監督 ニコラ・ブナム 出演 ジョゼ・ガルシア、アンドレ・デュソリエ
予告編を見たとき、ロバート・ダウニー・ジュニアがなぜフランス映画に、と思っていたが、フランス人だった。ジョゼ・ガルシア。というようなことは、どうでもいいことだけれど。
まあ、いい加減なストーリーなのだけれど。
なるほどフランス人というか、フランス人以外は、こんな行動をしないなあ。行動が、とってもとってもとっても「フランス個人主義」。
フランス個人主義というのは、人間の関係が常に「一対一」。「個人対個人」。絶対に「組織対個人」というような動きがない。「一対一」のなかで「自己主張」をする。いいかえると「わがまま」になる。
新車を買った。その新車が故障し、高速道路を暴走する。これって、基本的にメーカーの問題。メーカーの責任。でもフランスでは販売員(ディーラー)と運転者のあいだで「問題」が動き始める。販売店すら出て来ない。メーカーなんて、もちろん出て来ない。メーカーの製造責任なんて、どこにも出て来ない。
ジョゼ・ガルシアが演じる整形外科医と患者の関係も同じ。医療ミス(?)というのは病院の問題だけれど、そのことに関する追及はない。
車の暴走の、最初の被害者も、被害を警察に訴える、というような悠長なことをしない。「頭に来た、復讐してやる」と個人で行動する。その「事故」の背景に何があるかなんて、もちろん考えたりはしない。まわりで何が起きているか、そんなことは気にしない。自分の「感情」を優先する。(彼がずっーと映画のなかでは脇役のまま無視されるのは、主人公たちからは「一対一」の関係になっていないからだ。車を壊したのは主人公たちの車だけれど、一家は自分のことに夢中になっていて、彼が存在することを知らない。ほかのひとも、もちろん知らない。彼だけが、最初から最後まで、だれとも「一対一」の関係になれない。)
警察組織も同じ。暴走する車を助けに行くのは個人。二人なんだけれど、二人は恋人同士。二人で何とかしようとする。「一組」という「一」になって、「家族」の「一」と向き合う。
最終的に、組織が動き、ヘリコプターも出動するのだけれど、組織がどう動いたかなどはまったく描かれない。事故に気づいた警官が、直属の上司に対して「早く手配しないと、上層部に訴えるぞ」と言うくらい。これだって、組織というよりは、警官対直属の上司、警官隊上司の上司という構造をチラつかせるくらいで、組織そのものが問題に取り組むということではない。直属の上司は、部下との関係をピンポンの勝負(一対一の戦い)で支配している。組織なんて、少しも考えていない。「私の方がピンポンが強い。だから上司なのだ」という感じ。
フランス人がおもしろいのは、こういう個人対個人という個人主義を生きているくせに(生きているからかもしれないが)、その個人対個人に個人が口をはさむ。あ、その問題なら、私が知っている、という感じ。これが、ことをややこしくする。また、どういうことでも「個人」の問題にして処理してしまうとも言えるけれど。
イギリス個人主義の場合は、誰もが知っていることでも、問題の個人が「ことば」で語らない限り、絶対に、その関係に入り込まない。コメントしない。
だから、というのはちょっと「強引」に聞こえるかもしれないけれど。
映画の最初の方のシーンに、とてもおもしろいキーワードが出てくる。父親(ジョゼ・ガルシア)が娘に向かって、「家に置いていくぞ」と脅す(?)。すると娘は「よかった、やっと一人になれる」と言う。どんな「一人」も常にだれかと「一対一」であることを要求される。だれかと「一対一」であることを拒絶して生きることができない、というのがフランスの個人主義なのである。完全な「孤独」を許されない。
あ、脱線しすぎたかな。
ストーリーに戻って「一対一」の「個人主義」に関して言うと。
フランスの車の運転というのは、もう、勝って気まぐれ。だれもルールを守らない。くねくねくねくね、隙間を見つけて走り回る。これはね、複数の車が「一本」の道路を走っているという感覚がないから。自分の車が走っている。そして、近くにまた別の車が走っているが、それは「自分の車対他人の車」だけの関係。ここで路線を変更して追い抜いたら他の車にも影響する、というようなことは考えない。自分が安全なら、他人の危険なんかどうだっていい。他人の安全が自分の安全につながるなんて、考えない。知ったことではない、というのがフランス人なんだなあ。
こんなふうだと社会がでたらめになる?
