詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外12(沖縄県公安委資料)

2016-08-27 12:53:35 | 自民党憲法改正草案を読む
 フェイスブックの「気になることを動画で伝える」https://www.facebook.com/gomizeromirai/
で、以下の記事を読んだ。(2016年08月26日)

沖縄県公安委資料 高江ヘリパッド反対市民を「犯罪勢力」
2016年8 月25日 18 時42分
琉球朝日放送 http://www.qab.co.jp/news/2016082582945.html

県公安委資料 反対市民を「犯罪勢力」

県公安委員会が高江で反対する市民について「犯罪勢力」と表現していたことがわかりました。これは沖縄平和市民連絡会が県公安委員会に情報公開請求を行い明らかになりました。

文書では警視庁と5つの県警から派遣されている警察官の人数や派遣期間が非開示として黒塗りにされていました。その理由として
「犯罪を敢行しようとする勢力がこれに応じた措置をとり警備実施に支障を及ぼす恐れがある」などと書かれていました。
(略)
また文書からは今回の機動隊の派遣について、公安委員会の会議すら開かれず、沖縄県警が正式に要請する前日に警察庁が根回ししていたこともわかっていて、改めて政府の強行姿勢が浮き彫りになっています。


 高江ヘリパッド反対市民を「犯罪を敢行しようとする勢力」と呼んでいる。「敢行しようとしている」というのは「まだ敢行されていない」ということである。したがって、反対市民は、この段階では「犯罪者」ではない。それなのに、機動隊は市民を排除しようとしている。
 高江ヘリパッド反対市民は実際にはどんな行動をとっているか。私は現地で確認したわけではないのだが、ヘリパッド予定地の近くにあつまり「反対」と叫んでいる、強行に工事をしようとすることに対して身をていして阻止しているのではないだろうか。
 「同じ考えを持っている人間が集まって行動する」を「集会」と考えることができる。こういうことに対して、現行憲法と自民党の憲法改正草案はどんなふうにとらえているだろうか。

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
(改正草案)
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 改正草案の「第二十一条第二項」に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い」という文言がある。(第二項は、現行憲法にはない。)
 高江ヘリパッド反対市民の反対行動は「公益及び公の秩序を害する」ととらえられているのだろう。しかし、実際には「犯罪」になっていないい。「害する」でも「がいした」でもなく、「害しようとしている」という「予想」である。「予想」に基づき、機動隊が活動している。ここに、問題なひとつがある。
 そして、もうひとつの問題。このときの「公益」「公の秩序」とは具体的にはどういうものか。高江の住民の利益は、そこに含まれているか。高江の住民の利益、秩序を含んでいないのではないか。自分たちの利益、秩序にがっちするのなら、住民は「反対」しない。合致しないからこそ「反対」と言っている。とすると、このときの「公益」とか「公の秩序」というのは、高江住民以外の「利益」「秩序」を指していることになる。
 さらに、「今回の機動隊の派遣について、公安委員会の会議すら開かれず、沖縄県警が正式に要請する前日に警察庁が根回ししていた」ものであるなら、それは沖縄の利益、沖縄の秩序とも無関係である。
 「国の利益/安倍の利益」「国の秩序/安倍の理想とする秩序」のために、「警察庁」がやったことであり、そこには安倍(政府)の意向が働いているということになる。

 現行憲法の「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」は何度も書いたが、「思想及び良心の自由(について)は、(国は)これを侵してはならない。」という意味であり、「国に対して禁止」を申し渡している。そして、もし国がそういうことをするなら、「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」というのである。これをかみ砕いて言うと、「国がさまざまな思想に関する自由を侵害するならば、憲法は、国民を保障する(守る)後ろ楯となる。国に対して、そういうことをしてはいけない(禁止する)と言い渡す」ということなのだ。
 これに対して、改正草案の方は、国に対してどのようなことも「禁止」していない。逆に「公益及び公の秩序を害する」という文言を挿入することで、国民に対して「公益及び公の秩序を害することをしてはいけない」と、禁止している。国民を拘束している。
 したがって、改正草案の「第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。」も、「公益及び公の秩序を害しない(政府が理想とする)思想及び良心の自由は、(国が)保証する(守る)。」ということなのだ。
 国は高江にヘリパッドをつくろうとしている。そのとき、国の意向にそう「思想」ならば、それを保障する(守る/助ける)。言い換えると、高江にヘリパッドをつくるならば、沖縄の振興策を助ける。沖縄県民の経済を守る。しかし、そうでないなら、新興予算を減らす、沖縄の経済を守るようなことはしない。
 これは、「アメとムチ」のように非難されるけれど、自民党の憲法改正草案に従えば、当然のことなのだ。安倍は改正草案を先取りする形で「実施」しているのだ。「現実」には改正草案にしたがって行動している。現行憲法を無視して行動していることになる。

 いまは、高江だけで起きているようにみえることが、これから次々と全国に広がる。安倍の政策に対して批判する人間は「犯罪者」は定義され、拘束される。自由を奪われる。そのとき必ず「公益及び公の秩序」ということばが持ち出される。
 この「公益及び公の秩序」は改正草案では第十二条に最初に登場し、第十三条で繰り返されている。
 現行憲法と比較してみる。

(現行憲法)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 現行憲法で、国民に禁止されているのは「これ(自由及び権利)を濫用してはならない」ということだけだが、これは乱用すると「公共の福祉」と相いれないときがあるからだ。「公共の福祉」とは「国民みんなの福祉」であって「国の福祉」ではない。「国の福祉」ということばなど、ない。「公共の福祉」は「生きている人間の福祉」と言い換えることができる。
 これに対して改正草案では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と「生きている人間(ひとりひとりの人間のあつまり)」よりも「公益及び公の秩序」という「個人」とは関係のないものが優先される。個人が無視され、「国の利益/国の秩序」が優先される。「ひとりひとりの利益」という言い方はできても「ひとりひとりの秩序」とは言わないから、改正草案が「公益/公の秩序」というときは「個人」ではなく「国」が想定されていて、「国」というかわりに「公」ということばがつかわれている。「国」と言ってしまうと「政権」とか「首相」ということばと強く結びつきすぎるために、「公」とごまかしているのである。(わかりにくいようにしているのである。)
 この「個人」の軽視が、そのまま第十三条に引き継がれ、現行憲法では「個人」と表現されていた国民が、「人」という抽象的な存在になってしまう。ひとりひとりではなく、「人」という概念になる。様々な個人の存在、つまり多様性は否定される。多様性は「多数決」によって否定される。そして、そこにふたたび「公益及び公の秩序に反しない限り」で尊重されるということばが出てくる。これは「国の利益/国の秩序」に反するなら、その人間を尊重しないということである。
 これは、いま、高江で起きていることである。ヘリパッド反対と叫んでいる人たちは「個人」として尊重されていない。「もの」のように機動隊によって取り扱われている。
 これは、すべて自民党憲法改正草案の先取り実施なのだ。

*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」

2016-08-27 10:27:48 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 岡島弘子「ハエの皮膚呼吸」はタイトルが魅力的だ。なんだか、わからない。わからないから、ちょっと身構える。その瞬間に、ことばが新しくなるのかもしれない。タイトルは重要だ。

先生を好きになっても装うことを知らず
受け持ちの理科と数学を勉強した
クラブ活動は先生の顧問の化学部に友達を誘って入部
女子は二人だけだった
先生の指導の下アミノ酸しょうゆやクリームをつくった
実験をおえて帰る家路はあたたかい闇

 中学時代(?)の思い出が、散文のリズムで語られる。このときのつかず、離れず、という感じがおもしろい。思い出すことはいろいろあるのだろうけれど、そこにのめりこまずに、一行目から五行目まで、淡々とことばを動かしている。そのあとの、「実験をおえて帰る家路はあたたかい闇」の「あたたかい」がほーっと思う。誘い込まれる。誰かを好きになって、そのために夢中になって、何かをやっている。そのときの「体温」の上昇。外に出ると、その「体温」のために、ふつうは空気が「冷たく」感じる。でも、岡島は逆に「あたたかい」と書く。あ、そうなのか。好きになって、何かをしていたときの「体温」が一瞬にして外に広がり、外の空気の温度を上昇させるのだ。それほど「夢中」になっていたのだ。
 ここで、私は、岡島のことばにのめりこんでしまう。つまり、岡島になってしまう。

夏でも朝は肌寒い
天井にはこごえたハエがじっとしている
ジャムの空きビンに水を入れビンの口でおおうとポトポト残らず落ちてきた
観察すると 水中のハエの体にびっしりと泡がついている
皮膚呼吸しているのだろうか

「ハエの皮膚呼吸」と題した自由研究が選ばれ
発表会に出品されることになった

 ふーん、ここからタイトルがとられているか、と思うと同時に、うーん、とうなってしまう。私は、「岡島」になってしまっているので、「水中のハエの体にびっしりと泡がついている/皮膚呼吸しているのだろうか」とハエを観察する岡島に、「実験をおえて帰る家路はあたたかい闇」の「あたたかい」を感じた「皮膚感覚」を重ねてしまうのだ。あ、いま「岡島」は「ハエ」になって自分を観察し直している、と感じてしまうのだ。「あたたかい闇」と感じたとき、岡島(私)は、闇を「皮膚呼吸」していたのだ。皮膚で闇を吸い込み、皮膚から吐き出す。そうすると体の中の熱が闇をあたため、あたたかくする。そのあたたかい闇をまた岡島は皮膚呼吸して体のなかに取り入れる。

発表会の会場の学校まで先生の自転車のうしろにのせてもらって出発する日
「うらやましい」といいながらクラスの女子全員が見送りに来た
あこがれの先生が目当てだったのだ

 ここには「皮膚感覚」は出てこない、ようにみえる。しかし、やっぱり「皮膚感覚」があるなあ。自転車のうしろに乗る。そのとき、自転車から落ちないように先生の体にしがみついていないといけない。「皮膚」が直接触れ合うわけではないが、好きな先生の体に手をまわすのだから、それは「皮膚」がふれるのと同じ。直接触れないだけに、よけいに、もっと触れている感じがするかもしれない。

「ブドウが実っているね」 話しかけてくる先生に私は黙っていた
真っ赤になって固まっていたのだ
息もできず ハエのように皮膚呼吸していた
「どうしたの」とふりかえる先生

 「皮膚呼吸」がハエと一緒に、もう一度出てくる。「ハエのように」という直喩は「ハエ」にひきずられてしまうが、「皮膚呼吸する」という「動詞」が、ほんとうの「比喩」。実際に人間が皮膚呼吸するわけではないから、この「皮膚呼吸する」が、見逃してはいけない「比喩」なのだ。いまあることば(日常のことば)では伝えることのできない「ほんとう/正直」があふれている。
 このことばは、繰り返しになるが、一連目の「あたたかい闇」の「あたたかい」から始まっている。
 「息もできず ハエのように皮膚呼吸していた」岡島は、何を感じていたか。先生の「あたたかい」体温を皮膚で感じていたのだ。皮膚が岡島の体温を吐き出し、皮膚が吐き出した体温にそまった空気を吸う。そこには先生の体温もまじっている。
 私は、女子中学生になって、なんだか、どきどきしてしまうのだった。

 このあと、詩は(あるいは、岡島と先生は、と言ってしまった方がいいのかもしれないが)、どうなるのだろう。

おもいきって
友達を誘って先生の家をたずねた
美しい奥さまに迎えられ めずらしいお菓子をごちそうになった
先生はるすだった

若葉が光に痛む 青く固いブドウのまま
卒業式を迎えてしまった

 「好き」とも言えずに終わってしまった初恋。しずかに閉じられる詩だが、遠い日の「皮膚呼吸/皮膚感覚」が、まだ初恋をおぼえている。「皮膚」ということばといっしょに、生きている。

ほしくび
岡島 弘子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする