶。あるいは印象。今度の「風の車両」はどうか。
この日本では見られない光景か。あるいは、
ここに出て来る「女」か。たしかに、そういう女は日本にはいないなあ。沙漠のようなところを行く車にセーターを着込んでのりこむ女は日本にはいないだろう。
でも、そういう「光景」に私は「アメリカ」を感じたのではなかった。
以前、岡本の詩を読んだとき、会話に、私は「アメリカ」を感じた。詩のなかに登場する人間が会話する。そのときのことばの形に「アメリカ」を感じた。アメリカの短編小説を感じた。他人がいて、他人が自己主張する。その自己主張にぶつかって、「話者(詩人/岡本)」の「自己」というものが明確に動く。他者の強さが「詩人」を強くし、ことばが凝縮する。その作用/反作用のようなものが刺激的だった。
それが、この詩からは感じられない。なんだか、とても不思議。
*
大崎清夏「炊飯器」。
一連目。あ、いいなあ。「ごはんなんか好きじゃないのに」ではなく「炊飯器なんかすきじゃないのに」か。うーん、炊飯器が好きかどうか、考えたことがない。この炊飯器はごはんがうまく炊ける、この炊飯器は変だなあ、と思うことはあっても、それは炊飯器のことを考えているのではなく、あくまでごはんのことを考えて、そう思うのである。炊飯器は、私の場合好き/嫌いの対象にならない。だから、はっと、驚く。この驚きの瞬間、いいなあ、ということばが出てくる。
ここに書いてあることばを借りて言えば、大崎が書いていることば(書こうとしている意味/内容)と、私が読んでいることば(意味/内容)は違うかもしれないけれど、私はそのことが嬉しくて、笑ってしまう。
そうか、炊飯器が好きか嫌いか、考えるのかあ。
*
大江麻衣「踏み絵」は刺激的。
これはセックスをしていて(?)、男に顔を踏んでくれと言われたときの反応。
ためらいを「足」という「肉体」を中心に語っているのがいいなあ。
私は「こころ」とか「精神」というものが「ある」とは感じていない。そんなものは、ない。多くの人は「ある」という。どこに? たとえば「脳」にうあるいは「胸(心臓)」に。さらには、「ことば」に、という人もいる。
うーん。私は、それを見たことがない。
「頭」とか「胸」は見えるし、触れるが、それにはちゃんと「頭」「胸」という名前があって、「こころ」という名前ではない。
でも。
たとえば、この大江の詩で、「こころは足にある」と言われれば、信じてしまうなあ。「足」がためらっている。そのとき「足」こそが「こころ」なのだ。「足」が「こころ」になるのだ。この「なる」という動詞、変化を「こころ」と呼ぶなら、納得できるなあ、と思う。
詩のつづき。
「一番攻撃的ではない性器」ってなんだろう。「土踏まずのない足」か、あるいは「土踏まず(ない)」か。私は「ない」土踏まずの「ない」が「一番攻撃的ではない性器」と瞬間的に思う。そして、その「ない」土踏まずの「ない」に触ってみたいという欲望をおぼえる。
私は顔を踏まれるのはいやだが、「ない」土踏まずの「ない」に触りたいと思う。
その「ない」は「顔は柔らかい」の「やわらかい」と呼応しているなあ。セックスしているなあ、と思い、欲情してしまう。
「信仰心」というものも、私にはない。「宗教」というものが、私にはわからない。だから、「わかる」ことばを探して、それとだけ夢中にセックスしてしまう。
大江が書いている「中心」がどこにあるのか、気にしないで、「ない」土踏まず、その「やわらかさ」に、わくわくしてしまう。
この部分は「わからない」。「意味がある」といわれても、その「意味」がわからない。わからないのだけれど、いや、わからないからこそ、ここのところには「ほんとう」が書いてあると感じる。
「足」の「ない」土踏まずでうまれた「こころ」が、ここでは「いや」なものを探している。「いや」をみつけることで、「したくない けど しなくては」とはいう「こころ」の矛盾を乗り越えようとしていると感じる。
こういう「わからない」何かに出会ったときだな、「あっ、傑作だ」と思うのは。
今回の特集には、ほかにも「傑作」が隠れているかもしれない。
でも、いい。
一篇、傑作と思える詩に出会ったから、あとの詩人たちの作品は「素通り」。また別の機会に出会えるだろう。「2010年代の詩人たち」の作品全部について感想を書くつもりで始めたのだが、いったん中止にする。(いったん、というのは思いついたら、また書くかもしれないということ。)
岡本啓の詩にはアメリカの匂いがする、というのが私の記憶。あるいは印象。今度の「風の車両」はどうか。
ないドアから
熱風が
粉塵をつれてふきこんで
乗客すべてを薄く覆った
この日本では見られない光景か。あるいは、
ないドアから
身をのりだして
見えないものへ抗議する
セーターで着膨れした女の姿は
圧倒的
ここに出て来る「女」か。たしかに、そういう女は日本にはいないなあ。沙漠のようなところを行く車にセーターを着込んでのりこむ女は日本にはいないだろう。
でも、そういう「光景」に私は「アメリカ」を感じたのではなかった。
