詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「反町公園」、小川三郎「港」

2017-08-01 07:12:01 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「反町公園」、小川三郎「港」(「Down Beat」10、2017年06月30日発行)

 金井雄二「反町公園」の全行。

冬にもこんなにも暖かい日もあるのだ

なぜだか
君がいない
そして
なぜだか
銀の手すりには
ピンク色の
上着が一枚
だれが
置き忘れたものか
置いてあるのか
ちょっと汚れた
ピンク色の
丈の短い
上着が一枚

 一行目(一連目)と二連目が「対」になっているのだろう。冬だけれど、暖かいのでだれかが遊んでいて上着を脱いだ。それがそのまま手すりにかけてある。置き忘れている。そういう情景。
 「ピンク色の/上着が一枚」が形をかえて繰り返される。繰り返されることで「焦点」になる。「焦点」になりながら、「絵」になってしまうのではなく、「絵」から解放されて「音楽」になる、という部分もあると思う。「歌」になる、といえばいいだろうか。
 「歌」になることで、「現実」が「共有」される。
 それが、おもしろい。
 「共有したい」という気持ちが金井にあるのかもしれない。それが一行目からはじまっているともいえる。「なぜだか/君がいない」にも含まれているかもしれない。けれど、こんなことは突き詰めない方がいい。



 小川三郎「港」は、軽い感じではじまる。
 
港で釣りをした。
その日船は
一隻も帰ってこなかった
当分のあいだ
釣りをしていていいと思った。

港だから
波は穏やかだったけれど
名前のわからない魚が数匹釣れた。
ときどき知らないおじさんが来て
魚の名前を教えてくれた。

 「名前のわからない魚」「魚の名前」と繰り返される。金井の詩の場合と同じで、繰り返されるけれど完全なリフレインではない。そこに実際に歌われる「歌」とはちがった音楽があり、「耳」だけではないものを刺戟してくる。「わからない」と「知らない」の交錯もおもしろい。
 で。

遠い記憶を
たぐろうとするときはたいてい
魚の名前を思い出すような気持ちになる。

 その「耳」意外のどこかを刺戟する音楽は、「魚の名前」といっしょに、こんなふうに動く。「記憶」は「思い出す」という動詞で言いなおされ、「気持ち」を具体的に描写する。
 ここは、とてもいい。
 でも、そのあとの行が、「意味」になりすぎている。
 あえて「引用」しなかったので、この文章を読んでいる人には何のことかわからないと思うが。私は、ときどき、こんなふうに引用を省略することがある。

 なぜ、こんな面倒くさいことを書いたかというと。

 ここで金井の詩に戻るのだが、私は一行目を引用しようかどうしようか、迷ったのである。なくてもいいかなあ。ない方がいいかなあ。ない方がピンク色の上着がくっきりするかなあ。
 でも、省略してしまうと、ピンク色の上着といっしょに動いている「一枚」が重くなりすぎるかなあ。一行目があることで「一枚」の「意味」が軽くなっているかなあ、そして「軽み」が「歌」をしなやかにしているかなあ、というようなことを、なんとなく考えたのだった。
 金井の詩には「ちょっと汚れた」という「気持ち」を強引に刺戟することばがあって、そこで私は少しつまずいたのだが。「丈の短い」と言いなおされて、まあ、いいかなあ、と感じたりもしたのだが。
 「意味」というか、「意味領域」というのは、ひとりひとり受け止め方が違う(表現の仕方が違う)ので、そこをどうつかみ取るかがむずかしいね。

朝起きてぼくは
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