ちんすこうりな『女の子のためのセックス』(人間社、2017年07月30日発行)
ちんすこうりな『女の子のためのセックス』を読みながら、どうしてこういう表現になるのかなあ、と思った。
「女の穴」。
私が不思議に思ったのは「穴」ということばである。何を指しているかはすぐにわかる。女性の性器である。私が不思議に思うのは、なぜ女性器と書かずに「穴」と書いたかということ。
別な言い方をすると、「穴」というのは、ちんすこうの発見した「比喩」ではないのに、なぜ、それを平気でつかえるかということ。
もちろんひとは誰でも他人の口にする「比喩」をつかう。「流通言語」をつかう。
それならそれで「勃起した男性器」も「比喩」にすればいいだろう。
一方で「比喩」を避け、他方で「比喩(流通言語)」をつかう。しかも、その「比喩」は重要らしい。(後半に、意味ありげに書かれる。)
こういう「比喩」のつかい方をすると、私には、この「比喩」が動いている世界の視点で詩が書かれているような気がして、いやな気持ちになる。女性の性器を「穴」と呼ぶことで成立している世界がある。それを肯定している、と感じる。
性の体験を包み隠さずに書いているようで、実は女性の性器を「穴」と呼ぶ視点で隠している。あるいは「穴」と呼ばれることで成立する視点でつくられた世界を肯定していると、感じる。
これでは正直な体験とは思えない。
ちんすこうが、どれだけ実際の体験を書いたと主張しようが、私は、それを女性の性器を「穴」と呼ぶ「思想」にのっかって書いたものと感じてしまう。
と、簡単にちんすこうは書くが、他の人間たちがしていることは、それぞれ違うのではないのか。「穴」に「いれて/こすって/いく」ということではないのではないか。簡単に「断定」してしまっているところで、私はつまずいてしまう。
ここで書かれている「穴」は「穴」という「比喩」をちんすこう自身のことばにしようとする試みなのだろうけれど、どうも、納得がいかない。
「射精」という作品。
一連目は自然に読むことができたが二連目でつまずいた。「本で読んだ」か。
ひとはだれでも「本で読んだ」ことばで自分の体験を整える。ちんすこうに限ったことではない。だから、それはそれでいいのかもしれないが、個人的な体験を語るとき、すぐに「流通言語」が動き、しかもそれが重要な働きをするというところが気になってしようがない。
「愛情の一部も/流れていく」を喪失ととらえ、「哀しい」に結びつけるのも「流通文体」だろうなあ。流れていくものが「誘い水」になり、次々に新しい愛情が満ちてくるなら「哀しい」とは言わないだろう--と私のなかにある「流通言語」はすぐに反論してしまう。
読みながら「漫才」でもしている気持ちになるのである。
「ちんちん」という作品。
「本当は」とそれに続く行は美しいと思う。
私がちんすこうに聞いてみいたのは、二行目の「ちんちん、好きなんだね、」という男のことばをどう感じているかである。
私の感覚では、これは男の「本当」のことばではない。
こういうとき、こういうふうに言うのが、「男の流通言語」なのである。正直を隠し、「ちんちん、好きなんだね」ということばが流通している世界へ入っていくための「通過儀式」のようなものなのである。
女性の性器を「穴」と呼ぶのも、顔に射精するのも、フェラチオをさせるのも、同じ。そうやってはじまる世界で動きながら、その世界を脱皮するというか、その世界の内部を新しく切り開くというのはむずかしいなあ、と思う。
どうしたって「流通言語」が入ってきてしまう。読んでいる方にしたってね。
「流通言語」を捨てて読むというのは、読む方にしてもとてもむずかしいのだ。ほんとうにちんすこうに会っているのか、「流通言語」を演じるちんすこうにあっているのか、判断がむずかしい。
「愛子ちゃん」という作品は、どこかで読んだ記憶がある。この作品は好きだ。愛子ちゃんとふたりで体験を語り直している。そこには「流通言語」が入ってきても、「流通言語」という意識が動いている。「流通言語」を意識しながら、ふたりで「自分のことば」を探している。
他の作品も「流通言語」と向き合いながら、ちんすこうがちんすこうのことばを探していると読めばいいのかもしれないけれど、「流通言語」への向き合い方が「流通姿勢」になっているような気がして、そこで落ち着かなくなる。
ちんすこうりな『女の子のためのセックス』を読みながら、どうしてこういう表現になるのかなあ、と思った。
「女の穴」。
勃起した男性器を
穴に入れて
こすると気持ちがいい
ただそれだけのことだ
人間は
ばかみたいだ
そんな簡単なことは
誰とでもできるよ
そんなことをセックスと名づけて
愛しあっていると喜んでさ
そんなことを
とりあえずあなたとしてみたい
いれて
こすって
いく
他の人間たちがしているように
してみたいのさ
