詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)

2017-08-17 09:41:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「鳥虫(ちょうちゅう)戯歌から」と「鳥獣戯画」は関係があるか。まあ、あるのだろう。でも、どんな関係か、私にはわからない。「鳥獣戯画」は教科書で見た程度で、具体的な感想がない。動物が人間のように遊んでいる。人間の遊びを動物で描いてみせたのかな?
 でも、こんな「ちょっとした印象」が、どういうわけか詩を読むときに影響してくるからおそろしい。
 詩の書き出しを読んだだけで、ふーん、なるほど、と私は思ってしまったのだ。

そっと、かげを映す能舞台に、
古典短歌を置くひと。
ははは、と笑う、
また鳴いている。 編集後記に、
鈴虫の声を置くひと。

 どこが「鳥獣戯画」か。「置くひと」と「置くひと」の重なりが「鳥獣戯画」である。違う人間が同じ「置く」という動きをしている。「動詞」が同じ。(あるいは同じ人間(ひとり)がふたつの場で「置く」という動詞を繰り返しているのかもしれない。)
 ウサギが相撲を取る。人間が相撲を取る。同じ「相撲を取る」がウサギと人間に共通するように、動詞が同じ。
 もちろん「古典短歌を置くひと」の「置く」と、「鈴虫の声を置くひと」の「置く」は内容的には違うだろう。「古典短歌を置くひと」というのは、能舞台を身ながら古典短歌(万葉集とか、古今集とか)を思い出し、能の内容(動き)をつかみ直しているということだろう。「鈴虫の声を置くひと」というのは編集後記に「秋になった、鈴虫の声を聞いた」というようなことを書いたということだろう。
 でも、「古典短歌を置く」ことによって、そこから「能」以外のところへ「意味領域」をひろげようとした。あるいは「古典短歌」の「意味領域」を「能」からインスピレーションを得てひろげようとしたと考えることができる。「鈴虫の声を置く」ことによって、そこから「雑誌(?)」にとりあげているテーマとは違う領域へ視線をひろげようとしたと考えると、どちらも「意識を違うところまで拡大しようとした」というストーリー(意味)」として「共通性」をつかまえることができるかもしれない。
 どちらがウサギでどちらが人間か。どちらでもいい。

 そのあいだの「ははは、と笑う、」というのはだれかなあ。「古典短歌を置くひと」、それとも「鈴虫の声を置くひと」? 読点「、」でつながっているから、文法的には後者だね。
 でもそうではなくて、「ひと」ふたりを向き合わせるかたちで「置いたひと」、つまり藤井かもしれない。違うことをしているひとを、同じ動詞で結びつけて、そこから何かを考えようとしている藤井だろうなあ。あるいは先に「補足」に書いたように、二人は同一人物であって、二人をつなぐ藤井と合わせて「三位一体」ということかもしれない。

遂げることばと、
「何ができるか」の韻律。

という二行を挟んで、詩は、こうつづく。

謡うキーボードを、
笛柱に掛けて、
鳥の砂嘴で、
打つ葉のうら。
あ、と打てば、
「は」の鳴りを、
は、と鳴らせば、
「あ」の、
返信。 ははあ、窓から、
そらの交信を聴くのは愉しいな。

 「ことば」と「韻律」が、文字入力(キーボードを打つ)と「鳴り(音)」となって動いている。この部分は、先に読んだ「葉裏のキーボード」といくぶん重なっている印象もある。
 ここにも「鳥獣戯画」の「構図」(比喩の中で世界が重なる)が反映しているかもしれない。
 で。
 私は、この詩では「交信」ということばに、とても興味を持った。
 誰かがメールし、それに返信がある。それからまたその返信を打つ。そういうことを「交信」と言うのだが。
 そうか、藤井の関心は「交信する」ということなんだな。
 私の直感は、そう言っている。
 「古典短歌を置くひと」と「鈴虫の声を置くひと」も交信している。ふたりは直接「交信」していないかもしれないが、あいだに藤井が入ると「交信」が成立してしまう。
 「口寄せ」というのも「交信」だなあ。そこにいない誰かのかわりに、藤井が「語る」。「交信」を担うのが藤井なのだ。
 かけ離れたものを結びつけるのが「現代詩」という定義があるが、それにならって言えば、藤井はかけ離れた存在を「交信させる」。ことばで「交信」をつくりだすということをしているのだろう。
 このときの「交信」の手段にはいろいろあるが、藤井は「韻律」に重きを置いている。「鳴る」という動詞といっしょにあるもの。「声」といっしょにあるもの。だからこそ「聴く」という動詞がつかわれるのである。
 「読む(見る)」のではなく「聴く」。
 「見る(見える)」という動詞も、この詩の中にあるのだが、「聴く」ということば、そのまわりに鳴っている「音」が美しいので、「聴く」(声/語る)というのが藤井のことばの基本なのだろうなあと感じる。
 日常、さまざまな場所で聴く「声(音)」、それが藤井には「交信」しているように感じられる。かけ離れたことばが、藤井を媒介にして「交信」している。そのことを書きたいのだ。

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