詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

板垣憲司「渚の<駅>」

2016-08-09 10:14:41 | 詩(雑誌・同人誌)
板垣憲司「渚の<駅>」(「現代詩手帖」2016年08月号)

 板垣憲司の詩を読んだことがあるかどうか、記憶にない。たぶん初めて読む。

土と、崩れた 痣の葉が、こぼれ
磨りガラス、の向こうには 廃瓶と、
義足が
ブラインドの位置に、映っていた
二人が、  労りあった
      あの「駅」だ

 駅の思い出が書かれているだろう。「磨りガラス」「廃瓶」「義足」ということばのつながりには、何か古い「マンガ」の世界を見る感じがする。1970年代のザラザラした紙に印刷された「マンガ」に出てくる「小道具」という感じ。タイトルの「渚」が「抒情」になってしまっている。
 読点「、」と字空き(空白)は「存在」を孤立化(断片化)させて印象づけようとしているのだろうけれど、よくわからない。
 ただ、

呼応して
去り、黄緑色に発出するから
その記憶の位置へ躰を傾けた
艸の、燃える 前に立っている
額を 染めて夕陽がおちてくる
渚、は
誰が見詰めたのか、呼び戻した?

 の「呼び戻した」には「肉体」を感じた。渚を見つめた記憶が、渚を目の前に呼び戻す。「誰が見つめたのか」の中には「二人」のうちの「私」がいるのはもちろんだが、「誰が」とことばにすると「私ではないもうひとり」を刺激する。
 ここに渚がある。それは単なる渚ではなく、「もうひとり」が見つめた渚である。そして、それが「呼び戻されている」。そのとき、当然のことながら渚を見つめる「もうひとり」の肉体(視線)そのものが呼び戻されている。
 それが、なまなましい。
 
 とはいうものの。
 妙に古くさい。もっと「新しいもの/こと」がほしいなあ、と思う。

現代詩手帖 2016年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外6(天皇の「お言葉」を読む)

2016-08-09 09:06:01 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外6(天皇の「お言葉」を読む)

 08月08日、天皇が「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」というものをビデオ放送の形で発表した。仕事中、テレビで何か所かに「つっかかる」ものを感じた。そのことを書いてみたい。
 籾井NHKのサイトでは「全文」を六つのパーツに分けている。その分け方にしたがって、私が感じたことを書いてみる。(1)-(6)は私がつけたものであって、籾井NHKのサイトの文章には付いていない。

(1)
 戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 この部分で、私は聞きながら「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」ということばにひっかかった。「現行の皇室制度に具体的に触れること」は「政治的行為」になるので、触れることはできない、という意味だろう。
 このとき前提としているのは「現行憲法」である。現行憲法は第五条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する機能を有しない」と定められている。だから、触れない。
 こういうことを「わざわざ」言うのは、本当は触れたいのだけ触れることができないので、隠された「文意」を察してほしいということだろうと思った。私は、まず、ここにつまずいたのである。「あっ」と思った。
 そして、その直後に「私が個人として」ということばをさしはさんでいることに、さらにびっくりしたのである。天皇は「個人」なのか。「個人」でありうるのか。「個人」とことわってまでして言いたいことは何だろう。
 「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」は、逆の意味かもしれない。これは、天皇が言っているのではなく「言わされている」のではないか。
 現行憲法は第三条で「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と定めている。
 今回のビデオでの発言は「国事」や「国政」そのものにあたるかどうかわからないが、きっと「内閣の助言と承認」を得たものである。つまり「検閲」ずみである。これは先日、読売新聞が報道していた「水面下の交渉」(憲法に触れないかどうか、文言のチェックを受けている)ということに通じる。
 「検閲」を受けている。だから、本当のことは言えない。言わされている。それを察してほしいという「願望」を、私は、「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」に強く感じたのである。
 自民党憲法改正草案には、第六条第四項に「天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」とある。これは現行憲法の第三条と同じだが、その「位置」が違う。なぜ第三条ではなく、目立たないところへ移したのかわからないが、「検閲するぞ」という意図を隠したいのかもしれない。「天皇を自由にはさせないぞ」という意味合いを隠したいのかもしれない。「検閲を隠したい」けれど「検閲を実施する」という改正草案の「圧力」を、ふと、感じたのである。
 で、以下は、私が「検閲されている」(表現を押しつけられている)と感じたことについて書いていくことにする。

(2)
 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 この部分で私が、何を言っているのかな、と一瞬迷ったのが「伝統の継承者」ということばである。
 「伝統」って、何?
 直前の「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」ということばに従うなら、これは「象徴」だろう。「象徴の継承者」として、生きてきて、今日に至っている。
 この「伝統」は昭和天皇が築き、今の天皇が「継承」しているものである。
 「伝統」というには、私の感覚では短すぎる。普通の感覚で言えば、親が始めたこと、親の教えに従ってというくらいのことである。
 で、突然思い出すのである。
 改正草案は、前文で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と書いている。「長い歴史と固有の文化」とは「伝統」と言い換えることができる。そして「伝統」に触れた直後に「象徴」ということばが出てくる。
 改正草案では「伝統=天皇象徴」である。「象徴天皇」が戦後うまれたものであるにもかかわらず、改正草案は「伝統」と「規定」している。
 その「伝統」が、ここで押しつけられている。私は、そう感じた。