私が不思議に思ったのは「穴」ということばである。何を指しているかはすぐにわかる。女性の性器である。私が不思議に思うのは、なぜ女性器と書かずに「穴」と書いたかということ。
別な言い方をすると、「穴」というのは、ちんすこうの発見した「比喩」ではないのに、なぜ、それを平気でつかえるかということ。
もちろんひとは誰でも他人の口にする「比喩」をつかう。「流通言語」をつかう。
それならそれで「勃起した男性器」も「比喩」にすればいいだろう。
一方で「比喩」を避け、他方で「比喩(流通言語)」をつかう。しかも、その「比喩」は重要らしい。(後半に、意味ありげに書かれる。)
こういう「比喩」のつかい方をすると、私には、この「比喩」が動いている世界の視点で詩が書かれているような気がして、いやな気持ちになる。女性の性器を「穴」と呼ぶことで成立している世界がある。それを肯定している、と感じる。
性の体験を包み隠さずに書いているようで、実は女性の性器を「穴」と呼ぶ視点で隠している。あるいは「穴」と呼ばれることで成立する視点でつくられた世界を肯定していると、感じる。
これでは正直な体験とは思えない。
ちんすこうが、どれだけ実際の体験を書いたと主張しようが、私は、それを女性の性器を「穴」と呼ぶ「思想」にのっかって書いたものと感じてしまう。
他の人間たちがしているように
と、簡単にちんすこうは書くが、他の人間たちがしていることは、それぞれ違うのではないのか。「穴」に「いれて/こすって/いく」ということではないのではないか。簡単に「断定」してしまっているところで、私はつまずいてしまう。
穴なんだけど
ただの
真っ暗の
穴
*
穴がどこに続いているのか
思い出して
体から涙があふれた
ここで書かれている「穴」は「穴」という「比喩」をちんすこう自身のことばにしようとする試みなのだろうけれど、どうも、納得がいかない。
「射精」という作品。
私の顔に出した
あたたかい精液
じっと見つめたあとで
申し訳なさそうにふいてくれた
子供になったような
くすぐったい気持ち
本で読んだんだけど
男って
射精した瞬間愛情の一部も
流れていくらしいね
だから
あなたの横顔は哀しそうなのか
一連目は自然に読むことができたが二連目でつまずいた。「本で読んだ」か。
ひとはだれでも「本で読んだ」ことばで自分の体験を整える。ちんすこうに限ったことではない。だから、それはそれでいいのかもしれないが、個人的な体験を語るとき、すぐに「流通言語」が動き、しかもそれが重要な働きをするというところが気になってしようがない。
「愛情の一部も/流れていく」を喪失ととらえ、「哀しい」に結びつけるのも「流通文体」だろうなあ。流れていくものが「誘い水」になり、次々に新しい愛情が満ちてくるなら「哀しい」とは言わないだろう--と私のなかにある「流通言語」はすぐに反論してしまう。
読みながら「漫才」でもしている気持ちになるのである。
「ちんちん」という作品。
ちんちん舐めてたら
ちんちん、好きなんだね、
とあの人は言った
本当は
好きな人のだけ、好き、と言おうとしたけれど
うん、とだけ
それから
あたたかさの中でこう思ったんだ
私はもう二度と
本当に大切で守ってあげたい
たった一人のの女の子になることはないんだって
「本当は」とそれに続く行は美しいと思う。
私がちんすこうに聞いてみいたのは、二行目の「ちんちん、好きなんだね、」という男のことばをどう感じているかである。
私の感覚では、これは男の「本当」のことばではない。
こういうとき、こういうふうに言うのが、「男の流通言語」なのである。正直を隠し、「ちんちん、好きなんだね」ということばが流通している世界へ入っていくための「通過儀式」のようなものなのである。
女性の性器を「穴」と呼ぶのも、顔に射精するのも、フェラチオをさせるのも、同じ。そうやってはじまる世界で動きながら、その世界を脱皮するというか、その世界の内部を新しく切り開くというのはむずかしいなあ、と思う。
どうしたって「流通言語」が入ってきてしまう。読んでいる方にしたってね。
「流通言語」を捨てて読むというのは、読む方にしてもとてもむずかしいのだ。ほんとうにちんすこうに会っているのか、「流通言語」を演じるちんすこうにあっているのか、判断がむずかしい。
「愛子ちゃん」という作品は、どこかで読んだ記憶がある。この作品は好きだ。愛子ちゃんとふたりで体験を語り直している。そこには「流通言語」が入ってきても、「流通言語」という意識が動いている。「流通言語」を意識しながら、ふたりで「自分のことば」を探している。
他の作品も「流通言語」と向き合いながら、ちんすこうがちんすこうのことばを探していると読めばいいのかもしれないけれど、「流通言語」への向き合い方が「流通姿勢」になっているような気がして、そこで落ち着かなくなる。
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