以前、岡本の詩を読んだとき、会話に、私は「アメリカ」を感じた。詩のなかに登場する人間が会話する。そのときのことばの形に「アメリカ」を感じた。アメリカの短編小説を感じた。他人がいて、他人が自己主張する。その自己主張にぶつかって、「話者(詩人/岡本)」の「自己」というものが明確に動く。他者の強さが「詩人」を強くし、ことばが凝縮する。その作用/反作用のようなものが刺激的だった。
それが、この詩からは感じられない。なんだか、とても不思議。
*
大崎清夏「炊飯器」。
いちばんすきな画家がいたはずなのに 忘れてしまった
いちばんすきな歌があったはずなのに 忘れてしまった
しかたがないから 炊飯器でごはんを炊いた
炊飯器なんかすきじゃないのに
一連目。あ、いいなあ。「ごはんなんか好きじゃないのに」ではなく「炊飯器なんかすきじゃないのに」か。うーん、炊飯器が好きかどうか、考えたことがない。この炊飯器はごはんがうまく炊ける、この炊飯器は変だなあ、と思うことはあっても、それは炊飯器のことを考えているのではなく、あくまでごはんのことを考えて、そう思うのである。炊飯器は、私の場合好き/嫌いの対象にならない。だから、はっと、驚く。この驚きの瞬間、いいなあ、ということばが出てくる。
あなたがノートの見開きに書きとめることばと
わたしが本で読んで泣いたことばは ちがう
あなたはおかしいと思うかもしれないけど
わたしはそのことが 嬉しすぎて笑えた
ここに書いてあることばを借りて言えば、大崎が書いていることば(書こうとしている意味/内容)と、私が読んでいることば(意味/内容)は違うかもしれないけれど、私はそのことが嬉しくて、笑ってしまう。
そうか、炊飯器が好きか嫌いか、考えるのかあ。
*
大江麻衣「踏み絵」は刺激的。
おもいきり踏んでくれ裸足で
と言われれば したくない けど しなくては
ためらうのは、足の 裸の足の心細さのほう
土踏まずのない足はうまれてはじめて試されている
これはセックスをしていて(?)、男に顔を踏んでくれと言われたときの反応。
ためらいを「足」という「肉体」を中心に語っているのがいいなあ。
私は「こころ」とか「精神」というものが「ある」とは感じていない。そんなものは、ない。多くの人は「ある」という。どこに? たとえば「脳」にうあるいは「胸(心臓)」に。さらには、「ことば」に、という人もいる。
うーん。私は、それを見たことがない。
「頭」とか「胸」は見えるし、触れるが、それにはちゃんと「頭」「胸」という名前があって、「こころ」という名前ではない。
でも。
たとえば、この大江の詩で、「こころは足にある」と言われれば、信じてしまうなあ。「足」がためらっている。そのとき「足」こそが「こころ」なのだ。「足」が「こころ」になるのだ。この「なる」という動詞、変化を「こころ」と呼ぶなら、納得できるなあ、と思う。
詩のつづき。
私は顔を踏んでいって
そうすれば今までで一番攻撃的ではない性器が
なにかを待ちわびて
信仰心がどんどんわいてくる 信仰心 それ自体にすがり
顔はやわらかい
人のほとんどすべては、顔だから 好きな人の顔を踏むなんて
「一番攻撃的ではない性器」ってなんだろう。「土踏まずのない足」か、あるいは「土踏まず(ない)」か。私は「ない」土踏まずの「ない」が「一番攻撃的ではない性器」と瞬間的に思う。そして、その「ない」土踏まずの「ない」に触ってみたいという欲望をおぼえる。
私は顔を踏まれるのはいやだが、「ない」土踏まずの「ない」に触りたいと思う。
その「ない」は「顔は柔らかい」の「やわらかい」と呼応しているなあ。セックスしているなあ、と思い、欲情してしまう。
「信仰心」というものも、私にはない。「宗教」というものが、私にはわからない。だから、「わかる」ことばを探して、それとだけ夢中にセックスしてしまう。
大江が書いている「中心」がどこにあるのか、気にしないで、「ない」土踏まず、その「やわらかさ」に、わくわくしてしまう。
踏み絵
守りたい(彼を) 守られたい(自分を)
唾で 私のいまの宗教を清めていく
対義語に近い、いやな言葉をさがしても
何も信じなかった私より意味がある
この部分は「わからない」。「意味がある」といわれても、その「意味」がわからない。わからないのだけれど、いや、わからないからこそ、ここのところには「ほんとう」が書いてあると感じる。
「足」の「ない」土踏まずでうまれた「こころ」が、ここでは「いや」なものを探している。「いや」をみつけることで、「したくない けど しなくては」とはいう「こころ」の矛盾を乗り越えようとしていると感じる。
こういう「わからない」何かに出会ったときだな、「あっ、傑作だ」と思うのは。
今回の特集には、ほかにも「傑作」が隠れているかもしれない。
でも、いい。
一篇、傑作と思える詩に出会ったから、あとの詩人たちの作品は「素通り」。また別の機会に出会えるだろう。「2010年代の詩人たち」の作品全部について感想を書くつもりで始めたのだが、いったん中止にする。(いったん、というのは思いついたら、また書くかもしれないということ。)
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