伊藤浩子「マグダレーナ・ゼマーネク通り(抄)」、浦歌無子「大杉栄へ」ほか(「現代詩手帖」2016年08月号)
伊藤浩子「マグダレーナ・ゼマーネク通り(抄)は、ある都市の肖像である。いくつかの断片から構成されている。その最初の「時計塔」。
時計塔の内側の襞を行くときは上も下も見てはいけない、なぜなら両方とも切りがないからだ。
この「切り」には傍点が打ってある。この作品のなかでは、この「切り」だけが、まるで別のことばのように生き生きしている。
つづきは、こうである。
そこはまるで悪夢か苦悩の只中かのように蠢く。そこが高い時計塔の中であることに随伴して歩が止まってしまうのは、およそ記憶の本流が襲ってきたときである。現存は残像となり、残像が予期せぬ物と出会う場所では感覚的相貌こそが主体の根拠になる。
「切り」だけが、別のことばである。日常のことばである。ほかは「辞書」に収録されている。いや「切り」も辞書に載っているだろうが、辞書を引かなくても知っている。というか、辞書をひくとわからなくなる「思想/肉体」のことばである。「定義」できないのだ。このときの「定義」とは、だれそれが、何々の本の中で書いていると「注釈」できないということである。
私は、作品から、そういう「注釈」不能なことばを探して、そこに書き手の「肉体」を感じるのだが、このせっかくの「肉体」を伊藤は、その後のことばで台無しにしている。
「記憶の本流」を「現存は残像となり、残像が予期せぬものと出会う」と言いなおされても、それは「言い直し」にはならない。ことばが「肉体」をくぐっていない。だから「出会う」という「動詞」がそののまま「場所」を修飾してしまう。そうしてそこから別なものが動き始める。
こういう文体は文体でいいのだろうけれど、よほど「概念」を「概念」のまま動かす訓練をしないと、新しくはならない。
それに。
もし、概念を概念という「名詞」ではなく「動詞」として動かしていく覚悟があるなら、「切り」というような「定義」されずにつかわれる日常語を同居させるのは、やめておいたほうがいいかもしれない。
「火薬庫」という断章には、次のことばがある。
貰われっ子の悟性は、貰われっ子であるかもしれぬ不安と比較、共苦可能かどうか。
この「共苦」というのは、日本語ではなく「翻訳語」だろう。しかもキリスト教経由の翻訳語の「匂い」がする。(私は、こんなことばを知らない。日常つかわない。)そういう非日常的なことばと「貰われっ子」というこれまた「非日常的」なことばが一緒に動いている。この「貰われっ子」は「切り」よりも始末が悪い。いま、だれか、こんなことばを言うかねえ。言わない。言わないのに、意味がわかる。「定義」しないのに、「肉体」の奥が、もぞもぞと動いて「意味」になろうとする。これも、もしかすると、いまでは「翻訳語(翻訳されたことばのなかにしか存在しないことば)」かもしれないなあ。
もし「貰われっ子」が「翻訳語」ではなく、伊藤の「日常語」だとすると、さて、こういうことばと「共苦」なんて「翻訳語」を同居させる「肉体」とは、どういうものか。私は想像がつかない。
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浦歌無子「大杉栄へ」は「ごうごうと風よ吹け 他二篇」のなかの一篇。ここまで「現代詩手帖」を読んできて、あ、この特集は「あいうえお順」「ひとり3ページ」なのかと気づき、その機械的な編集に少し興ざめしてしまった。
無機質に感じてしまったのだ。
ことばは、どうやって「つながる」かが重要。機械的な接続では、接続にならない。
浦の作品。
あなたの鋭い眼光にわたしはじゃぶじゃぶ洗われた
そのとき海の波はぴたりと止まり
火の玉のような月がじゅうじゅう音を立てて
海から空へ昇っていった
あ、おもしろいなあ。「眼光」が「じゃぶじゃぶ」ということばで「水」を呼び寄せる。「洗われた(洗う)」という動詞へ自然に移行する。「じゃぶじゃぶ」「洗う」の「水」から「海」への接続がとてもスムーズだ。
火の玉は「太陽」ではなく「月」。その飛躍がおもしろいし、「火の玉」なので「じゃぶじゃぶ」は「じゅうじゅう」に変わるのだが、これも妙に自然だ。
この「妙に自然」というのは「肉体」がおぼえているので、納得できるという意味である。伊藤の詩に出てきた「切り」に似ている。「定義しろ」(説明しろ)といわれると、答えるのにめんどうくさい。「定義」がいらないくらい「肉体」にしみついていて、「定義」というような「頭」の操作が必要ない。
接続と切断が、妙なのだけれど、その妙が一定しているから、納得してしまう。
わたしたちを祝福してくれたのは奈落だけだったが
わたしはいっこうにかまわなかった
本当の生をいきるのには
誰の賞賛もいらない
鎖は断ち切られ
わたしはわたしの亡骸を海に捨てた
わたしたちはお互いに
ずいぶん恋文を書いたけれど
愛するとはすがらないこと
「奈落」というようなことばが突然出てくるけれど、「じゃぶじゃぶ」「じゅうじゅう」という「定義」の必要のない、その状態のことを指しているのだろう。
最後のほうの「お互いに」は大杉栄と浦の二人か。まあ、浦が、いまはいない大杉に向けて恋文を書くというのはありえるけれど、大杉が浦に向けて書くというのは不可能。不可能だけど、その不可能は「現実/歴史」の時間で考えるから。ひととひと、ことばとことばの出会いは「時間」を超越するから、そういうことは浦の「現実」には起こりうる。そう読むこともできるし、大杉はだれかに対してたくさんの恋文を書いた、浦も誰かに対してたくさんの恋文を書いた。その「たくさん書く」という「動詞」のなかで二人が出会っている、と読むこともできる。たくさん書くことで「恋するとはすがらないこと」という思いにたどりつくのも、「お互い」なのだ。「二人と/ただし別々に」と言い換えるとわかりやすいかも。
浦のことばには「翻訳語」がないところが、とても共感できる。
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榎本櫻子「木曜日の消失(抄)」はページの関係が小さい活字で組まれている。目の悪い私にはとても読みづらい。こんな窮屈な組み方をしてまで、ひとり3ページにこだわる必要があったのか、とても疑問。
榎本の詩の書き出し。
あ、そういうことだったのか、などとでも納得がいったのか、よくしらないはずのひとの貌だけがぼんやりと浮かびあがってきて、そのままこびりついてしまうことがときどきあって、しろい腕が、しかもそのすべてが左腕だけなのが奇妙だが、何本も壁から生えてきてしまうのはなんとも陳腐な発想だといえるだろう、
榎本には、感想を書くなら本を買えと言われたことがある。買って読んで書いたら、読むのは勝手だが感想を書くな、とも言われたことがある。
何を言われようと私は書きたいときは書くし、書きたくないときは書かない。
で、この書き出しだが、「すべてが左腕だけなのが奇妙だが」と書いたあと「何本も壁から生えてきてしまうのはなんとも陳腐な発想だ」とつづけるところが、安直だ。「奇妙」ならば「陳腐」ではない。以前は「奇妙」という「定義」で語られていたが、いまではもう「常識化」してしまっていて「陳腐」としかいえないという「批評」がそこにふくまれているのだったら、そういう「思想の経路」を丁寧に書くことが詩ではないだろうか。「名詞」の数で圧倒することを狙っているのだろうけれど、目の悪い私には、その乱反射が乱反射にすら見えない。単なる装飾に見える。思想(肉体)の乱反射は外部(名詞/概念)ではなく内部(動詞)にある、と私は信じている。