藤井貞和『美しい小弓を持って』(6)(思潮社、2017年07月31日発行)
「うたあわせ--詩とは何か」は「うたあわせ」の形式で書かれている。でも、藤井は「左」「右」という形式を守っているだけで「短歌」が書かれているわけではない。こんな感じ。
「左」は少年時代は鉄腕アトムを回し読みしていたが、それから六十年、いまでは御用学者になっている、という「感慨」が五七五七七に整えられる前の形。
「右」と合わせて読むと、鉄腕アトムを読んでいた時代は、詩と歌が一体となっていた(区別できないままに肉体といっしょにあった)ということになるかな? 「右」は「左」の「解説」のようになっている。詩は、どこへ言ってしまったのか。「うた」ならば五七五七七という形式といっしょに、いつでも、どこにでもあらわれるのに、ということか。五七五七七は、古いから、「おばあさん」という比喩になっている。「後ろ姿」というのは、後ろ向き、前には進んでいかない、時代を切り開かないという「比喩」かな。
「左」は鉄腕アトムをひきずっている。「夢」は鉄腕アトムがもっていた夢だね。同時に少年の夢。御用学者になっても、それは消えない。消えないように、こころのどこかで守っている、というのが「消せぬ」かなあ。これも短歌形式に整えられるまえのことば。たぶん、その「乱れ」のなかに「詩」がある、ということなのだろう。
「右」は、また「解説」。「詩」が「うた」になると、そこに五七五七七があらわれる。リズムが整えられる。「ぴょいぴょい」はリズムを「体感」としてあらわしたものだろう。ここでは「おばあさん」のかわりに「かけぶとん」という「比喩」が出てくる。なんだろうなあ。安心して眠られることを言っているのかなあ。「左」の「夢」を引き継いでいるのかもしれない。
「左」が「詩」を代弁している。「詩」は「短歌」になるまえの、ことば。リズムを「形式的」に整えるまえの「素材」。「右」は「解説」を装った何かかもしれない。「短歌」からみて、「左」の主張は受け入れられるか。あるいは「解説」を装った、「短歌(うた)」の自己主張そのものかもしれない。
57577のリズムを生き抜いているのが「うた」。「詩」は、そいうものを持っていない。
まあ、これはテキトウな、「論理」を展開するための方便。
つまり、私は、こういうことを書きながら、ただ「論理」らしきものを捏造しているだけ。
こんなことは「詩とは何か」に対する「意見」にはなり得ない。
「結論」を出すのがこの感想の目的ではないので、私は、自分自身をはぐらかしながら藤井のことばに向き合う。
途中を省略して、
五番「左」はあいかわらず鉄腕アトムにこだわっている。「左」は何だろう。「いまというときを元気にする素」というのは「うた」の定義なのか。なぜ、「げんきにする」ことができる? 「ひとり」で自己証明できるから? 五七五七七なら短歌と言ってしまえるから、だれのことも気にせずに、ただそのリズムをまもって自己存在を証明できるから?
まあ、こんなことは考えてもわからない。
それよりも、
再び出てきた「葉」と「キーボード」に注目するべきなんだろうなあ。
「キーワード」には二種類ある。頻繁に出てくるものと、ずっと隠れていて、ある瞬間、一回だけ仕方なしに出てくるもの。「葉(裏)」と「キーボード」は頻繁に出てくる藤井のキーワードということになる。
これとは別に、どこかで一回だけ出てくるキーワードがあるはずだ。それは「なぜ、葉裏なのか」「なぜ、キーボードなのか」という「問い」を「答え」に転換することばなんだろうけれど、私にはまだそれが何かわからない。まだ出てきていない。もしかすると、すでに出てきてしまっているかもしれない。
で、「六番」。
ここだけ「左」「右」がない。「うたあわせ(歌合戦)」なのに対抗していない。とけあって、ひとつになっている。
「うた(短歌)」も「詩」だったのかもしれない。
それまでは「詩」を「短歌」に整えられるまえの形とみてきたが、そういう見方だけでは不十分。「うた」は「ほんのひととき」(整えられるまえ?)は「詩」だったかもしれない。
「うた」と「詩」は、どこかで行き来している。
「おばあさん」「かけぶとん」「キーボード」という「比喩」。「比喩」がうまれてきた瞬間、そこに「詩」があった。そして「比喩」が五七五七七のリズムに整えられたとき「うた」になった。「うた」は五七五七七も守っているが、その前の「比喩」(詩の素)をこそ「うたいたい」のかも。
「うたあわせ」という形式を借り、「詩」と「短歌」を向き合わせながら、ふたつの関係を、そんなふうにとらえているのかもしれない。
というような「結論」を書いてしまっては、いけないんだよなあ。
きょうの反省。
「うたあわせ--詩とは何か」は「うたあわせ」の形式で書かれている。でも、藤井は「左」「右」という形式を守っているだけで「短歌」が書かれているわけではない。こんな感じ。
一番 左
アトム大使。
回し読みする 少年のわれら、
御用学者になる
六十年
右
詩はどうして書けなくなるのだろうか。
われらのうたに詩はあるのだろうか。
うたならばいつでも、どこにでもやって来るのにね。
うたは後ろ姿のおばあさん。
「左」は少年時代は鉄腕アトムを回し読みしていたが、それから六十年、いまでは御用学者になっている、という「感慨」が五七五七七に整えられる前の形。
「右」と合わせて読むと、鉄腕アトムを読んでいた時代は、詩と歌が一体となっていた(区別できないままに肉体といっしょにあった)ということになるかな? 「右」は「左」の「解説」のようになっている。詩は、どこへ言ってしまったのか。「うた」ならば五七五七七という形式といっしょに、いつでも、どこにでもあらわれるのに、ということか。五七五七七は、古いから、「おばあさん」という比喩になっている。「後ろ姿」というのは、後ろ向き、前には進んでいかない、時代を切り開かないという「比喩」かな。
二番 左
われら 御用学者となって、
夢を継ぐ。
少年の日の汚名よ、
消さぬ
右
うたは掴まえられると、ぴょいぴょいして、
57577になる。
やって来る日には、おおぞらいっぱいに、
ひろがってかけぶとんになる。
「左」は鉄腕アトムをひきずっている。「夢」は鉄腕アトムがもっていた夢だね。同時に少年の夢。御用学者になっても、それは消えない。消えないように、こころのどこかで守っている、というのが「消せぬ」かなあ。これも短歌形式に整えられるまえのことば。たぶん、その「乱れ」のなかに「詩」がある、ということなのだろう。
「右」は、また「解説」。「詩」が「うた」になると、そこに五七五七七があらわれる。リズムが整えられる。「ぴょいぴょい」はリズムを「体感」としてあらわしたものだろう。ここでは「おばあさん」のかわりに「かけぶとん」という「比喩」が出てくる。なんだろうなあ。安心して眠られることを言っているのかなあ。「左」の「夢」を引き継いでいるのかもしれない。
「左」が「詩」を代弁している。「詩」は「短歌」になるまえの、ことば。リズムを「形式的」に整えるまえの「素材」。「右」は「解説」を装った何かかもしれない。「短歌」からみて、「左」の主張は受け入れられるか。あるいは「解説」を装った、「短歌(うた)」の自己主張そのものかもしれない。
57577のリズムを生き抜いているのが「うた」。「詩」は、そいうものを持っていない。
まあ、これはテキトウな、「論理」を展開するための方便。
つまり、私は、こういうことを書きながら、ただ「論理」らしきものを捏造しているだけ。
こんなことは「詩とは何か」に対する「意見」にはなり得ない。
「結論」を出すのがこの感想の目的ではないので、私は、自分自身をはぐらかしながら藤井のことばに向き合う。
途中を省略して、
五番 左(持)
するはずがない! だましたり、
うそをついたりするはずが。
(ラララ)科学の子
右
いまというときを元気にする素。
葉陰にキーボードが捨てられて、
だれも叩かなくなって、それでもうたは、
ひとりで自分をたたいている。
六番
ほんとうはおばあさんも、
かけぶとんもやさしいリズムも、
未来志向のキーボードも、
ほんのひととき、詩だったかもしれない。
隠れてそれでも、うたいたいのかも。
五番「左」はあいかわらず鉄腕アトムにこだわっている。「左」は何だろう。「いまというときを元気にする素」というのは「うた」の定義なのか。なぜ、「げんきにする」ことができる? 「ひとり」で自己証明できるから? 五七五七七なら短歌と言ってしまえるから、だれのことも気にせずに、ただそのリズムをまもって自己存在を証明できるから?
まあ、こんなことは考えてもわからない。
それよりも、
再び出てきた「葉」と「キーボード」に注目するべきなんだろうなあ。
「キーワード」には二種類ある。頻繁に出てくるものと、ずっと隠れていて、ある瞬間、一回だけ仕方なしに出てくるもの。「葉(裏)」と「キーボード」は頻繁に出てくる藤井のキーワードということになる。
これとは別に、どこかで一回だけ出てくるキーワードがあるはずだ。それは「なぜ、葉裏なのか」「なぜ、キーボードなのか」という「問い」を「答え」に転換することばなんだろうけれど、私にはまだそれが何かわからない。まだ出てきていない。もしかすると、すでに出てきてしまっているかもしれない。
で、「六番」。
ここだけ「左」「右」がない。「うたあわせ(歌合戦)」なのに対抗していない。とけあって、ひとつになっている。
「うた(短歌)」も「詩」だったのかもしれない。
それまでは「詩」を「短歌」に整えられるまえの形とみてきたが、そういう見方だけでは不十分。「うた」は「ほんのひととき」(整えられるまえ?)は「詩」だったかもしれない。
「うた」と「詩」は、どこかで行き来している。
「おばあさん」「かけぶとん」「キーボード」という「比喩」。「比喩」がうまれてきた瞬間、そこに「詩」があった。そして「比喩」が五七五七七のリズムに整えられたとき「うた」になった。「うた」は五七五七七も守っているが、その前の「比喩」(詩の素)をこそ「うたいたい」のかも。
「うたあわせ」という形式を借り、「詩」と「短歌」を向き合わせながら、ふたつの関係を、そんなふうにとらえているのかもしれない。
というような「結論」を書いてしまっては、いけないんだよなあ。
きょうの反省。
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