詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ノア・バームバック監督「ヤング・アダルト・ニューヨーク」(★★★★)

2016-08-15 08:58:07 | 映画
監督 ノア・バームバック 出演 ベン・スティラー、ナオミ・ワッツ、アダム・ドライバー、アマンダ・セイフライド

 うまい映画だなあ。
 40代のベン・スティラー、ナオミ・ワッツ、20代のアダム・ドライバー、アマンダ・セイフライドの交流(?)を描いている。情報量が非常に多いのにうるさくない。ひとつひとつのシーンが短くてぱっと切り替わる。しかも、切り取られたそのひとつひとつのシーンが、その背後にきちんと時間をかかえているということがわかる。映像の質がとても充実している。
 映画は、「ドキュメンタリー」をキーワードにしているのだが、まるでドキュメンタリーそのものを見ている感じ。そうか、いま、ニューヨークの40代と20代はこんなふうに生きているのか。
 こんなふうに、というのは40代は、大人になろうと必死にあがいている。40代だからもちろん大人なのだが、安定した「地位」がなく、大人という実感が持てない。アメリカン・ドリームの国なので、ドリームを実現しないことには大人ではない、成功しなければ大人ではない、ということなのか。子供を産み、父親・母親になるにも、もうそろそろ限界が近い。で、妙にいらいらしている。
 一方20代はアメリカン・ドリームなど知らない、という感じ。レトロな趣味を生きている。CDは聞かずにレコードを聴く、という感じ。インドの瞑想(?)に身を任せたりもしている。
 本当は、野望をもっていて、その野望の実現のためには40代の二人よりも、もっともっと「現実的」な方法をとる。「根回し」というか、「下工作」だね。40代のふたり(特にベン・スティラー)が「自尊心」のために「下工作」できないのと対照的だ。20代のふたりは(とくにアダム・ドライバー)は40代の男が「自尊心」を捨てられないということを熟知していて、それを利用する。そういう「ずるさ」を身につけている。
 でね。
 これからが、感想を書くにもちょっとむずかしい。
 この20代の「ずるさ」が、妙に生々しいというか、人間的なのだ。成功するためにコツコツ努力する。「信念」をつらぬくなんていうことは、しないのだ。「信念」にこだわっていては40代の男のように、結局、つまずく。そうわかっているので、最初から「信念」を放棄する。
 この、なんというか、若者ではなくなった年代から見ると「いやな男」をアダム・ドライバーが「ぬめっ」とした感じで演じている。自分の「信念」ではなく、自分が「他人にどう見られているか」ということを生き方の基本にしている。それで「世間」をわたってしまう。
 60代の男(40代の男が「手本」にした男)は、40代の男(信念の継承者)の生き方を無視して、20代の男の生き方を支持するのである。そういう「支持」を取り込むことを20代の男は、できるのである。
 この部分(ナオミ・ワッツの父親の受賞パーティー?)が、かなり、ぞくっとする。
 最後の、こんどは0代の赤ん坊が、スマホで遊んでいるのを見て、「養子」を引き取ることにした40代のふたりが見て、そこにまた「新しい年代」を発見し、わっ、どうなるのだろうという表情を見せるところも、ぞくっとするねえ。
 そうか、「時代」というのは、こんな風に動いていくのか。
                      (KBCシネマ2、2016年08月14日)





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自民党憲法改正草案を読む/番外7(天皇の「お言葉」再読)

2016-08-15 00:49:41 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外7(天皇の「お言葉」再読)

 前回、天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」について、よくわからない部分があると書いた。
 その部分を引用すると、

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 これについて、私は、天皇が個人的な体験を語った前段に比較すると「微妙である」と書いた。「不透明」なのものを感じる。「個人的」であることによって生まれることばの美しさに欠けている、と書いた。
 「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」とは、何を言いたいのだろう。
 このことについて、2016年08月10日の読売新聞朝刊(西部版・14版)は「象徴天皇 おお言葉の背景 上」で、興味深いことを書いている。
 読売新聞は、私が引用した文に先立つ、

既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 ここに注目している。
 「幸いに健康であるとは申せ」というのは最初の文案にはなく、ビデオ放送前日に加筆されたものだという。そして、この一文から、「首相官邸の関係者」は「摂政は望まない」という天皇の強い意思を感じ取ったという。そのうえで、この関係者は「これで摂政を前提とした検討はできなくなった」と感じ、退位を前提とした法整備しかないと覚悟を決めた、という。
 えっ?
 「幸いに健康であるとは申せ」が、なぜ「摂政を望まない」になるのか、私にはわからない。
 わからないまま読んだのだが、読売新聞は、先の部分を次のように補足している。

 関係者によると、陛下の退位の意向については昨年から、宮内庁と官邸側が、水面下でやりとりしてきた。官邸側は「摂政ではダメなのか」と何度も確かめたが、同庁側は「ダメです」とかたくなだった。天皇自身が国民とのふれあいを積み重ねていくことが象徴天皇の務めという陛下の考えと、摂政という制度はそぐわないためだ。

 でも、この「補足」では、やっぱり何のことかわからない。
 わかるのは、宮内庁と官邸側のあいだで、「退位」をめぐってやりとりがあったということだけである。 
 「幸いに健康であるとは申せ」ということが、なぜ「摂政否定」につながるのか、わからない。

 こういったときは、もう一度、天皇のことばを読んでみる。先の部分は三つの文章から成り立っている。

(1)天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。
(2)また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
(3)しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 (1)の「思われます」は天皇が思ったこと、天皇自身の「思い」。
 (2)は、同じように天皇の考えか。官邸側が「摂政ではダメなのか」と問い合わせているということを手がかりにすれば、「ダメ」という天皇の考えのように思える。しかし、ここには「ダメ」ということばがない。「ダメ」という要素があるとすれば、それは(3)である。
 では、(2)の「考え」はだれのもの?
 読売新聞は「皇室典範第16条第2項」を引用している。
 「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」
 これは天皇の「考えられます」とぴたりと重なる。
 つまり、天皇は、ここで官邸側から「摂政ではダメなのか」という問い合わせがあったということを語っているのである。
 今回のことば、特にこの部分は、天皇の完全な自発的なものではなく、官邸とのやりとりがあって、生まれたものであると、国民に語っているである。
 天皇は「国政」に口をはさめない。政治的発言をできない。けれど、政治的な働きかけがあったとここで語っている。
 そのうえで(3)は、摂政を置いたとしても、象徴天皇は象徴天皇である。「生涯の終わりに至るまで」(死ぬまで)天皇だから、摂政ではなく、「生前退位」により、皇太子に「天皇」を継承するという形にする必要がある、と言っている。この(3)には「思う」という動詞も「考える」という動詞もない。
 「断定」である。 
 「幸いに健康であるとは申せ」は、健康な今のうちにという強い思いということか。これも安倍官邸とのう交渉(圧力)ゆえに、そう言ったことにはならないだろうか。
 で。
 私は、実は、ちょっと興奮したのである。
 天皇が「生前退位」を言い出したことについて、いろいろ言われている。
 そのなかに「これは天皇が、安倍改憲を阻止するための抵抗だ」という説がある。私はなかなかその説を信じるわけには行かないのだけれど、たしかにありうるかもしれないとも思った。
 それは、先の(2)の部分、「考えられます」が一般的に「考えられます」、「皇室典範にのっとれば、そう考えられます」であると同時に、官邸側は「皇室典範にのっとって、そう考えています」なのだ。「考える」の「主語」は「官邸側」なのである。天皇でも、宮内庁でもない。
 それを「考えられます」という「動詞」をつかって、天皇は明確にしている。
 そのうえで、最後に、

これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
 国民の理解を得られることを、切に願っています。

 と、「国民」に訴えたのだ。
 これは安倍への抵抗と同時に、国民への「呼びかけ」かもしれない。
 もし「呼びかけ」だとすれば、それは天皇がそれだけ強く官邸側からの「圧力」を感じているということかもしれない。安倍への「抵抗」というよりも、「悲鳴」かもしれない。
 どちらかはわからないが、少なくとも、天皇は、官邸側から「摂政ではダメなのか」という問いかけがあったことを、先の「ことば」で明確にしていることだけはたしかである。もし、そういう問いかけ、接触がなかったら(2)の「考えられます」は違った形で書かれたに違いない。
 文章が「ぎくしゃく」しているのは、そういう「交渉」を伝えるために工夫しているからだ。官邸側からの「検閲」をくぐりぬけて、何かを言おうとしているからだ。
 「ぎくしゃく」と私が感じたのは、そういう「経緯」を最初はつかみきれなかったからだ。「思われます」「考えられます」という動詞の「主語」を「天皇」と思い、「天皇」が「思う」「考える」と読んだために、奇妙に感じたのだ。「天皇」が「思い」、「安倍官邸」が「考える」、その両者の違いを明確にした上で「死ぬまで天皇である」と「天皇」の「気持ち」を「思う」「考える」という「動詞」を省いて言っている。
 しかも、その表現が「検閲」にひっかからないように、「安倍官邸」という「主語」を省略し、あたかも「天皇」が「考える」とも受け取れるように配慮しているからなのだ。
 読売新聞の記事を読み、私は、そう感じた。
 でも、なぜ、読売新聞は(あるいは、官邸の関係者は)、「幸いにも幸福ではあると申せ」にこだわったのだろう。そこから「論理」を展開したのだろう。ここにも、書かれていない「交渉/圧力」が隠されているかもしれない。これは、憶測だが、「まだ80歳を超えたところ、まだ健康なのだから生前退位の問題は、もう少しあとでもいいのではないか」と関係側が言ったのかもしれない。「もう少しあと」というのは、つまり憲法改正のあとである。
 これに対して、天皇側は「憲法改正よりも生前退位問題の方が先」と主張した。
 そういう「経緯」があるなら、たしかに、天皇は安倍に対して「抵抗」している。
 私がもうひとつ「ぎくしゃく」と感じたのは、天皇が最初の方で「私も八十を越え」「既に八十を越え」と二回言っていることである。わざわざ二回言っているのは、さらにそれに「幸いにも幸福ではあると申せ」と付け加えているのは、たしかに「強い意思」のあらわれかもしれない。




 今後、天皇のことばを受けて、政治はどう動くのか。「生前退位」へ向けて(1)皇室典範を改正する、(2)特別立法で対処する、(3)憲法まで一気に変えてしまう、という三つの方法が、様々なところで語られている。
 私は(3)になるのではないか、と恐れている。
 そのことと関連して、「文藝春秋」2016年09月号で、不気味な記事を読んだ。赤坂太郎の「安倍が狙うもう一つの「同日選」」。なんと、衆院選と憲法改正の国民投票の「同日選」を狙っているというのである。その方が改憲の実現も与党勝利の可能性も高まると言う。
 ひとつひとつのことをじっくりと考えさせない作戦である。
 参院選のテレビ放送を少なくするという作戦を考えた人物が、どこかで指揮をしているのだろうか。
 とても気になる。

 もうひとつ。
 籾井NHKが今回の報道の口火を切ったのだが、このスクープに対して籾井はどう反応したのか。
 私は、それが気になって仕方がない。
 もし、今回の天皇のことばが、安倍の狙っている改憲を阻止するための「抵抗」だとすれば、(読売新聞が宮内庁と官邸側のやりとりを把握しているのだから、籾井NHKも当然把握しているだろう。官邸側が動いているのだから、それが安倍から籾井につたわならいと考えるのはむずかしい)、籾井はなぜ、そういう報道を許したのか。安倍への天皇の「抵抗」という「解説」が出回るようなことを許したのか。
 想定できなかったのか。
 想定したが、その想定は取るに足りないと判断したのか。つまり、逆に利用できると読んだのか。

 きょうは終戦の日。天皇の追悼のことばは、どうなるか。
 聞いてしまうと、考えたことが変わってしまうかもしれない。そう思って、とりあえず、いま思っていることを書いてみた。



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