詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドアルド・ファルコーネ監督「神様の思し召し」(★★)

2016-08-31 18:16:43 | 映画
監督 エドアルド・ファルコーネ 出演 マルコ・ジャリーニ、アレッサンドロ・ガスマン

 これは、やっぱりイタリアならではの映画なのかなあ。「神(キリスト)」と言われても、私なんかはピンと来ない。
 むしろ、逆に、「神」の存在について神父が語るシーンなんかは、私は「禅宗」を感じてしまったりしたのだが。
 「朝、目が覚める。何かがさっと顔をなでる」「風だろう」「いや、神だ」「雲を見ると、いろいろ形を変える。……とかニンジンとか。あれも神だ」「神は教会にいるのじゃないのか」「あんな狭いところにはいない」というやりとりとか「梨がなっている。あれが落ちるのは、重力のせいだと思うだろう」「あれも神だというのかい?」なんてね。これなんかは、「仏はいたるところにいる。草木は仏であり、仏は草木だ」というのに似ているなあ。何かが存在するとき、その存在になって仏があらわれている、という思想。
 これって、「キリスト教」の考えなのかなあ。

 まあ、それは脇においておいて。
 神を信じなかった外科医が、息子が神父になるという。あわてた外科医が、息子に影響を与えた神父に接近し、神父のいかがわしさを証明しようとする。そうすることで、息子をもう一度、医学の世界へ引き戻そうとする、というのがこの映画のストーリー。
 このストーリーにはつねに「対」が登場する。
 外科医が「利己的(幅がない)」のに対して、神父が「うさんくさい(肉体に幅がある)」。この対比を、主演の二人が巧みに演じているのだが、そうしてみると、「うさんくさい」と感じる人間というのは、「利己/どんな利益を得ようとしているか」が明確に見えないということなのかなあ、なんていう思いがふとわいてきたりする。
 対比はつねに外科医と誰かとの対比になってしまう。「利己的/理知的」な外科医は「神」を信じないが、「理知的」とは言えない息子(医学部の授業に苦労している)は「神」を信じる。「愛(セックス)に対して冷淡」な外科医(夫)に対し、妻は「愛(セックス)に飢える」、そして、かわりに愛をそそぐ相手を求めて養子を増やす。妻は、自分の「愛を受け入れてくれる」ひとを求めている。「聡明」な外科医に対し、娘の夫は「利己的(あくどい不動産屋)」であるけれど「愚か」。「贅肉のない/規律正しく自己を律している」外科医に対して、彼のもとで学んでいる女性医師は「肥満/自分の欲望をあまやかしている/だらしない」感じである。数えあげるときりがないのだが、要約(?)すると、
 「利己的」とは「理知的(聡明)/冷淡/痩身」、「うさんくさい」は「理知的ではない(愚か)/愛情/肥満/だらしない」というような感じ。「神父」は外科医以外のすべての人間の要素を「肉体」のなかに抱え込んでいる
 外科医は、神父を「媒介」にして、自分が排除してきた「うさんくさい」ものと直接触れ合う。拒絶していたものと「対話」する。そうして「うさいくい」を少しずつ「人間」の「要素」として受け入れていく。「人間らしく」なっていく。
 こんなふうに書いてしまうと、うーん、いやあな「道徳の教科書」みたい。
 あ、これが問題なんだなあ。
 おかしくて、どうしても笑いながら見てしまうのだけれど、こういう「人間性」を回復するというテーマの映画は、どうしても「道徳的」になってしまう。
 悪くはないけれど、「これがいい」という感じにはなれない。
 ラストシーンというか、ラストのエピソードなんかも、まるで「教科書」みたい。人は自分ひとりで何かをするのではない。他人に任せることも必要だ。他人の力を借りることも必要だ。それは他人を認め、受け入れること。そして、そうやって他人を受け入れることが、人間を「神」に近づける、という「主張」は、とくに、私は「感動的だからこそ、いやだなあ」と思ってしまう。教会の床に落ちたペンキを剥がすことで、神父の手術が成功するように、と祈る、なんて、うーん、こんな道徳は押しつけられたくない。
 それから、梨が落ちるのを見て、「神は存在する」と、半分笑いながら受け入れるなんていうのも、映画のストーリーとしてはそうなるしかないのだろうけれど(喜劇だから、それでいいのかもしれないけれど)、なんとなく、いや。

 ということと、関係があるかないか、よくわからないのだが。
 この映画には、はっと飲み込まれてしまうシーンがない。この演技、真似してみたい、と思う部分がない。
 先日見た「後妻業の女」。大竹しのぶが「財産は全部私が相続します」と言うときの、「喜び」が肉体の奥からわきあがり、口元がゆるむ顔なんて、あ、これ、やれるかなあ、やってみたいなあ、と思わせるでしょ? 「善」とか「悪」というような「倫理的」な基準を忘れて、その「肉体」を自分のものにしてみたい。そう感じさせるシーンがないと「芸術」とは言えない。「芸術」というのは、いま、世界に流布して、世界を律している基準を破壊し、人間の欲望を解き放つ経路。
 そういうシーンがないと、「映画を見た」という感じにはなれない。「教訓を聞かされた」という感じが残ってしまう。
                     (KBCシネマ2、2016年08月31日)



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