詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)

2017-08-28 09:11:53 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(16)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「オルタナティヴ」とは何か。こんなことばを話す人が私の周囲にはいないので、私には何のことかわからない。わからないけれど、考えることはできる。そのことばがつかわれている「作品」を読んで。
 きのう私は「オルタナティヴ」というタイトルの詩を読みながら、文体としてのオルタナティヴということを考えた。藤井がつかっていることばを借りていえば「反論しつづける」文体としてのオルタナティヴである。
 あることがらについて言われている「定説」がある。「流通言語」がある。それに対して「反論しつづける」。反論することで「定説」をひっかきまわし、「流通言語」がとらえているものとは違うもの、別のものを選びとって、それ「自説」として展開する。
 具体的に言いなおすと。
 石川淳の「焼跡のイエス」では、石川淳は、どうみても汚らしい浮浪児を「イエス」として呼んだ。「浮浪児」という「定説(流通言語/既成概念)」で少年をつかみとるのではなく、汚れを洗い落とす存在として浮かび上がらせた。この「イエス」を「表象」とよぶことができるが、それはオルタナティヴの運動の結果である。「流通概念(言語)」ではとらえきれていない何かを選び続ける文体が、「表象」としての「イエス」に収斂していく、と私は読んだ。
 これは「誤読」である、と私は承知している。私の「オルタナティヴ」の定義は「流通定義」とは違っていることは、わかっている。わかっているけれど、私は私の「誤読」をさらにそのまま推し進めたい。

 「アメリカ」は文字通りアメリカを描いた詩である。しかし、アメリカとは何か。すでにいくつもの「流通言語」がある。一方、特異な定義のアメリカもある。たとえば、この詩のなかでは、鮎川信夫が出てくる。小田実が出てくる。彼らは彼らのことば(文体)でアメリカをとらえている。鮎川にしか見えなかったアメリカ、小田にしか見えなかったアメリカ。それが独自の「文体」でとらえられている。この文体の「独自性(オリジナル)」を生み出しているものとしてのオルタナティヴというものがある。世界から何を選び、何を描くか。文体そのものと連動する。
 私の書いていることは、昔はやった「ゲシュタルト」ということに近いかもしれない。ただ、ゲシュタルトというとき、「文体」の射程距離が長い。オルタナティヴは至近距離という感じがする。言い換えると、「遠い結論」を想定しているというよりも、身近な問題の答えを、「結論」を考慮せずに選びとっているという感じ。--こういうことを考えるとき、私は石川淳や森鴎外のことを考えているのかもしれない。石川淳の散文も森鴎外の散文も、「結論(結末)」を想定せずに、目の前にあるものと正直に向き合うことで突き進んでいる。
 あ、なかなか藤井の作品にたどりつけないので、端折ってしまうが、この「結論」を想定しないで、目の前にあるもの(出会ったもの)に向き合いながら、ただ自分のことばを探し出す(選び取る)という運動として、藤井の「アメリカ」は書かれていると私は感じる。

ホピの人々に会いにゆく、
でもかれらのテープには、
風だけがはいっていた。
ニューヨークの路上で、
すこし話を交わして別れた。

 「ホピの人々」というのは誰か。私は無知なので見当もつかないが(前後の文脈のなかでは、ネイティブアメリカンの一族という印象があるが)、藤井はそのひとたちと話した。何か語られたはずだが、藤井は話の内容よりも「風(の音?)」が印象に残った。ホピの人々が風について語ったのかもしれないが、そのことばよりも「風」という「もの」の方が藤井に迫ってきた。ことばよりも、内容よりも、藤井は「風」を選んで、それにつながることばを探す。

ブラックマウンテンから、
アメリカ合衆国がウランを採掘して、
広島市・長崎市に投下された、
原子爆弾の原料にもなったと、
一説では言われている。
母なる大地の内臓を、
えぐってはいけないと言う。

 「風」は「大地」を呼ぶ。つまり「自然」を。あるいは「宇宙(世界)」を。
 そして、それが「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということば、たぶんホピの人々のことばを選び出す。ホピの人々はもっとたくさんのことばを話しただろうけれど、そのなかからそのことばを選び出し、それにつらねるように「ウラン採掘」「原子爆弾」ということばをも選び出す。
 この選び出しの順序は、いま私が書いた順番とは違うかもしれないが、それは瞬間的な噴出のように思える。選び出したのか。ことばが噴出してきて、それを藤井がつかまえたのか。あいまいなところというか、区別できないところが、詩の「命」だろうと思う。
 この「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」は、

黒人兵のバーから、
ベトナム兵の、
ひからびた指を米本土まで持ち帰ってどうする。

 というようなことばとも呼応する。
 「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」ということばがなくても、この三行は書かれたかもしれないが、先に「母なる……」を書くことで「黒人兵の……」ということばが選び取られたという気がするのである。
 もちろんこれは私の単なる直感のようなものであって、藤井は違うことを考えてそうしたのかもしれない。私の推測には何の根拠もない。つまり私の書いていることは「論理的」ではないのだが、感想というものはもともと論理的ではないものだろうから、私は気にしないのである。
 この詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。藤井はそういうことばを「選び」ながら、いままで見えなかったものを見ようとしている、と私は直感する。

小田実(まこと)はグラウンド・ゼロの土に、
小便をする(HIROSHIMA)。
この小便をおぼえていてくれ。

 こういう部分も、私には「母なる大地の内臓を、/えぐってはいけない」に通じるものを感じる。「母なる大地の内臓に/HIROSHIMAをしみこませる」。そうすることで、「大地」を健康にする。「小便」は「軽蔑」ではなく、「肥やし」なのだ。あらゆる大地はHIROSHIMAを肥やしにしてゆたかになってゆかねばならない。HIROSHIMAを肥やしにして、ひとは生きていかなければならない。
 そういう「声」に藤井は共感し、それを「選び」詩に取り込み、文体を完成させる。

 私の書いたことは「意味」に偏りすぎているかもしれない。藤井は「意味」ではなく、「音」そのものを「選び」、詩に組み込み、詩をゆたかにしている。そういうことも私は直感として感じるのだが、これはなかなか説明しにくい。
 オルタナティヴの瞬間に、「音」が藤井を突き動かしていると私は感じるとしか言いようがない。
 この詩の最初の三行の、

風だけがはいっていた。

 は「風の音だけがはいっていた」だと思う。「音」は藤井にとって「肉体(思想)」そのものであり、藤井にとっては「自明」すぎるので省略してしまうのだと思う。

 さらに、ここからこれまで読んできた詩を振り返ると。
 何篇かあった「回文詩」、あれは「音のかたまり」のなかから「何を選ぶか」ということと関係していると思う。「反論する」という形をとるわけではないが(論理を問題にしているわけではないが)、「既成のことば(音の並び)」反転させつづけることで、違う「意味」を引き出す、選び出すという作業だと思う。
 「意味」よりも前に「音」がある。「音」を聞いて、その「音」から「意味」を選び出すという「文体」なのだ。「音」が藤井の文体の基本にあるのだと思う。

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