詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村田沙耶香「コンビニ人間」

2016-08-11 13:41:11 | その他(音楽、小説etc)
村田沙耶香「コンビニ人間」(「文藝春秋」2016年09月号)

 書き出しの一行で「傑作」と確信する作品がある。村田沙耶香「コンビニ人間」は、そういう作品。第百五十五回芥川賞受賞作。
 その書き出し。

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。

 どこがすごいか。「音」を書いていることがすごい。音からはじめているところがすごい。この小説の主人公は、しかし音でコンビニを認識している。コンビニに音があるとは、私は考えたことがなかった。わっ、私の知らない人間がいる。そのことに驚くのである。
 人間というのは、もちろんひとりひとり違うから、知っている人間などいないと言えるのだが、「知らない」ということを私たちは(私は)自覚しない。人間は同じようなものだと思う。たとえばコンビニなら、手軽な商品が売られている。深夜も営業している。ATMもある。まさしく、便利な店だ。そして妙に明るい。特に深夜の時間帯は、その明るさが冷たい、と私は感じている。
 しかし主人公は違うのだ。
 そうか、音か。音で「世界」を認識している人がいる。「音楽」ではなく、音楽とは別な世界を音で認識している人がいる。この「特異性(?)」だけで、主人公は、とても際立っている。
 で、どんな音?

 コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの越え。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。

 近くのコンビニへ走って行って、耳を澄ましたい。確かめたい。そういう気分にさせられる。私の知らない(私の見落としていた)世界が、私のすぐそばにある、という驚き。さらに、その音が「私の鼓膜にずっと触れている。」が、すごい。
 音が「肉体(鼓膜)」と一体になっている。

 売り場のペットボトルが一つ売れ、代わりに奥にあるペットボトルがローラーで流れてくるカラララ、という小さい音に顔をあげる。冷えた飲み物を最後にとってレジに向かうお客が多いため、その音に反射して身体が勝手に動くのだ。

 あ、すごいなあ。「身体が勝手に動くのだ」か。音が「肉体」の一部になっていて、音が肉体を動かすのだ。「勝手に」とは「無意識に」である。「無意識に」というのは「意識がない」ではない。逆である。「意識」が「肉体」になってしまっていて、「意識」とは「意識されない」状態なのである。
 このコンビニ店員の「肉体」のなかで、たとえば、私は自分がコンビニで冷たい水を買うときの様子まで思い出してしまう。手前のペットボトルをとると、その空間を埋めるようにボトルが奥から滑ってくる。それを見ている「肉体」になる。そのとき、たしかに音があったといえば、あっただろうなあ。そんなことを思いながら、単に、その描写に主人公の「肉体」を感じるだけではなく、私自身が「肉体」として参加している(そのばに居合わせる)感じになる。コンビニにいて、そこで働いている主人公を見ている気持ちになる。
 書き出しの一ページだけで、大傑作である。

 この音は、途中から「声」にかわる。てきぱきとしたマニュアルどおりの「店内」の声。そのあと、その声が少しずつずれていく。

「あ、それ、表参道のお店の靴だよね。私もそこの靴、好きなのー。ブーツ持ってるよー」
 泉さんは、バックルームで少し語尾を延ばしてだるそうに喋る。

 会話の「内容」も描かれているが、そのときの「声」の調子がていねいに描かれる。コンビニのなかでは主人公は、どの音にもすぐになじんでしまう。他人の口調を吸収し(真似し?)、世界を調和させている。
 ところが一歩、コンビニの外へ出ると、どうもうまくいかない。「肉体(鼓膜?)」が「会話」をスムーズにさせない。自然な(つまり普通の)会話ができない。肉体(無意識)になじまない。つっかかる。その結果、主人公は「変な人(普通じゃない人)」にされてしまう。
 そういう主人公の世界に、コンビニで働くことには向いていない男がやってきて、その男と接触したために、主人公の世界は大きく変わってしまうのだが、そこでも交わされる会話の「内容」よりも、そこから始まる音の変化に私は引き込まれた。
 男と一緒に暮らしながら、別々の世界を生きている。男が風呂場で食事をしている。ドアを閉めて、主人公は久しぶりに一人でテーブルに座って食事を始める。(464 ページ)
 自分が咀嚼する音がやけに大きく聞こえた。さっきまで、コンビニの「音」の中にいたからかもしれない。目を閉じて店を思い浮かべると、コンビニの音が鼓膜の内側に蘇ってきた。

