監督 鶴橋康夫 出演 大竹しのぶ、豊川悦司、尾野真千子
予告編で見た大竹しのぶの顔が忘れられない。遺言状を見せ「遺産はすべて私が相続します」と言う。それに対して、尾野真千子姉妹が、「なんで?」という感じ。それを見ながら、うれしさを隠しきれない。葬儀の直後なので、喪主なので、いちおう悲しい素振りをしているが、その「嘘」の悲しみを突き破ってあらわれる喜び。いやあ、「場違い」な感情があふれてくるということは、だれにでもあることだけれど。そういうことは私も体験したことがあるけれど。これを「演技」でやってしまうところが、すごい。というか、こういうことって、「演技」でできること? それは「表情」の演技? つまり、顔を動かしている? それとも「感情」の演技? 感情を動かしている?
大竹しのぶを見ていると、そういう不思議に引き込まれることがよくある。映画は「肉体」を映し出しているのだが、ふいに「肉体」を忘れてしまう。「肉体」を見ているのに、それが「肉体」であることを忘れてしまう。言い方をかえると、そのとき大竹しのぶの「肉体」を見ているのではなく、自分の「肉体」が大竹しのぶの「肉体」になってしまうって、その表情の変化が、「肉体」の奥から「感情」を引き出してくる。あ、この感じ、わかる。この感情、「おぼえている」と、そのおぼえていることを思い出してしまう。
それにしても。
大竹しのぶは、こういう映画、感情が激変する女の演技がうまいなあ。こびたり、怒ったり、ひらきなおったり。一貫していないというか、持続した「感情」の演技ではなく、瞬間的に変わる、その変化のスピードがすごい。ワンテンポ、観客の感情よりも早い。だから、その感情が「正しい(?)」かどうか感じている暇がない。そこに噴出してくる「感情」にぐいと引っ張られてしまって、その瞬間を生きてしまう。
で、遅れて、笑ってしまう。
何度、笑ったかなあ。思い出せないが、そこにあらわれる「あからさま」な感情(隠しておかなければならない感情なのに、ぱっと動いてしまう感情)に驚き、納得して、笑うのである。「納得して」というのは、一種の逆説なんだけれどね。つまり、そんな「感情」、そういう「生き方」を肯定すると変なことになるので、その「変」を笑ってごまかしてしまう、ということなんだけれどね。私は、大竹しのぶの生き方を肯定しません。笑うことで否定しているのです、という自分自身への「言い聞かせ」みたいなものだ。
いろいろおもしろいシーンがあって、話題の、尾野真千子との焼き肉屋での取っ組み合いは、話題になっている通り、おもしろい。思わず、ほんとうに「脚本」を読んで芝居をしているのか、ストーリーがどう展開していくか、結末を知って演技しているのかと「突っ込み」を入れたくなる。次はこうする、という「演技」のスピードを越えている。こうなる、とわかるまえに大竹のからだが動き、それに尾野の肉体がひきずられていく。けんかを止めに入るはずの人が、一瞬ためらってしまう。そういう「現実」を越えるスピードがある。
豊川悦司に偽物のバッグをプレゼントされ、偽物の時計を買わされるシーンも、妙におかしい。「おいおい、脚本読んだのか? 読んだなら、それが偽物ってわかるだろう。どうして、脚本に書かれていること、観客がみんな知っているのに自分だけが何も知らないなんて、そんな演技がよくでくきるなあ」ほんとうの、ばか? 時計の売値を値切って、やっぱり、そうか。豊川悦司はマージンをとって、儲けているのか。そんなことは知ってるぞ、と少し得意気になれ合う。そこが、妙に、かわいい。私も豊川になって大竹をだましてみたい、偽物のブランド品をふっかけて、金をだまし取ってみたい、という気持ちになる。
で、ひとつ不満。予告編にもあったシーンだが、鶴瓶とラブホテルへゆく。そこで大竹が鶴瓶の巨根に驚くシーン。「通天閣どころじゃない、スカイツリーや」というのだが、その顔が、あんまり巨根に驚いている感じじゃない。スピード感がない。思わず、鶴瓶のペニスは小さいんだ。大竹は鶴瓶に取り入るために、巨根だとおだて、驚くという演技をしているのだ、と「裏の心理」を想像してしまう。余分なことを考えてしまう。ここの「演技」は他の「演技」に比べてスピードが遅い。「間」のテンポが狂っている。
鶴瓶との絡みでは、最後の、殴られて「あかん、涙も出ない」というときの「顔」が、自分自身を見つめることもあるという「人間性(?)」をとらえていて、とてもよかった。そうか、人間は自分自身をみつめるときは、こういう顔になるのか、と思った。
で、このシーンが印象的なのは、先に書いた「間」のテンポとの関係で言うと、この「あかん、涙も出ない」ということばを受ける「相手」が観客だけということがある。そこでは共演者との「間」がない、というか、無関係なのだ。この表情にもういちど鶴瓶がからんでくると、こういう顔をしていられない。「相手」がいないだけに、そこに「地」が出てくるというのか、あ、こういう悲しみを大竹は生きているのか、と妙に共感してしまうのである。(ここは監督の工夫というか、腕の見せどころか。)
死期が近い男に近づき、結婚し、財産を横取りするという「後妻業」というとんでもない「生き方」をしているのだが、そうすることしかできないエネルギーのからまわりと悲しさみたいなものが、「嘘」ではなく、「現実」としてみえてくる。
こんな女に出会うのはいやだが、横から見ていて「笑う」にはいいかもなあ、なんて思う。ついでに「大竹しのぶ、好き」って言ってみたくなる。何か「嫌い」と拒絶することができないものを感じてしまうのである。
(天神東宝6、2016年08月28日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
予告編で見た大竹しのぶの顔が忘れられない。遺言状を見せ「遺産はすべて私が相続します」と言う。それに対して、尾野真千子姉妹が、「なんで?」という感じ。それを見ながら、うれしさを隠しきれない。葬儀の直後なので、喪主なので、いちおう悲しい素振りをしているが、その「嘘」の悲しみを突き破ってあらわれる喜び。いやあ、「場違い」な感情があふれてくるということは、だれにでもあることだけれど。そういうことは私も体験したことがあるけれど。これを「演技」でやってしまうところが、すごい。というか、こういうことって、「演技」でできること? それは「表情」の演技? つまり、顔を動かしている? それとも「感情」の演技? 感情を動かしている?
大竹しのぶを見ていると、そういう不思議に引き込まれることがよくある。映画は「肉体」を映し出しているのだが、ふいに「肉体」を忘れてしまう。「肉体」を見ているのに、それが「肉体」であることを忘れてしまう。言い方をかえると、そのとき大竹しのぶの「肉体」を見ているのではなく、自分の「肉体」が大竹しのぶの「肉体」になってしまうって、その表情の変化が、「肉体」の奥から「感情」を引き出してくる。あ、この感じ、わかる。この感情、「おぼえている」と、そのおぼえていることを思い出してしまう。
それにしても。
大竹しのぶは、こういう映画、感情が激変する女の演技がうまいなあ。こびたり、怒ったり、ひらきなおったり。一貫していないというか、持続した「感情」の演技ではなく、瞬間的に変わる、その変化のスピードがすごい。ワンテンポ、観客の感情よりも早い。だから、その感情が「正しい(?)」かどうか感じている暇がない。そこに噴出してくる「感情」にぐいと引っ張られてしまって、その瞬間を生きてしまう。
で、遅れて、笑ってしまう。
何度、笑ったかなあ。思い出せないが、そこにあらわれる「あからさま」な感情(隠しておかなければならない感情なのに、ぱっと動いてしまう感情)に驚き、納得して、笑うのである。「納得して」というのは、一種の逆説なんだけれどね。つまり、そんな「感情」、そういう「生き方」を肯定すると変なことになるので、その「変」を笑ってごまかしてしまう、ということなんだけれどね。私は、大竹しのぶの生き方を肯定しません。笑うことで否定しているのです、という自分自身への「言い聞かせ」みたいなものだ。
いろいろおもしろいシーンがあって、話題の、尾野真千子との焼き肉屋での取っ組み合いは、話題になっている通り、おもしろい。思わず、ほんとうに「脚本」を読んで芝居をしているのか、ストーリーがどう展開していくか、結末を知って演技しているのかと「突っ込み」を入れたくなる。次はこうする、という「演技」のスピードを越えている。こうなる、とわかるまえに大竹のからだが動き、それに尾野の肉体がひきずられていく。けんかを止めに入るはずの人が、一瞬ためらってしまう。そういう「現実」を越えるスピードがある。
豊川悦司に偽物のバッグをプレゼントされ、偽物の時計を買わされるシーンも、妙におかしい。「おいおい、脚本読んだのか? 読んだなら、それが偽物ってわかるだろう。どうして、脚本に書かれていること、観客がみんな知っているのに自分だけが何も知らないなんて、そんな演技がよくでくきるなあ」ほんとうの、ばか? 時計の売値を値切って、やっぱり、そうか。豊川悦司はマージンをとって、儲けているのか。そんなことは知ってるぞ、と少し得意気になれ合う。そこが、妙に、かわいい。私も豊川になって大竹をだましてみたい、偽物のブランド品をふっかけて、金をだまし取ってみたい、という気持ちになる。
で、ひとつ不満。予告編にもあったシーンだが、鶴瓶とラブホテルへゆく。そこで大竹が鶴瓶の巨根に驚くシーン。「通天閣どころじゃない、スカイツリーや」というのだが、その顔が、あんまり巨根に驚いている感じじゃない。スピード感がない。思わず、鶴瓶のペニスは小さいんだ。大竹は鶴瓶に取り入るために、巨根だとおだて、驚くという演技をしているのだ、と「裏の心理」を想像してしまう。余分なことを考えてしまう。ここの「演技」は他の「演技」に比べてスピードが遅い。「間」のテンポが狂っている。
鶴瓶との絡みでは、最後の、殴られて「あかん、涙も出ない」というときの「顔」が、自分自身を見つめることもあるという「人間性(?)」をとらえていて、とてもよかった。そうか、人間は自分自身をみつめるときは、こういう顔になるのか、と思った。
で、このシーンが印象的なのは、先に書いた「間」のテンポとの関係で言うと、この「あかん、涙も出ない」ということばを受ける「相手」が観客だけということがある。そこでは共演者との「間」がない、というか、無関係なのだ。この表情にもういちど鶴瓶がからんでくると、こういう顔をしていられない。「相手」がいないだけに、そこに「地」が出てくるというのか、あ、こういう悲しみを大竹は生きているのか、と妙に共感してしまうのである。(ここは監督の工夫というか、腕の見せどころか。)
死期が近い男に近づき、結婚し、財産を横取りするという「後妻業」というとんでもない「生き方」をしているのだが、そうすることしかできないエネルギーのからまわりと悲しさみたいなものが、「嘘」ではなく、「現実」としてみえてくる。
こんな女に出会うのはいやだが、横から見ていて「笑う」にはいいかもなあ、なんて思う。ついでに「大竹しのぶ、好き」って言ってみたくなる。何か「嫌い」と拒絶することができないものを感じてしまうのである。
(天神東宝6、2016年08月28日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
愛の流刑地 [レンタル落ち] | |
クリエーター情報なし | |
メーカー情報なし |