そうとも言えない。「一対一」を最優先するから、それでは「複数」がいるときはどうするかというと「暗黙の了解」がある。
暴走する車からの救助では、最初に少女、次にその弟、そのあと若い娘という具合に順番が決まっている。だれも、何の相談もしない。母親は妊婦なのに、ほっておくのか、という問題が入り込むかもしれないが、これだって走る車から走る車への移動はむずかしい、ヘリコプターにまかせよう、ということが、もう「事前に」決まっている。
基本的なルールが揺るがないから、「一対一」の「わがまま個人主義」がいきいきと動く。
監督はフランス人の「わがまま個人主義」を描きたかったわけではないだろうけれど、私には、「フランス個人主義」の見本市のように見えた。
(KBCシネマ1、2017年08月02日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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予告編を見たとき、ロバート・ダウニー・ジュニアがなぜフランス映画に、と思っていたが、フランス人だった。ジョゼ・ガルシア。というようなことは、どうでもいいことだけれど。
まあ、いい加減なストーリーなのだけれど。
なるほどフランス人というか、フランス人以外は、こんな行動をしないなあ。行動が、とってもとってもとっても「フランス個人主義」。
フランス個人主義というのは、人間の関係が常に「一対一」。「個人対個人」。絶対に「組織対個人」というような動きがない。「一対一」のなかで「自己主張」をする。いいかえると「わがまま」になる。
新車を買った。その新車が故障し、高速道路を暴走する。これって、基本的にメーカーの問題。メーカーの責任。でもフランスでは販売員(ディーラー)と運転者のあいだで「問題」が動き始める。販売店すら出て来ない。メーカーなんて、もちろん出て来ない。メーカーの製造責任なんて、どこにも出て来ない。
ジョゼ・ガルシアが演じる整形外科医と患者の関係も同じ。医療ミス(?)というのは病院の問題だけれど、そのことに関する追及はない。
車の暴走の、最初の被害者も、被害を警察に訴える、というような悠長なことをしない。「頭に来た、復讐してやる」と個人で行動する。その「事故」の背景に何があるかなんて、もちろん考えたりはしない。まわりで何が起きているか、そんなことは気にしない。自分の「感情」を優先する。(彼がずっーと映画のなかでは脇役のまま無視されるのは、主人公たちからは「一対一」の関係になっていないからだ。車を壊したのは主人公たちの車だけれど、一家は自分のことに夢中になっていて、彼が存在することを知らない。ほかのひとも、もちろん知らない。彼だけが、最初から最後まで、だれとも「一対一」の関係になれない。)
警察組織も同じ。暴走する車を助けに行くのは個人。二人なんだけれど、二人は恋人同士。二人で何とかしようとする。「一組」という「一」になって、「家族」の「一」と向き合う。
最終的に、組織が動き、ヘリコプターも出動するのだけれど、組織がどう動いたかなどはまったく描かれない。事故に気づいた警官が、直属の上司に対して「早く手配しないと、上層部に訴えるぞ」と言うくらい。これだって、組織というよりは、警官対直属の上司、警官隊上司の上司という構造をチラつかせるくらいで、組織そのものが問題に取り組むということではない。直属の上司は、部下との関係をピンポンの勝負(一対一の戦い)で支配している。組織なんて、少しも考えていない。「私の方がピンポンが強い。だから上司なのだ」という感じ。
フランス人がおもしろいのは、こういう個人対個人という個人主義を生きているくせに(生きているからかもしれないが)、その個人対個人に個人が口をはさむ。あ、その問題なら、私が知っている、という感じ。これが、ことをややこしくする。また、どういうことでも「個人」の問題にして処理してしまうとも言えるけれど。
イギリス個人主義の場合は、誰もが知っていることでも、問題の個人が「ことば」で語らない限り、絶対に、その関係に入り込まない。コメントしない。
だから、というのはちょっと「強引」に聞こえるかもしれないけれど。
映画の最初の方のシーンに、とてもおもしろいキーワードが出てくる。父親(ジョゼ・ガルシア)が娘に向かって、「家に置いていくぞ」と脅す(?)。すると娘は「よかった、やっと一人になれる」と言う。どんな「一人」も常にだれかと「一対一」であることを要求される。だれかと「一対一」であることを拒絶して生きることができない、というのがフランスの個人主義なのである。完全な「孤独」を許されない。
あ、脱線しすぎたかな。
ストーリーに戻って「一対一」の「個人主義」に関して言うと。
フランスの車の運転というのは、もう、勝って気まぐれ。だれもルールを守らない。くねくねくねくね、隙間を見つけて走り回る。これはね、複数の車が「一本」の道路を走っているという感覚がないから。自分の車が走っている。そして、近くにまた別の車が走っているが、それは「自分の車対他人の車」だけの関係。ここで路線を変更して追い抜いたら他の車にも影響する、というようなことは考えない。自分が安全なら、他人の危険なんかどうだっていい。他人の安全が自分の安全につながるなんて、考えない。知ったことではない、というのがフランス人なんだなあ。
こんなふうだと社会がでたらめになる?
そうとも言えない。「一対一」を最優先するから、それでは「複数」がいるときはどうするかというと「暗黙の了解」がある。
暴走する車からの救助では、最初に少女、次にその弟、そのあと若い娘という具合に順番が決まっている。だれも、何の相談もしない。母親は妊婦なのに、ほっておくのか、という問題が入り込むかもしれないが、これだって走る車から走る車への移動はむずかしい、ヘリコプターにまかせよう、ということが、もう「事前に」決まっている。
基本的なルールが揺るがないから、「一対一」の「わがまま個人主義」がいきいきと動く。
監督はフランス人の「わがまま個人主義」を描きたかったわけではないだろうけれど、私には、「フランス個人主義」の見本市のように見えた。
(KBCシネマ1、2017年08月02日)
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