詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

本郷武夫「川面は光っていて」

2016-08-18 10:19:46 | 詩(雑誌・同人誌)
本郷武夫「川面は光っていて」(「GANYMEDE」67、2016年08月01日発行)

 本郷武夫「川面は光っていて」は文体に強いものがある。ことばが断片化されず、粘着力がある。

水道橋からの川面は光っていて、中が見えない。
斜面の緑が鮮やかで、木々は警官のように風に揺れている。

 書き出しの一連、二行。「警官のように」の「警官」という比喩が少し異様だが、ぐいと迫ってくる力がある。たぶん、一行目の「中」ということばが影響している。
 「水道橋からの川面は光っていて、中が見えない。」というときの「中」というのは「川の内部=水中」のことである。光の反射がまぶしくて、水中までは見えない。そういうことは誰もが経験することである。
 ひとは「内部=中」を見ないで「表面」だけを見ている。
 その「表面」の風景を、川からその周辺にうつして眺めてみると、緑が見える。緑とは木々のことである。その「木々」が「警官」に見える。「内部」が「警官」に見える、とうことだろう。
 「警官」とは何か。たぶん、本郷を監視しているだれかだろう。本郷の行動を監視している誰か。そして行動を監視するとは、「表面」にあらわれた動きだけではなく、本郷の「内部/中」を監視することである。このとき「内部/なか」とは「ここころ」とか「精神」になる。
 で、二連目。

病院から出て、横断歩道をわたり丸善に入る。
ページを捲り、表紙絵や挿入図を見ただけでそのまま
反対の入り口から出て、ふっと、「また病院へ帰ろう」と思った。
直通のエレベーターが在ってあの部屋は守られている

 ここでは「入る」という動詞と「内部」がしっかりとからみついている。切り離せない。「病院から出て」の「出る」さえもが、「丸善に入る」とすぐ「入る」という動詞にかわり、「内部」を呼び寄せる。
 「内部/中」には、大きく分けて二種類ある。
 ひとつは「他者の内部」、もうひとつは「私の内部」。
 一連目にもどって「川面は光っていて、中が見えない。」は、一見したところ「川の内部/他者の内部」のように見える。しかし、その「中」を「内部」と意識したときから、それは「本郷の内部」の「比喩」のようにも見える。そして、その「比喩」としての「内部」が「木々は警官のように」の「警官」という比喩を木々の「内部」にもちこむのだが、このとき「警官」は「内部」でありながら「外部」でもある。本郷の「内部」から「外」へ出てきて、「形」になったもの。
 「他者の内部」「私の内部(本郷の内部)」が交錯する。「他者の内部」を意識すると「本郷の内部」が誘い出され「外部」になる、ということかもしれない。
 「丸善」というのは「本郷の外部」。けれど、その「内部」に入り、さらに「丸善の内部」の「内部」という「本」のなかへ入ろうとすると、何かが「本郷の内部」から外へ出てきてしまう。

「また病院へ帰ろう」と思った。

 「思い」が出てきてしまう。そして「外部」に「病院」をつくってしまう。病院は最初からあるのかもしれないが、そこから出てきたとき「病院」は無用のもの、ないに等しいものになっているから、「また病院へ帰ろう」と思ったというときの「病院」は「本郷の内部/記憶/意識」にあったものが、新しく「外部」として生み出されたものである。
 そのなかへ、帰っていく。これは「本郷の内部」へ帰るというのに等しい。

直通のエレベーターが在ってあの部屋は守られている

 ここにはふたつの重要な「動詞」がある。「直通」というのは「直通する」という動詞派生の名詞であり、そこには「直通する」が隠れている。もう一つの動詞は「守られている/守る」である。
 「内部」はいつでも本郷と「直通している」。そして「内部」はいつでも「守られている」。「守る」ために「病院」という「外部」が生み出されている。
 ここにも「交錯」があるのだが、この交錯こそが「粘着力」というものである。

 「空っぽに成った部屋から庭を眺める。」には、こんな行がある。

3月3日 ひな祭りの日は夕方までのことを聞かれて
幾度も同じことを答えていた
それから亡骸と
自宅に帰った

前も後ろも繋がって 時間が
なじっている
・・・・雨降り人形

 「亡骸」は「内部が空っぽになった肉体」ということかもしれない。自分自身のことだ。「内部が空っぽになった肉体」が「亡骸」という「比喩」になって、「外部」にあらわれている。
 そういうことを書いたあとの「前も後ろも繋がって」の「繋がる」という動詞がおもしろい。「前」「後ろ」と別のことばで言うことができるのだが「つながる」と、それはどこかで「融合」する。「区別のつかない領域」を持ち始める。これを「粘着力」と言いなすことができる。
 「前と後ろが繋がって」というとき、何の「前と後ろ」か。そのすぐあとの「時間」の「前と後ろ」かもしれない。幾度も同じことを答えると、「時系列」の「前と後ろがつながって」しまう。短縮(凝縮)してしまい、どこかで「まじりあう」。その「区別のなさ」。これを、本郷は「なじっている」と言いなおしている。
 あ、なじる、か。
 私は、何か納得してしまう。
 「なじる」と「批判する」は違うかもしれないが、どこか自分を客観視しすぎる力があって、つまり自己批判をする力が本郷にはあって、それが「外部/内部」という「構造」をつくりだし、その構造の中で苦悩しているように感じられる。「外部/内部」は、そのまま安定した構造ではなくて、つねに「生み出される」ものなので、構造なのに動き続ける。その動きを引き止めようとするものと、さらに構造を追加しようとするものが、せめぎ合い、それが「しつこさ」というか「粘着力」になっている。

 本郷の詩を、私は読んだことがあるかどうか、わからない。もっと多くの詩を読むことができれば、さらに本郷の「粘着力」について考えることができるかもしれない。とても気になる「文体」である。

夜は庭が静かだね一行読めればいい (烈風圏叢書)
本郷武夫
港の人
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