詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外編 3(情報の読み方)

2016-08-03 20:06:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外編 3(情報の読み方)

 web版毎日新聞08月03日(水)10時55分配信に次の記事が出ている。

 7月10日に投開票された参院選大分選挙区で当選した民進党現職らの支援団体が入居する大分県別府市の建物の敷地内に、同県警別府署員が選挙期間中、隠しカメラを設置し、人の出入りなどを録画していたことが、3日分かった。カメラの設置は無許可で、建造物侵入罪などに該当する可能性があり、県警の捜査手法に批判の声が出るのは必至だ。

 この前文で、私が気になって仕方がないのが「カメラの設置は無許可で、建造物侵入罪などに該当する可能性があり、県警の捜査手法に批判の声が出るのは必至だ。」という部分。はたして「建造物侵入罪」が一番の問題なのか。
 読売新聞(西部版・03日夕刊4版)では類似の前文だが、後半は

県警は3日、別府所員が許可なく敷地内に入ったことを認めて「不適切だった」とし、関係者に謝罪したことを明らかにした。

 とあるが、これも「侵入罪」を問題にしている。
 それでいいのか。
 敷地に侵入しなければ、それでいいのか。
 法律上はそうなのかもしれないが、納得できない。
 毎日新聞も、読売新聞も、いま起きていることを、過去の「事例」からだけで判断している。報道とはそういうものかもしれないが、とても気になる。

 毎日新聞の記事の後段に、

 県警は「個別の事案について、特定の人物の動向を把握するためにカメラを設置した。対象者が誰かは言えない。不特定多数を対象にしていたわけではない」と説明。

 とある。読売新聞も同様のことを書き、少し補足している。

 容疑事案の内容や対象者の人数などについては明らかにしていない。

 読売新聞の書き方からすると「対象者」が「複数」と見ているのかもしれない。独自取材で、なんらかの「情報」をつかんでいるのかもしれない。
 問題は。
 「個別の事案」「特定の人物」とは何であり、だれなのかわからないことだ。警察が公表していないことだ。捜査上の「秘密」なのだろうが、こういう問題が起きてしまったあとでは、それを伏せたままというのはおかしくないか。
 野党の「支援団体が入居する大分県別府市の建物」に出入りする「人物」とは、「支援団体の人物」だろう。もちろん一般の市民も出入りするだろうが、不特定多数の一般市民のだれかの動向を把握するなら、その人が出入りする場所を確かめて、そこにカメラを設置するのが常識。たとえば私の動向を監視するなら、そんなところにカメラを設置しても意味はない。

 この記事を読みながら思い出すのは、自民党憲法改正草案の第十九条(思想及び良心の自由)第二項である。(第二項は現行憲法にはない。つまり新設条項)

何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 ここに書かれている「情報」とは「思想/良心」に関する情報。それには当然、どの政党を支持するかということが含まれるはず。
 警官が出入り口に立って見張っているなら、そこに出入りする人は警察が見ているということがわかる。見られたくない人(だれを支持しているか知られたくない人)は出入りしないだろう。だれを支持しているかという「情報」を隠すように行動するだろう。
 思想を隠したい(知られたくない)人がいるかもしれないのに、それを無視し、人の行動を「隠しカメラ」によって「情報」として取得するということが、今回おこなわれたのである。
 で、問題の焦点をを「改正草案」に移して、私が言いたいのは。
 「憲法改正草案」では、それをしてはならない人間を「何人も」と書いていることである。「国民は/何人も」してはならない。
 けれど「何人も」には、国家とか、権力とかは含まれていない。捜査機関もきっと含まれていない。
 「憲法改正草案」がそのまま成立してしまえば、こういうことはどんどん起きる。正当化される。国民はしてはいけないと定められているが、国家や警察がしてはいけないとは定めていないからだ。そして、こういうことはただ起きるだけではなく、「理由」が告げられなくなる。
 今回も理由は告げられていないが、「改正草案」下の憲法では、「告げる必要はない」と警察が言うに違いない。「秘密保護法」を楯に、何の説明もしなくなるだろう。

 今回起きたこと、それに対する警察の対応は、「憲法改正草案」の「先取り」なのである。「侵入罪」など、警察は気にしないだろう。今回は、警察は「不適切だった」と「謝罪」することで「決着」をつけようとしているが、今後は謝罪するしなくなるに違いない。
 「先取り」がこわいのは、「先取り」という形で「事実」を積み重ねて行き、国民をならしてしまうことだ。「事実」がどんどん増えてくると、「改正草案」の「新設事項」は「新設事項」ではなく「既成事項」になる。反対するもしないも、もうそのことは「事実」として承認されていることになってしまう。つまり、「争点」にならない。

 安倍と警察は、一緒になって、「改正草案」の「争点潰し」をしているのである。
 そういう視点から、「事件」を見るべきではないのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井晴美『グロッキー』

2016-08-03 13:55:48 | 詩集
藤井晴美『グロッキー』(七月堂、2016年07月20日発行)

 藤井晴美『グロッキー』の後半に「蠅」シリーズがある。どれもおもしろいが、短いものの方が印象的だ。

 音も立てずその物は降り立ったのだ。彼はそれに内破され、新たに吐瀉するため攫われ、昇天するのだ。

 「その物」とはなにか。「彼」とはだれか。「その物」か。それとも別の存在であり、「それ」は「その物」だろうか。
 「降り立つ」という動詞と「昇天する」という動詞は逆の動き。「その物」が「降り立ち」、「彼」が「昇天する」と読むと、「論理的」なようだが、ちょっとおもしろくない。
 「その物」「彼」「それ」が別個の存在でなく、「ひとつの存在」のその瞬間瞬間の「呼び名」ではないだろうか。「降り立つ」ことによって、内部から破壊する(破壊される)。(「内破」ということばを知らないので、私はかってにそう読む。)
 このとき「彼」は「その物」であり、「それ」は「降り立つ」という動詞である。「降り立つ」という動詞が「内部を破壊する」。そして「内部を破壊する」という動詞は、「吐瀉する」という動詞になり、「吐瀉する」という動詞そのものになる。動詞が変化していく。その過程を「攫われる」と言いなおす。動詞が動詞を攫っていくのだ。動詞を動詞のままにしておくのではなく、別の動詞へと攫っていく。そういうことを「昇天する」という。
 うーん。
 この、最初の動詞が最初の動詞のままではいられなくなり、次々に変化していく。そして死んでしまう、というのは、セックスに似ていないか。
 「昇天する」とは「エクスタシー」のことである。実際に「死ぬ」のではないが、ひとはその瞬間「死ぬ」とか「いく(逝く/行く)」と叫ぶ。「死ぬ」というのは「苦しい」ことであるはずなのに、その「苦しい」は「快感」であり、もとめずにはいられない。
 矛盾だが……。
 「降り立つ」と「昇天する」という最初と最後の動詞は矛盾している(反対のもの)であるから、その全ては「矛盾する」という動詞として調和する。

 これでは、なんのことか、わからないか。

 でも、そうに違いないと思う。
 「これでは、なんのことか、わからないか。」と書いたとき、その「わからない」は「全体」の「意味」というか、「結論」が「わからない」ということであり、その「わからない」にいたるまでの一瞬一瞬は「わかる」。一瞬一瞬が「わかる」とは、つまり動詞の一つ一つが「わかる」ということ。しかし、それをつなげて「ひとつ」の「結論」として言おうとすると、「わからない」。
 これは、私の「感想」を振り返ってのことばなのだけれど、それはそのまま、藤井の「蠅」という詩にも通じないだろうか。
 「降り立つ」「内破する(される)」「吐瀉する」「攫う(われる)」「昇天する」。その動詞はすべて「わかる」。けれど、それをつないでまとめようとすると、「意味」がわからない。全体を要約する「意味」が「わからない」。動詞が「意味」にならない。「意味」はどうでもよくて、動詞が変化して、それがつながっているということが大事なのかもしれない。
 動詞を統合するものとして「存在/名詞(蠅)」があるということになるのかもしれないが、その「存在/名詞」は仮のもの、「ほんもの」は「動詞」である。「動詞」しかない、と私は藤井の「蠅」を読みながら思うのだった。「蠅」になりながら、「蠅」をそとから観察するのではなく、「蠅」の肉体になって、「蠅」の動詞を生きる。
 ここに書かれている「動詞」そのものを生きるとき、その私は「蠅」という「名前」になるのだと実感した。

 別の「蠅」。

 今朝も硬い道の上に、新鮮な反吐がまかれている。朝は来た! 反吐は生身だ。大爆発するオモチャの光。ぼくは飛ぶ。硫酸の大海原。

 この作品では「名詞」の方が「強い」。「反吐」があざやかに描かれている。
 けれど、私はやっぱり動詞に魅了される。
 「朝が来た!」の「来た」の絶対的な美しさ。その「絶対」に向き合うのは「生身」という「名詞」なのだが、これが私には「名詞」以上に感じられる。「動詞」に感じられる。
 「生身」が「動詞」とは、どういうことか。
 一番単純なのは、「生身になる」と「なる」を補った形。「反吐」は何かが「生身になったもの」と考えることができる。
 でも、これでは、まだ「弱い」。「朝が来た!」の「来る」のように、ひとの(人間の)感情を越えて動く動詞ではない。絶対的ではない。非情ではない。
 「生身になる」は「身/形」を「生にする」ということである。「生にする」とは「生まれる前にする」ということ。「身になって生まれる」と、そこに「人間」が姿をあらわすのだが、その「身/形」になるまえの、「生(なま)」のものを、そのまま、そこに出現させる。
 「反吐」は「糞」になる前のものが、逆流して、そこにばらまかれたもの。死んで糞になるはずのものが、生き返って、つまり未消化、「生(なま)」のままあらわれてきたもの。そして、そのとき「身」の方は、吐くことで、それを食べる前の状態、「生(なま)」な状態にもどる、と書くと書きすぎたことになるなあ。きっと。
 どう書いていいのかわからないのだが、ここには「生」の「肉体」が生まれてきている。その「生まれる」という「実感」が「生身」という「名詞」なのだ。
 「生まれる」は「爆発する」という動詞と重なる。それは、どこへ行くのかわからないままの、瞬間的な動詞だ。「エクスタシー」だ。これを「飛ぶ」という短い「動詞」に結晶させている。
 「反吐」を吐くときの苦しい「肉体」が、「反吐」を見つけたときの「蠅」の「肉体」の喜びになって飛び回る。

 文体に、不思議な力がある。

 この不思議さは、いったい、どこからきているのか。
 「困難な物語」のなかの、次の部分。

 ぼくは歴史を信じない。そんなものが一体どこにあるというのだろう。今現在が、例えば歴史の先端なのだろうか。本当にそうなのだろうか。それは本当ではない。ぼくはもっと先がすでに存在しているような気がする。

 この「ぼくはもっと先がすでに存在しているような気がする。」というときの「先」を藤井は実感している。そして、その「先」というのは「未来」のことではない。
 たぶん、「生身」ということばにふれたときに書いた「生まれる前」のことだ。だからそれは「歴史」以前でもある。
 世界というのは、「いま」、次々に何かが生まれながら「世界」になっているのだが、そういう「形(身)」になるまえのものから、藤井は「いま/形/身」を見ているのだと思う。
 未生/混沌が藤井には見えるのである。
 遠慮して「気がする」と書いているが、絶対に見えるのだと思う。「信じない」ということばもこの一段落にはあるのだが、「歴史」は「信じない」だろうが、「未生の世界/ものが生まれてくる場」というものを藤井は「信じている」。
 そういう場をとおって、「動詞」を動かしている。
 「未生の場」だから、もちろん「歴史」ではない。そして「未来」でもない。「いま」の「先」としか言えない。「いま」が生まれてくる、その生まれるという動詞こそが「先」の正体であり、それは「肉体」が存在する限りいつでも存在していると藤井は実感しているのだとも思う。
 その「実感の強さ」に、私はいつも飲み込まれてしまう。
夜への予告
藤井晴美
七月堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アマゾンで予約受け付けがはじまりました。

2016-08-03 12:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
アマゾンでの予約がはじまりました。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント: 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
谷内修三
ポエムピース


ポエムピースに直接予約もできます。「送料無料で最速でお送りします〈郵便局で後払い〉」とのこと。
TEL 03-5913−9172 FAX 03-5913-8011。
Amazonでご購入の場合は8月10日以降にAmazon内のポエムピースのショップで買うのが最短での入手方法になるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする