岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』(幻戯書房、2016年07月10日発行)
岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』の「帯び」に
と書いてある。
そういうことを考えながら岡井が読んだということだろう。当然、「結論」は書かれているのだろう。しかし、私は、どうも「結論」というものに興味がないせいなのか、岡井のたどりついた「結論」というものがわからなかった。
読みながらおもしろいなあと感じたのは、「結論」とは無関係なところ、たとえば
そういう「部分」。
「経験」が書いているものに影響するのは当然だけれど、それを「何となく」とぼんやりした形でとらえている。そこがおもしろい。
ひとによっては、そういう「経験」をふりすててて、対象(テキスト)と向き合う、テキストをあくまで歴史のなかでとらえ直す、現代の状況と結びつけてとらえ直すことに専念するのだろうけれど、岡井は「専念」というのとは少し違う。その少し違う部分がとてもおもしろい。
そこには「結論」をめざして、自己を制御する、ことばを統一するというとは違った、「ぶれ」というか、あいまいなものがあり、そこに岡井の「人間性」が出る。
先の引用では「家内と一しょに」がとてもおもしろい。
私はここで、ふと天皇と皇后のことを思い出した。09日に天皇がビデオで「象徴」について語った。そのとき、皇后と一緒に全国を回ったというようなことを語った。そのことと、何か重なる。そうか、一緒に行ったのか。
夫婦で一緒に行こうが、ひとりで行こうが、岡井の読んでいる『沙羅の木』には何の関係もない。ないはずである。「青春の詩歌」展で、どんなことばを読んだか、どんなことばに触れたかは、『沙羅の木』に影響するかもしれないけれど、夫婦で展覧会に行ったからといって、それが影響するはずがない、とは、しかし言えないのである。
この本を読んでいる私は、すでに、そうか夫婦で行ったのか、岡井の文章にはよく夫婦で出かけることが書いてあるなあ、そういうときの気持ちを引きずって読んでいるのだなあ、と思ったりする。そのぼんやりした「印象」が好きである。本を読みながら「ぼんやり」する瞬間が、妙に、こころに残る。
随所に出てくる短い感想(?)も、とてもおもしろい。こういう感想の方が「結論」よりも重要に思える。「結論」のために、「論理」として整えるという圧力がかかっていない。たとえば、
そこに自然な「正直」が出ていると思う。それは「家内と一しょに」を挟んでしまう正直に似ている。
あ、岡井は「人を驚かすことが好き」なのかもしれないなあ、そうか、岡井も「やけになれ」と自分に言い聞かせたことがあるのかもしれないなあ、と思うのである。
それは最初に引用した「文学的結論」とは無縁の、もうひとつの「結論」であると思う。「文学」ではなく「人間」が無意識に触れる「結論」。
そういうものに触れるのは、やっぱり「文学」の喜びだなあ。その本が「現代」にとってどういう意味があるとか、歴史的に見るとどういう位置づけにあるとかは関係がない。他人がどう評価するかは関係がない。そこに書かれていることばを「架け橋」にして、ことばの向こう側の人に触れる。このときの「触れる」は読む人の(私の)一方的な勘違い(誤読)かもしれないけれどね。
というのような部分を読むと、その鴎外を「岡井」と入れ換えたくなる感じ。あ、私は、「岡井の恋愛」の実際を知らないのだけれど、ちらちらと噂で聞いただけなのだけれど。
最後に、岡井の書いている鴎外の詩への感想と、私が感じた鴎外の詩への感想を並べてみたい。デエルメの「夜の祈」を訳したもの。(ルビは一か所をのぞいて省略)
岡井は、こう書いている。
私は、ちょっとびっくりした。「母親が、眠ろうとする幼児に与えるような「口附」」とは少しも思わなかった。
