詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外10(永六輔追悼番組)

2016-08-21 17:17:12 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外10(永六輔追悼番組)

「LITERA」(2016年08月21日)
 http://lite-ra.com/2016/08/post-2512.html
に「ピーコがNHK に戦争批判コメントをカットされたと告白!「放送を見て力が抜けた」…永六輔追悼番組で」という記事が掲載されている。

 ハイライト部分を引用する。

「インタビューでピーコは、現在の放送界で進行する“もの言えぬ空気”をもあきらかにしている。それは、NHK が7 月17日に放送した永の追悼番組『永六輔さんが遺したメッセージ』に出演したときのことだった。
「「永さんは戦争が嫌だって思っている。戦争はしちゃいけないと。世の中がそっちのほうに向かっているので、それを言いたいんでしょうね」と言ったら、そこがばっさり抜かれていた。放送を見て力が抜けちゃって……。永さんが言いたいことを伝えられないふがいなさがありますね」(朝日新聞8 月20日付)」


 これは編集というよりも、「検閲」である。

(現行憲法)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(自民党憲法改正草案)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 ピーコの発言を、改正草案が追加している「公益及び公の秩序を害する」ものと判断し、籾井NHKが「検閲」で削除した、ということだろう。
 改正草案でも「検閲は、してはならない」とあるが、ここには「してはならない」の「主語」が省略されている。改正草案の「禁止」の対象は国民であるから、「国民は、検閲はしてはならない。しかし、国は(権力は)検閲はしてもいい」というのが「改正草案」の意図である。そして、それがすでに実行されているということになる。
 (現行憲法は、つねに「国(権力)」に対して「……してはならない」と禁止し、そのうえで「憲法は……を保障する」という文体で構成されているが、改正草案は国民に対して「……してはらない」といい、それを守るならば「国は……を保障する」という言い方をしている。)
 「検閲」の事実を積み上げることで、安倍はそれを「既成」のものにしてしまう。国(権力)は検閲をしてもいい。国民が検閲をするのはダメだが、国はいい。
 この論理を展開すると、たとえば、こうやって書いている私の文章や、ピーコの発言も、籾井NHK(安倍のいいなり)の行動をチェックすることだから、「検閲」にあたるかもしれない。そして、こういう批判をすることは「検閲である」と決めつけられ、禁止されてしまうかもしれない。
 それは、まあ、すこし脇に置いておいて。
 安倍のやろうとしていることは、「既成事実」を増やし、国民の抵抗感を弱めるということである。籾井NHKは、それに協力している。ピーコの発言は削除された。だれだもの発言も削除された、ということがつづき、それに対してだれも抗議しないというこことがつづくと、そういう「削除(検閲)」は是認されたということになる。「正しい」ということになってしまう。
 こういうことに対して、私は、抵抗したい。

 いま起きていることを、自民党憲法改正草案と結びつけながら見ていくと、安倍の狙いがより鮮明になる。
 今回起きたことは、どういうことか。
 戦争を批判することは、籾井NHKによって、「公益(国の利益=安倍の利益)」を「害する」と判断されたということだ。さらに、「公の秩序」を「害する」と判断されたということだ。
 この場合、「公の秩序」とは憲法改正(戦争放棄の廃止)へ向けて動いている「改憲運動の秩序」を「害する」という意味でもある。
 「公の秩序」とは「国の(安倍の)考えている秩序」である。
 すでに書いてきたことだが、何度でも書こう。(永六輔も、大事なことは何度はでも書く、何度でも言う、と繰り返しを気にしなかった。)

(現行憲法)
第十三条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
すべて国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 改正草案は、「個人」を「人」とすることで「多様性」を否定し、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言いかえることで、「国」を前面に押し出している。
 「改正草案」の「公益」「公の秩序」は「国の利益(国益)」「国の秩序」と言いかえることができる。
 一方、「公共(ひとびとの)の福祉」ということばはあっても「公の福祉/国(組織)の福祉」ということばはない。「国(組織)の福祉」という言い方がないからこそ、これを「公益及び公の秩序」と言い換えることで、「国(組織)」を優先させる、「ひとびと(国民)」を「国(組織)」の下におしとどめることができるよう、文言が練られている。

 そういうことと、連動させながら、いま起きていることをみていく必要がある。
 永六輔という個人の生き方、ピーコの永六輔に対する個人的な評価、それを削除することは「多様性」の排除である。「公共(ひとびと)」というのは「多様」からななりたっているが、その「多様」を排除し、「国(組織)」という「統一」(統一ということばのなかには、「一」という「多」とは反対のことばがある)を推進しようとする動きがある。
 安倍の(籾井NHKの)やっていることを、改正草案と結びつけながら、批判し続けることが、改正草案の問題点を浮かび上がらせることになるはずだ。しっかりと目を凝らしたい。
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大木潤子『石の花』

2016-08-21 09:53:36 | 詩集
大木潤子『石の花』(思潮社、2016年08月05日発行)

 大木潤子『石の花』はタイトルなしで断片が散らばっている。最初の方は後半に比べると幾分長い。

闇が、
寄せたり引いたりする、
思いがけない方角から、
別の闇も寄せて、
複数の闇が、
網目の模様を描く向こう側から、
音楽が、                            (13ページ)

 幾分長くて、少し意味ありげである。「思いがけない」「別の」「向こう側」というような、「いま/ここ」とは違うもののあり方が「意味」を感じさせる。「意味」とは「いま/ここ」が否定されて、「いま/ここ」ではなくなる瞬間の、その再構築のことだと、ここから「定義」することができる。
 で、その「再構築」が、ではいったい何かというと、しかし、明確にはわからない。ここでは「音楽」という「名詞」で提示されているものが「意味」に輪郭を与えている。ただし、そこには「動詞」がないので、はっきりと「意味」になっているかどうか、私には判断しかねる。
 これを「暗示」と言いなおすことができるかもしれない。
 なんと言いなおしても、それは単なる言い直しかもしれないが。
 それよりも、やはり「思いがけない」「別の」「向こう側」ということばが抱え込んでいるものを見つめなおした方がいいだろう。それらのことばは「いま/ここ」から「いま/ここ」ではないところをめざして動いている。その動きの、ベクトルの先に、何かを描き出そうとしている。その「何か」へ向かって収斂しようとしている。あるいは凝縮しようとしている。

石を結ぶ




石を結んでゆく
わたしは結ばれた石。                        (19ページ)

 この「結ぶ」が「収斂/凝縮」ということでもある。「収斂/凝縮」と私が呼んだものを大木は「結ぶ」という動詞で言いなおしている。

石のなかに
また
石がある


重さを
増して

 「増す」という動詞は「結ぶ」に通じるかもしれない。「結ぶ」ことにより、たしかなものになる。そのたしかさを「重さ」と言いなおしている。(「軽い」は不安定に通じる。)それが「増す」、「増える」、いっそうたしかになる。
 「収斂/凝縮」は「結晶化」と言いなおすこともできるし、純粋化ともいうことができる。
 これが、

石を読む                             (61ページ)

 という一行だけの断片のあたりから、少し様子が違ってくる。「いま/ここ」ではないどこかが「石のなかに」という「内部/結晶/凝縮」とは違った動きが出てくる。

石の鳥、
石の羽毛、
石の鼓動
石の
花が開く、

石の名前                             (73ページ)

 「開く」は「結ぶ」とは逆の動きである。「石の鳥、/石の羽毛、/石の鼓動」はまだ「収斂/凝縮」である。「石の花」も「収斂/凝縮」であると言うことができる。「収斂/凝縮(結晶)」は、こういうとき「象徴」と呼ばれたりする。つまり「意味」が、まだここでは動いているのだが。(先に引用した「わたしは結ばれた石」というのは「石」が「わたし」の「象徴」である、ということだ。「意味」だ。)
 そこに「開く」という動詞が新たに加わることで、ベクトルが、まったく違ったものになっている。
 何かに向かって「収斂/凝縮/結晶」するのではなく、それを「開く」、つまり「開放する」ことになる。
 「いま/ここ」からどこかへ動いていくのではなく、「いま/ここ」にいて、「いま/ここ」そものが動くのである。
 ここからが、この詩集のハイライトである。

目覚めても、                           (81ページ)

石が
語る                               (83ページ)

石の
言葉                               (85ページ)

 何も言っていない。何も言っていないというと大木に申し訳ないが、ここでは、ベクトルが「収斂」していかない。収斂(凝縮していたもの)が、ただ開放され、それがどこへゆくかは、読者に任されている。

ほ、とける                           ( 113ページ)

 という不安定な「音」を通って、「凝縮/収斂」が「ほどかれていく」。「ほどかれる」だけではなく、それは「とける(溶ける/解ける/融ける)」。「融合」へまで動いていく。
 
 何と「融合する」のか。
 それは一番大事な問題だが、それに対する「答え」はない。なぜないかというと、「答え」というのは、ひとつの「収斂/結晶」だらかである。それを書いてしまうと、「ほどいた」ことが何にもならなくなる。

座標が
ない                              ( 143ページ)

石の花                             ( 147ページ)

咲く                              ( 149ページ)

 「座標が/ない」の「ない」という「動詞」(というか、用言)がすべてであり、そこで「開く」は「咲く」と言いなおされている。


石の花
大木潤子
思潮社
コメント (1)
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