 主人公は、コンビニ以外の音(コンビニで発せられる事務的な会話の調子)以外が苦手である。主人公と男の関係(いわゆる恋愛、あるいは肉体関係)を探るような、店員仲間の「声」がだんだん「雑音」のように主人公を苦しめる。人間の「肉体」と「肉体」の結びつきを求める「声」が主人公を追い込む。
 そのことを、こんな具合に書く。

 店の「音」には雑音が混じるようになった。みなで同じ音楽を奏でていたのに、急にみながバラバラの楽器をポケットから取り出して演奏を始めたような、不愉快な不協和音だった。( 465ページ)

 ここが、この小説の「焦点」。主人公の聞いていた「音」は、彼女にとっては「音楽」だった。コンビニという「場」に集まってきて演奏されるセッションだった。それが、突然、崩れ始める。日常会話が「ノイズ」なのだ。
 そして、そういう「声」に押されつづけ、男の指示に従い、コンビニをやめることになると、さらに変化が起きる。

 今までずっと耳のなかで、コンビニが鳴っていたのだ。けれど、その音が今はしなかった。
 久しぶりの静寂が、聞いたことのない音楽のように感じられて、浴室に立ち尽くしていると、その静けさを引っ掻くように、みしりと、白羽さんの重みが床を鳴らす音が響いた。( 472ページ)

 部屋の中には白羽さんの声や冷蔵庫の音、様々な音が浮かんでいるのに、私の耳は静寂しか聞いていなかった。私を満たしていたコンビニの音が、身体から消えていた。私は世界から切断されていた。( 474ページ)

 「音」が聞こえない。その「肉体」の変化。(作者は「身体」ということばをつかっているが。)これが、なまなましい。痛々しい。
 人間の変化を、音と肉体の関係(肉体の編が/聴覚の変化)でとらえつづけているところが、この小説を傑作にしている。途中の人間同士の会話は、主人公の肉体の変化を明らかにするための、ストーリーという「補助線」にすぎない。面白おかしく書かれているが、そこに作者の「主眼」があるわけではないだろう。
 
 この肉体的苦痛から、主人公は、どうやって「人間」を、つまり「肉体」を回復させることができる。
 いよいよ新しい仕事のために面接にいく、その日。トイレを借りるためにはいったコンビニで、変化が起きる。
 
 ここはビジネス街らしく、客の殆どはスーツを着た男性や、OL風の女性たちだった。
 そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。 
 コンビニの中の音の全てが意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。
 この店に今何が必要か、頭で考えるよりも先に、本能が全てを理解している。

 そして、このコンビニの「声」に従いコンビニ店内の商品配列をてきぱきと変更していく。それに誘われて、入ってきた客が主人公の並べ替えた商品を買っていく。女性二人が新商品に声を上げ、はしゃいでいる。買い物をする。

 今日は暑い日なのに、ミネラルウォーターがちゃんと補充されていない。パックの2リットルの麦茶もよく売れるのに、目立たない場所に一本しか置いていない。
 私にはコンビニの「声」がきこえていた。コンビニが何を求めているか、どうなりたがっているのか、手にとるようにわかるのだった。( 480ページ)

 それをみて「何をしてるんだ!」と叱りつける男に対して、主人公は言う。

「コンビニの『声』が聞こえるんです」
(略)
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」( 481ページ)

 アイデンティティ宣言である。
 感動してしまった。人間を「精神」ではなく「肉体」として、生み出している。
 コンビニの「音」から始まり(起)、コンビニ内での会話から「人間の声」を通り(承)、そこから店外の普通の「人間の声」へと広がり、コンビニの音が聞こえなくなり(転)、コンビニの「声」を聞き取る(結)という具合。コンビニの「音」は「音」ではなく「声」だったのだ。その発見。それが「肉体」としてしっかり描かれている。



コンビニ人間
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