八木幹夫「声のない木」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)
八木幹夫「声のない木」も「声」をテーマにしている。「声」が出しにくい、自分の思いを「声」にすることが困難な時代なのか。
八木だけの「木」。それは「木」ということばでは表せない。「木」について語りたいという思いがあふれてくる。だが、どう語っていいかわからない。「木」と言ってしまうと違うということだけがわかる。そのために、ことばにならない。
そういうことだろうか。
この苦しみは、さらにこんなふうに言いなおされる。
そして、「すでに言葉が「木」に貼りついて/剥がすことができない」、他人のことばが「木」を占領してしまっている(?)ということに気づき、そうことばにすることができたときに、ふっと八木は解放される。
最初に「木」を発見したときの、少年の記憶を取り戻す。
この「ひらがな」で書かれた二連が、とてもうつくしい。
八木の詩は、このあともつづいていて、前半部分を反対側からというか、この「みずうみにきがたちあがる」という部分から言いなおしている。それを読むと、八木のいいたいことは、とてもよくわかる。(わかった気持ちになる。)
そして、とてもよくわかる、「意味」が納得できるのだけれど。
不思議なことに、それでは、その「結論」のようなものを読み返すか、というと、そうではない。
私は、何度も何度も、「ひらがな」の二連を読み返す。ここがいいなあ。他の部分は、この二連のためにあるのだなあ、と思ってしまう。
「意味」は後半に書かれているのだが、「意味」にはなっていない「イメージ」の方に引きつけられてしまう。
詩は不思議なものだなあ、と思う。
八木幹夫「声のない木」も「声」をテーマにしている。「声」が出しにくい、自分の思いを「声」にすることが困難な時代なのか。
目の前になる木が
木であることを
声に出して言えない
遅れてやってくるものが
目の前の木を表そうとしない
発語の
ことばが出てこないのだ
八木だけの「木」。それは「木」ということばでは表せない。「木」について語りたいという思いがあふれてくる。だが、どう語っていいかわからない。「木」と言ってしまうと違うということだけがわかる。そのために、ことばにならない。
そういうことだろうか。
(ちがう この声ではない
(ちがう このコトバではない
この苦しみは、さらにこんなふうに言いなおされる。
裏切る
言葉と
目の前の木
かぎりない遅延に
なみだを流す
やっと届いたものが
木そのものから
遠いものになっている
(木は何処へいってしまったのか
(本当のコトバはドコへ
すでに言葉が「木」に貼りついて
剥がすことができない
そして、「すでに言葉が「木」に貼りついて/剥がすことができない」、他人のことばが「木」を占領してしまっている(?)ということに気づき、そうことばにすることができたときに、ふっと八木は解放される。
最初に「木」を発見したときの、少年の記憶を取り戻す。
みずうみに
きがうつっている
ゆれてゆがんでゆっくりと
みずうみにきがたちあがる
ゆめのように
じゆうに
あれがほんとうのきだ
あれがほんもののきだ
この「ひらがな」で書かれた二連が、とてもうつくしい。
八木の詩は、このあともつづいていて、前半部分を反対側からというか、この「みずうみにきがたちあがる」という部分から言いなおしている。それを読むと、八木のいいたいことは、とてもよくわかる。(わかった気持ちになる。)
そして、とてもよくわかる、「意味」が納得できるのだけれど。
不思議なことに、それでは、その「結論」のようなものを読み返すか、というと、そうではない。
私は、何度も何度も、「ひらがな」の二連を読み返す。ここがいいなあ。他の部分は、この二連のためにあるのだなあ、と思ってしまう。
「意味」は後半に書かれているのだが、「意味」にはなっていない「イメージ」の方に引きつけられてしまう。
詩は不思議なものだなあ、と思う。
八木幹夫詩集 (現代詩文庫) | |
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