荻悦子『樫の火』(思潮社、07月31日発行)
荻悦子『樫の火』を読みながら、なんだか遠いなあ、という感じがした。描かれていることが、身近に迫った来ない。なぜなんだろう。
特徴的なのが「徴(しるし)」である。「徴」は「徴候」の「徴」。これから起きることの「しるし」。「兆候」とも書く。こちらは「きざし」。
そういうものは、とても「身近」。近すぎる、という感じがするものである。しかし、荻は、逆に書いている。
金木犀の香りをかぐとき、その香りの源である花自身は既に終わっている(散っている)。何かが起きるのではなく、何かが終わった。終わったのに、それを「きざし」のように感じる。
だから、もし何かが始まるとしたら、それは「源」においてではなく、「私(荻)」において起きる。
けれど、荻は、その「私」に起きることを書かずに、「源」において何かが起きたという「徴(しるし)」だけを書く。これは、暗示。あるいは「暗喩」。遠い「源」でほんとうにそれが起きたかどうか荻は確かめるわけではない。かつて、その「源」(たとえば散ってしまった金木犀)を見たことがある。体験したことがある。その「源」を想像しているのである。起きたことは、起きたように起こる。それは、かわらない。
だから、こう書く。
「空に残滓が光って走り抜ける」は一連目の「空に仄白い光が瞬いた」の言い直し。そのことからわかるように、ここに書かれていることは、前に書いたことの「言い直し」である。反復である。
「ことは/既に終わっていた」は「ことは私たちの外にあり」と言いなおされている。
すべては「外(私たちの力が及ばないところ)」にあり、それに対して、「私たち」は変更を迫ることができない。これが、荻の詩が「遠い」という印象を呼び起こすのである。
近くにあるのは「組み込まれている」という感覚だけ。
すべて「こと」は「遠く」で起こり、何か起きたか気づいたとき(徴=しるしをつかんだとき、「徴候/兆候」を感じたとき)、その「こと」は終わっている。「こと」をやりなおすことはできない。
ここには一種の「あきらめ」がある。
「わかる」けれど、私は、こういう感覚が好きではない。「あきらめ」てもらっては困る、と反発したくなる。
とは言いながら、次のような行は美しいと感じてしまう。
「組み込まれる」ということが、ここでは丁寧に語り直されている。「心にあったことが飛び去り/手近なものの形や色が遠退いてしまう」。「遠く」「源」で起きたことが、いま/ここに影響してきて、その結果、近くにあるもの(手近)の形や色が変わってしまう。「遠退く」という形で、たぶん「源」へ帰っていく。そのとき、「私」自身(地下血を把握する人間)が「遠い/源」そのものと「暗喩」となる。
「彼方にはもうない源//徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」「徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」という「過去形」が
と「現在形」で書かれる。
ここが、美しい。
と書いて、思い出すのだが…。
と、ここでも「橙色の細かな花がこぼれる」と「現在形」が書かれていた。「終わっていた」だから、その「時制」にしたがうならば「花がこぼれた/こぼれてしまっていた」なのだが、「こぼれる」と「現在形」。
これは「こぼれる」というところから荻が世界を反復しているということである。
これは、世界を取り戻そうとすることばの運動かもしれない。
ことばが「なんだか遠いなあ」と感じながらも、なぜか読んでしまうのは、単に遠い世界を書いているからではなく、あるいは終わったことを書いているからではなく、もう一度、それを取り戻そうとして書いているからかもしれない。どこかに、そういう「欲望」(生きる本能)があるからかもしれない。
「比率」という作品。
木における変化、これらは、すでに「起きたこと」であり、「起きたように起きること」である。つまり「決まったこと/終わったこと」である。しかし、それを「描く」という動詞でもういちどやりなおす。そのとき「私(荻)」は木として行き始める。木として生きながら、「決まっていること(終わっていること)」のなかにある運動をたしかめ、そこから何かを探ろうとしているようにも見える。そこに新しい何かを追加しようとしているからでもある。
「比率」「分かれ方」。その「分析」は「決まっていること/終わったこと」の追認ではあるが、そういう追認ができるのは「人間」だけである。木は、そういうことを追認しない。「比率」ということばとともに動いているものが、「追認」を越える形で「追加」されているとも言えるだろう。
ことばが「なんだか遠いなあ」と感じるのは、そこのことばが「追認」だからである。そして、追認なのに読んでしまうのは、その「追認」が分かりきってることであっても、丁寧だからである。「追認」しながら、「追認」を点検しているからだとも言いなおすことができるかもしれない
「初めから私たちは組み込まれ」ているのなら、せめて、その「組み込まれている」状態を丁寧に見つめなおすことで、いのちを美しくととのえようとしているのかもしれない。あるいは、丁寧「追認」することでしか見えないものを探り出し、そこから「構造」(組み込まれている形)をこじ開けようとしているのかもしれない。
(暑くて頭がぼーっとするので、それ以上は考える気力がわかない。申し訳ないが。「日記」だから、こんなことも書いておく。)
荻悦子『樫の火』を読みながら、なんだか遠いなあ、という感じがした。描かれていることが、身近に迫った来ない。なぜなんだろう。
特徴的なのが「徴(しるし)」である。「徴」は「徴候」の「徴」。これから起きることの「しるし」。「兆候」とも書く。こちらは「きざし」。
そういうものは、とても「身近」。近すぎる、という感じがするものである。しかし、荻は、逆に書いている。
夕ぐれ
空に仄白い光が瞬いた
金木犀の香りが漂ってくる
彼方にはもうない源
徴を目にしたとき
ことは
既に終わっていた
橙色の細かな花がこぼれる
金木犀の香りをかぐとき、その香りの源である花自身は既に終わっている(散っている)。何かが起きるのではなく、何かが終わった。終わったのに、それを「きざし」のように感じる。
だから、もし何かが始まるとしたら、それは「源」においてではなく、「私(荻)」において起きる。
けれど、荻は、その「私」に起きることを書かずに、「源」において何かが起きたという「徴(しるし)」だけを書く。これは、暗示。あるいは「暗喩」。遠い「源」でほんとうにそれが起きたかどうか荻は確かめるわけではない。かつて、その「源」(たとえば散ってしまった金木犀)を見たことがある。体験したことがある。その「源」を想像しているのである。起きたことは、起きたように起こる。それは、かわらない。
だから、こう書く。
無くなった
失くしたすべて
落ちた花が樹の下に円く広がり
空に残滓が光って走り抜ける
ことは私たちの外にあり
そのように
初めから私たちは組み込まれ
「空に残滓が光って走り抜ける」は一連目の「空に仄白い光が瞬いた」の言い直し。そのことからわかるように、ここに書かれていることは、前に書いたことの「言い直し」である。反復である。
「ことは/既に終わっていた」は「ことは私たちの外にあり」と言いなおされている。
すべては「外(私たちの力が及ばないところ)」にあり、それに対して、「私たち」は変更を迫ることができない。これが、荻の詩が「遠い」という印象を呼び起こすのである。
近くにあるのは「組み込まれている」という感覚だけ。
すべて「こと」は「遠く」で起こり、何か起きたか気づいたとき(徴=しるしをつかんだとき、「徴候/兆候」を感じたとき)、その「こと」は終わっている。「こと」をやりなおすことはできない。
ここには一種の「あきらめ」がある。
「わかる」けれど、私は、こういう感覚が好きではない。「あきらめ」てもらっては困る、と反発したくなる。
とは言いながら、次のような行は美しいと感じてしまう。
私は車輪梅の枝を手にしていた
黒い小さい実を棚に飾ろうとしていた
部屋の明るさ
椅子の綻び
実の枝を飾る位置
心にあったことが飛び去り
手近なものの形や色が遠退いてしまう (「冬の星」)
「組み込まれる」ということが、ここでは丁寧に語り直されている。「心にあったことが飛び去り/手近なものの形や色が遠退いてしまう」。「遠く」「源」で起きたことが、いま/ここに影響してきて、その結果、近くにあるもの(手近)の形や色が変わってしまう。「遠退く」という形で、たぶん「源」へ帰っていく。そのとき、「私」自身(地下血を把握する人間)が「遠い/源」そのものと「暗喩」となる。
「彼方にはもうない源//徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」「徴を目にしたとき/ことは/既に終わっていた」という「過去形」が
手近なものの形や色が遠退いてしまう
と「現在形」で書かれる。
ここが、美しい。
と書いて、思い出すのだが…。
徴を目にしたとき
ことは
既に終わっていた
橙色の細かな花がこぼれる
と、ここでも「橙色の細かな花がこぼれる」と「現在形」が書かれていた。「終わっていた」だから、その「時制」にしたがうならば「花がこぼれた/こぼれてしまっていた」なのだが、「こぼれる」と「現在形」。
これは「こぼれる」というところから荻が世界を反復しているということである。
これは、世界を取り戻そうとすることばの運動かもしれない。
ことばが「なんだか遠いなあ」と感じながらも、なぜか読んでしまうのは、単に遠い世界を書いているからではなく、あるいは終わったことを書いているからではなく、もう一度、それを取り戻そうとして書いているからかもしれない。どこかに、そういう「欲望」(生きる本能)があるからかもしれない。
「比率」という作品。
その木の根元から幹へ
幹から枝へ
木が伸びる方向にそって
鉛筆を動かし
木を描いてみた
幹と枝
葉を付ける細い枝
それらの大きさの比率
分かれ方
予め比率があり
木はそのように枝葉を広げる
五月が来れば
白い細い総状の花を垂らす
木における変化、これらは、すでに「起きたこと」であり、「起きたように起きること」である。つまり「決まったこと/終わったこと」である。しかし、それを「描く」という動詞でもういちどやりなおす。そのとき「私(荻)」は木として行き始める。木として生きながら、「決まっていること(終わっていること)」のなかにある運動をたしかめ、そこから何かを探ろうとしているようにも見える。そこに新しい何かを追加しようとしているからでもある。
「比率」「分かれ方」。その「分析」は「決まっていること/終わったこと」の追認ではあるが、そういう追認ができるのは「人間」だけである。木は、そういうことを追認しない。「比率」ということばとともに動いているものが、「追認」を越える形で「追加」されているとも言えるだろう。
ことばが「なんだか遠いなあ」と感じるのは、そこのことばが「追認」だからである。そして、追認なのに読んでしまうのは、その「追認」が分かりきってることであっても、丁寧だからである。「追認」しながら、「追認」を点検しているからだとも言いなおすことができるかもしれない
「初めから私たちは組み込まれ」ているのなら、せめて、その「組み込まれている」状態を丁寧に見つめなおすことで、いのちを美しくととのえようとしているのかもしれない。あるいは、丁寧「追認」することでしか見えないものを探り出し、そこから「構造」(組み込まれている形)をこじ開けようとしているのかもしれない。
(暑くて頭がぼーっとするので、それ以上は考える気力がわかない。申し訳ないが。「日記」だから、こんなことも書いておく。)
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