(3)
 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 ここには「検閲」は感じられない。そのかわりに、天皇自身のことばがある。たとえば「伝統」というかわりに、「従来のように」ということばがつかわれている。「従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合」と。
 「重い務め」は、後半で「象徴の務め」と言いなおされている。
 「従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合」とは、「従来のように象徴務めを果たすことが困難になった場合」という意味であり、そこには「伝統」ということばはつかわれていない。
 これが天皇の「基本認識」である。
 (2)の部分の「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇」というのが天皇の自己認識。そこには「従来のように」、つまり昭和天皇から引き継いだ「務め」そのものとして、という意味はあっても「伝統」という感覚はない。
 (2)にもどって「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」の「伝統」も「象徴としての務め」ということにすぎない。
 「象徴」を天皇のことばを「検閲した」内閣は、これを「伝統」と言い返させている。私は、そう読んだ。

(4)
 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 この部分は、とても美しい。ことばに切実な響きがある。実際に「象徴天皇」として生きた人間にしか言えないことばの強さがある。
 ここでは天皇は「象徴」ということばしかつかっていない。「伝統」という「抽象的」なことばをつかっていない。とても「具体的」である。
 言いなおすと、そこで語られるのは抽象化できない「個人的なできごと」であり、「皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅」の「皇太子時代」「皇后と共に行って来た」という「短い時間」である。特に「皇后と共に行って来た」はきわめて「個人的」な体験であり、それは「伝統」ではない。「抽象化」されない「事実の時間」である。天皇の「肉体」が実際やくぐり抜けてきた時間である。天皇が「生み出した時間」である。
 「象徴の務め」について、「国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」と言っているのも、実際に、そういうことをしてきたひとにしか言えない美しさがある。
 これは「伝統」ではなく、いまの天皇の「資質」なのである。「人間性/個人性」なのである。この「個人的」であることによって「普遍」になる「人間性」を、どうやって伝えていくか、そのことを天皇は考えているのだと思う。
 詩を読むようにしてことばを読み、優れた詩を読んだときのように感動した。「国民」ということばを何度もつかい、「幸せなことでした」と言い切るところが、とても強い。ここは完全に「天皇個人」のことばが語られている。天皇以外のだれも語ることのできないことばが、ここにある。

(5)
 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 ここは、微妙である。(4)のあとでは、「不透明」なのものを感じる。「個人的」であることよよって生まれることばの美しさに欠けてている。
 「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」とは、何を言いたいのだろう。
 ビデオをみていたとき(ことばを聞いていたとき)わからなかったが、文字で読み返してもわからない。「その立場に求められる務め」とは「象徴」のこと。「象徴天皇」の勤めが果たせなくても「天皇」である、と言っているようにみえる。「生涯の終わりに至るまで」というのは、今の天皇がたとえば「象徴としての務め」を果たせなくなっても「天皇」である、と言っているようにみえるが、「生前退位」との関係はどうなる? 「生前退位」して天皇ではなくなったとき、その処遇は?
 「生前退位」が天皇の望みであるというよりも、「生前退位」を迫るものに対して、抵抗しているように感じられる。「天皇」は生涯「天皇」なのだ、と言っているようにみえる。その主張は、全体との関係では、ぎくしゃくした感じがする。
 後段は、もっと不思議。奇妙。
 「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」の「これまでにも見られたように」とは具体的にはどういうことだろう。昭和天皇が倒れてからの死ぬまでのことを指しているのだろうか。「社会が停滞し」たかどうか、私はよく思い出せない。「自粛ムード」が広がったことはおぼえている。「自粛」したのだから、ある程度の「停滞」はあったかもしれないが……。
 しかし、「停滞」がはたして悪いことなのか、というよりも、停滞せずに前進し続けることがよいことなのか、必要なことなのか、それも疑問である。
 それに、たとえ天皇が「生前退位」して天皇でなくなったとしても、病気になった、倒れた、死ぬかもしれない、となれば、昭和天皇のときと同じように「自粛ムード」がひろがるのではないか。天皇ではないのだから、気にしないで、いつものように楽しもう、積極的に経済活動に励もう、という具合に国民(社会)は動くだろうか。
 ここに書かれている「懸念」はほんとうに天皇の懸念だろうか。
 むしろ、「経済的(社会的)停滞」がないことだけが善であると考える、合理主義(功利主義)的人間の懸念が反映/露呈していないか。
 そのあとの「残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」は「個人的」で、ほんとうに懸念しているのだと感じるけれど。天皇も一般家庭も、取り残される家族の問題は同じだ。
 でも、これはなんというか「身内」の問題だなあ。この「身内」のもんだいと「社会が停滞し」という心配の関係が、私にはしっくりこない。変なものがまじっている、変なことを天皇が言わされていると感じてしまう。

(6)
 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
 国民の理解を得られることを、切に願っています。