私はこの詩では「汝が唇の我胸よりさそひ出す息に滅ゆるまで。」の「まで」がとても印象に残った。直前のと密着している。「限」は「限界」であり、その前に動詞がつくと、そこに「時間」があらわれる。「限界まで」たどりつくのにかかる「時間」。それはとても「長い」かもしれないが、この「長い」は充実していると「短い」になるという矛盾した「時間」である。そういう「時間」を感じてしまう。
岡井は、さきの鑑賞の前に「わたしは床に就いてすぐに眠ってしまうことが多いし、昼寝や宵寝の習慣はは、八十代に入ってから特にふえている。」と書いている。実は私も目をつむれば十秒もかからずに眠ってしまうし、昼寝もする人間なので、なおのこと、この「まで」にこめられた「長さ/強さ/充実」が気になって、岡井のように読むことができない。
「眠り(夜)」の「息」の交換、口づけ、となれば、これは「眠りとのセックス」ではないのか。充実したセックスのあとの忘我の眠りなのではないのか。
「滅(き)ゆる」を岡井は「滅(け)してしまう」と読んでいるが、「消える」と「消す」は自動詞と他動詞の違いがある。私は自動詞として読み続けたい。
「息に滅ゆる」と「息が滅える」(息が消える)は違うかもしれない。けれど喜びや悲しみが息のなかでひとつになっているなら、「喜びが息に消える」は「息が喜びとなってきえる」と読み変えることもできるだろう。そして「息が消える」と読めば、それは「死ぬ」。「死ぬ」(行く/逝く)はセックスをするときの万国の「忘我/エクスタシー」のことば。
喜びも悲しみも区別がなくなり、忘我になる、そうして消えてしまう「まで」、口づけを交わしたい、口づけを交わしながら、忘我のうちに眠りたい、と私は読んでしまうのである。「誤読」してしまうのである。
「覆の衣」とか「黒髪」とか、「垂れよ」「巻け」という命令形(?)なんかも、母というより「おんな」「セックス」を想像させる。
そうか、人によって、詩はこんなんに違った風に読まれるのか(もちろん、私の方が間違っているのだろうけれど)、と思うと、とても楽しい。
追加。
岡井は「あとがき」で
と書いている。私は、岡井がこの本で展開しているような「一篇一篇読んでいく」というのが好きである。「一冊読んで、代表作を選出し、それを中心に、その詩歌集を評論する」というのは、何か「結論」にしばられているというか、結論に向けてことばを整えてしまう感じがして、窮屈である。
結論よりも、私は、ことばが動く瞬間の方が好きなのかもしれない、とこの本を読みながら思った。ことばが動くというのは、著者のことばの動きであると同時に、読んでいる私のことばが動き出すということ。たとえば、「夜の祈」を読みながら、岡井の鑑賞を読みながら、私のことばが動き出し、書かずにはいられなくなる。「誤読」であるなら、なお、それを書いておきたいという気持ちになる。「正解」はいつでも存在する。「永遠」になる。しかし「間違い」は、その瞬間にしか存在しない。なんらかの「理由」があって、その瞬間に噴出してきたものだと私は信じている。
岡井隆『森鴎外の『沙羅の木』を読む日』の「帯び」に
今の時代の自分たちにとって、この詩歌集は、どのような印象なのか。おもしろいのか、古めかしいのか、まるで問題にならない変な本なのか、それともたい大そう示唆的な本名のか。
と書いてある。
そういうことを考えながら岡井が読んだということだろう。当然、「結論」は書かれているのだろう。しかし、私は、どうも「結論」というものに興味がないせいなのか、岡井のたどりついた「結論」というものがわからなかった。
読みながらおもしろいなあと感じたのは、「結論」とは無関係なところ、たとえば
この連載も、月の半ばに、数時間を費やして一気に書いていたころと違って、今回のように毎日数枚ずつ書くことになると、大分様子が違ってくる。なにしろ、昨日と今日の間に、たとえば、今日だと、昨日の午後、家内と一しょに、日本近代文学館へ行き、「青春の詩歌」展を見て来たことが、何となく経験として挟まれている。
そういう「部分」。
「経験」が書いているものに影響するのは当然だけれど、それを「何となく」とぼんやりした形でとらえている。そこがおもしろい。
ひとによっては、そういう「経験」をふりすててて、対象(テキスト)と向き合う、テキストをあくまで歴史のなかでとらえ直す、現代の状況と結びつけてとらえ直すことに専念するのだろうけれど、岡井は「専念」というのとは少し違う。その少し違う部分がとてもおもしろい。
そこには「結論」をめざして、自己を制御する、ことばを統一するというとは違った、「ぶれ」というか、あいまいなものがあり、そこに岡井の「人間性」が出る。
先の引用では「家内と一しょに」がとてもおもしろい。
私はここで、ふと天皇と皇后のことを思い出した。09日に天皇がビデオで「象徴」について語った。そのとき、皇后と一緒に全国を回ったというようなことを語った。そのことと、何か重なる。そうか、一緒に行ったのか。
夫婦で一緒に行こうが、ひとりで行こうが、岡井の読んでいる『沙羅の木』には何の関係もない。ないはずである。「青春の詩歌」展で、どんなことばを読んだか、どんなことばに触れたかは、『沙羅の木』に影響するかもしれないけれど、夫婦で展覧会に行ったからといって、それが影響するはずがない、とは、しかし言えないのである。
この本を読んでいる私は、すでに、そうか夫婦で行ったのか、岡井の文章にはよく夫婦で出かけることが書いてあるなあ、そういうときの気持ちを引きずって読んでいるのだなあ、と思ったりする。そのぼんやりした「印象」が好きである。本を読みながら「ぼんやり」する瞬間が、妙に、こころに残る。
随所に出てくる短い感想(?)も、とてもおもしろい。こういう感想の方が「結論」よりも重要に思える。「結論」のために、「論理」として整えるという圧力がかかっていない。たとえば、
鴎外は、人を驚かすことの好きな人である。 ( 136ページ)
そのころの鴎外は、「やけになれ。」と訳したい気分でいたとも考えられる。
( 218ページ)
そこに自然な「正直」が出ていると思う。それは「家内と一しょに」を挟んでしまう正直に似ている。
あ、岡井は「人を驚かすことが好き」なのかもしれないなあ、そうか、岡井も「やけになれ」と自分に言い聞かせたことがあるのかもしれないなあ、と思うのである。
それは最初に引用した「文学的結論」とは無縁の、もうひとつの「結論」であると思う。「文学」ではなく「人間」が無意識に触れる「結論」。
そういうものに触れるのは、やっぱり「文学」の喜びだなあ。その本が「現代」にとってどういう意味があるとか、歴史的に見るとどういう位置づけにあるとかは関係がない。他人がどう評価するかは関係がない。そこに書かれていることばを「架け橋」にして、ことばの向こう側の人に触れる。このときの「触れる」は読む人の(私の)一方的な勘違い(誤読)かもしれないけれどね。
あのデエメルの詩「鎖」の背後に、こうしたデエメルの恋愛遍歴があったと知る。鴎外はそうしたところまで含んで、デエメルが好きだったのであり、デエメルの生き方に共感するところがあったのだろう。 ( 238ページ)
というのような部分を読むと、その鴎外を「岡井」と入れ換えたくなる感じ。あ、私は、「岡井の恋愛」の実際を知らないのだけれど、ちらちらと噂で聞いただけなのだけれど。
最後に、岡井の書いている鴎外の詩への感想と、私が感じた鴎外の詩への感想を並べてみたい。デエルメの「夜の祈」を訳したもの。(ルビは一か所をのぞいて省略)
夜の祈
汝、深き眠よ。
汝が覆の衣を垂れよ。
汝が黒髪を我に巻け。
さて汝が息を我に飲ましめよ。
喜と云ふ喜の限、
悲と云ふ悲の限、
汝が唇の我胸よりさそひ出す息に滅(き)ゆるまで。
さて汝が口附に我を逢わしめよ。
汝、深き眠よ。
岡井は、こう書いている。
「さて、汝(深き眠)の吐く息をわたしに飲ませて下さい。そのあなたの息というのは、すなわち、わたしのすべての喜びを、そしてわたしの悲しみという悲しみのすべてを、わたしの胸からさそい出してそれらをみんな「滅(け)してしまうような、そういうあなたの呼気を、わたしに飲ませて下さい」。そう言っているのだろう。だから四行目の「息」は、七行目の「息」と同じものなのである。八行目の「さて」は、「さてそのうえで」といった間投詞風の除法。「口附」は、ベーゼ、キス、接吻である。しづかな、やすらかな、そっとふれる「口附」で、「深き眠」へとさそいこむような種類のそれ、たとえば、母親が、眠ろうとする幼児に与えるような「口附」である。
私は、ちょっとびっくりした。「母親が、眠ろうとする幼児に与えるような「口附」」とは少しも思わなかった。
私はこの詩では「汝が唇の我胸よりさそひ出す息に滅ゆるまで。」の「まで」がとても印象に残った。直前のと密着している。「限」は「限界」であり、その前に動詞がつくと、そこに「時間」があらわれる。「限界まで」たどりつくのにかかる「時間」。それはとても「長い」かもしれないが、この「長い」は充実していると「短い」になるという矛盾した「時間」である。そういう「時間」を感じてしまう。
岡井は、さきの鑑賞の前に「わたしは床に就いてすぐに眠ってしまうことが多いし、昼寝や宵寝の習慣はは、八十代に入ってから特にふえている。」と書いている。実は私も目をつむれば十秒もかからずに眠ってしまうし、昼寝もする人間なので、なおのこと、この「まで」にこめられた「長さ/強さ/充実」が気になって、岡井のように読むことができない。
「眠り(夜)」の「息」の交換、口づけ、となれば、これは「眠りとのセックス」ではないのか。充実したセックスのあとの忘我の眠りなのではないのか。
「滅(き)ゆる」を岡井は「滅(け)してしまう」と読んでいるが、「消える」と「消す」は自動詞と他動詞の違いがある。私は自動詞として読み続けたい。
「息に滅ゆる」と「息が滅える」(息が消える)は違うかもしれない。けれど喜びや悲しみが息のなかでひとつになっているなら、「喜びが息に消える」は「息が喜びとなってきえる」と読み変えることもできるだろう。そして「息が消える」と読めば、それは「死ぬ」。「死ぬ」(行く/逝く)はセックスをするときの万国の「忘我/エクスタシー」のことば。
喜びも悲しみも区別がなくなり、忘我になる、そうして消えてしまう「まで」、口づけを交わしたい、口づけを交わしながら、忘我のうちに眠りたい、と私は読んでしまうのである。「誤読」してしまうのである。
「覆の衣」とか「黒髪」とか、「垂れよ」「巻け」という命令形(?)なんかも、母というより「おんな」「セックス」を想像させる。
そうか、人によって、詩はこんなんに違った風に読まれるのか(もちろん、私の方が間違っているのだろうけれど)、と思うと、とても楽しい。
追加。
岡井は「あとがき」で
このように一篇一篇読んでいくのが、詩歌集を論ずるのに一番よい方法かどうかはわからない。一冊読んで、代表作を選出し、それを中心に、その詩歌集を評論する方法もある。そのとき、時代背景とか、作者の年譜を参考にしながら読むやり方も、一般的によく見られるところだ。
と書いている。私は、岡井がこの本で展開しているような「一篇一篇読んでいく」というのが好きである。「一冊読んで、代表作を選出し、それを中心に、その詩歌集を評論する」というのは、何か「結論」にしばられているというか、結論に向けてことばを整えてしまう感じがして、窮屈である。
結論よりも、私は、ことばが動く瞬間の方が好きなのかもしれない、とこの本を読みながら思った。ことばが動くというのは、著者のことばの動きであると同時に、読んでいる私のことばが動き出すということ。たとえば、「夜の祈」を読みながら、岡井の鑑賞を読みながら、私のことばが動き出し、書かずにはいられなくなる。「誤読」であるなら、なお、それを書いておきたいという気持ちになる。「正解」はいつでも存在する。「永遠」になる。しかし「間違い」は、その瞬間にしか存在しない。なんらかの「理由」があって、その瞬間に噴出してきたものだと私は信じている。
森鷗外の『沙羅の木』を読む日 | |
クリエーター情報なし | |
幻戯書房 |