 最後の部分に、「歴史」ということばが出てくる。「我が国の長い天皇の歴史」お「歴史」は「伝統」と読み替えることができる。「継承」と読むこともできると思う。
 現行憲法は、前文で「天皇」について触れていない。それに対して「改正草案」は「天皇」について語ることからはじめている。そして、改正草案の前文の最後、

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定す
る。

 この「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」ということばが、私には「天皇制と、天皇を末永く子孫に継承する」を指し示しているようにも感じられるのである。改正草案は、どうやって天皇制を理想像として国民におしつけるか、ということを狙っている。天皇制に象徴される家長制をどうやって実現し、子孫に継承していくか。天皇制を「理想像/象徴」としてかかげ、実際は内閣総理大臣が「実権」を握る
 そう考えるとき、「常に国民と共にある自覚を自らのうちに育てる」といういまの天皇のあり方、「象徴天皇制」は、どうも邪魔ではないだろうか。
 「新しい天皇制」をもくろむ人間が、天皇がふともらした家庭内での不安、皇太子にどうやって「象徴天皇」を引き継げばいいのだろうかという不安の声を利用しているのではないかと感じてしまう。



 今回の一連の動き、天皇が「生前退位」の意向を持っているということについては、これは安倍の改憲の動きを封じるための天皇の「抵抗」というような憶測も聞かれた。わたしは、この憶測についてはとても疑問を持っている。
 天皇が安倍の改憲を阻止するというよりも、安倍が天皇の意向を利用して改憲を強引に突き進める突破口にしようとしていると感じてしまう。
 「生前退位」を前提として議論を進めるなら、それはそれで天皇の発言を政治利用することになる。そういう「政治利用」に対して、天皇は、この発言の中で抵抗している。そう感じる。「生前退位」が天皇の望みであるにしても、それを利用されたくないという思いを感じる部分がある。
 それは(1)の「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」ということばであり、(6)の「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません」ということばである。そこには天皇の言いたいことと、言わされていることが交錯しているように感じる。言ってしまうと憲法に触れる、だから言えないのだけれど、「個人的」に言えることを懸命に言おうとしている。そこに、ことばにならない「矛盾」が隠れていると感じる。
 もし、天皇が安倍の改憲の動きに抵抗しているのだとしたら……。
 抵抗している、と感じる部分は、たしかにある。
 それは私が、ここだけが天皇の純粋なことば(検閲が含まれていない部分)と感じだ「個人的体験」のことである。つまり「象徴」としての「生き方」の部分である。「象徴」につついてこそ、天皇が、守りたいことなのだ、憲法を改正されたくない部分なのだと感じた。
 今回のことばが「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」と「象徴」という文言をタイトルに含んでいることからも、そのことが推測できる。「高齢化した天皇のお言葉」「天皇の高齢化に対するお言葉」など、「高齢化=生前」のことをテーマにしてはいない。
 で、その点から、現行憲法と自民党の改正草案を比較してみる。天皇は、何を言おうとしているのかを推測してみる。
 前文については先に触れたように、現行憲法では「天皇」は出てこない。改正草案では「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と冒頭にいきなり登場する。現行憲法では「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と「日本国民」を主語として始まるのと対照的である。
 具体的に天皇について触れた部分でも大きく違う。

(現行憲法)
第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
(改正草案)
第一条
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 改正草案では「元首であり」ということばが挿入されている。
 しかも「元首である」のに「象徴でもある」。「国政に関する機能を有しない」(現行憲法第四条、改正草案第五条)と定められているのに「元首」である。これは、どういうことか。このことに対する考えはすでに書いたので繰り返さない。(ブログか、11日に出る『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』を参照してほしい。)
 私は、この「元首であり」ということばにこそ、天皇が抵抗しているのだと感じた。
 だからこそ、現行憲法に書かれている「象徴」という仕事についてのみ、懸命に、個人的な体験と、その体験をとおして肉体化した思想を語っているように思えた。
 昭和天皇は「元首」だったのか、「元首」という名のもとで政治に利用されたのか。解釈はいろいろ分かれるだろう。推測できるのは、いまの天皇は、「元首」として利用されることは望んでいない、「象徴」としての務めこそが天皇のものである、と強調したいという意志を持っているということだ。
 もし天皇が安倍の改憲に反対するとしたら、まず第一章の「天皇は、日本国の元首であり」という部分だろうと思う。「生前退位」よりも、そのことを伝えたくて、皇太子時代とか、皇后と共に、という「具体的」な「象徴の行為」について語っているのだと思った。



 天皇のことばと同時に、そのあとに発表された安倍のコメントにも注目した。

天皇陛下のご公務のあり方などについては、天皇陛下のご年齢やご公務の負担の現状にかんがみるとき、天皇陛下のご心労に思いをいたし、どのようなことができるか、しっかりと考えていかなければいけないと思っている。

 あ、これは早急に皇室範典を変え、同時に憲法を変えるぞという意思表示に聞こえる。「天皇陛下のご心労に思いをいたし」ということばで国民の合意を取り付け用としている。これこそ、天皇の政治よりうである、と私は思う。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする