詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「豊旗雲」ほか

2017-08-26 10:23:06 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「豊旗雲」ほか(「森羅」6、2017年09月09日発行)

 池井昌樹「豊旗雲」の全行。

どこへゆこうとしていたんだろう
このぼくは
どこへゆこうとしていたんだろう
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげながらかんがえる
いろんなやまやたにをこえ
みちなきみちをみちとして
あるときはひつじのすがた
またあるときはいわしやうろこ
いまとよはたにてりはえながら
くっきりかげをおとしている
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげているかげひとつ
おきざりにして
どこへゆこうとしているんだろう
あのくもは
どこへゆこうとしているんだろう

 一行目の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「このぼく」。ところが最後の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「あのくも」。風呂上がりに雲を見ているうちに主語が交代する。「ぼく」が「くも」になってしまう。「この(近く)」が「あの(遠く)」になる。
 これが、とても自然。
 誰でも何かを見ていて放心するということがあると思う。「放心」の定義はむずかしいが、「こころ」が自分から「放れていく」ということ。「放れて行った」こころは、どうなるんだろう。何かを見つけ、そこに住みつく。「ぼくのこころ」が「何かのこころ」になって生きているのを見る。
 それは、もうひとりの「ぼく」の可能性かもしれない。

 「帰郷」は、こう書かれている。

これがぼくだとおもえるぼくが
このよのどこかにひとりいて
これがぼくだとおもいながら
よろこびにうちふるえたり
かなしみにうちひしがれたり
このよにいきているのだけれど
これがぼくだとおもえるぼくは
きえてなくなることがあり
これがぼくだとおもえるぼくが
もうあらわれないそのときから
はじめてそらをくもがながれる
はじめてほしはまたたきかける

 繰り返される「はじめて」が美しい。「はじめて」を動詞として言いなおすと「生まれる」。「ぼく」は雲や星として「はじめて」生まれてくる。生まれ変わるのである。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)

2017-08-26 08:43:56 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(14)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「倭人伝は草へ帰る--日本史」の書き出し。

あかつきの物語が終って 倭人伝は草へ帰る

 タイトルはここから取られている。どういう意味だろう。二行目は、

さびしさの 表情ゆたかに歴史の筐で息絶える古代史

 ここまで読んだだけではわからない。
 でも「倭人伝は草へ帰る」と「息絶える古代史」は同じことだろうなあ、と思う。「草へ帰る」は「自然に帰る」というよりも「土に帰る」に似ている(と、私はかってに思う。つまり「誤読」する)。死んで土に帰る。死んでは「息絶える」。
 とはいうものの。
 ことばの「力点」は「息絶える/死ぬ」ではなく、「表情ゆたか」の方だろうなあ。「表情ゆたか」というのは「さびしさ」とは反対のような気がするが、反対だからこそ「表情ゆたか」を引き立てる。色で言えば「補色」。
 同じことが一行でも言えるなあ。「あかつき」というあかるいもの、これから始まるものが「終わる」という動詞と結び対いてる。そのとき、やはり「補色」に触れたように「あかつき」がより鮮明になる。
 「終わる」「帰る」「息絶える」と動詞はどれも否定的(?)な「意味」を持っているのに、なぜか、逆に「始まる」「行く(出発する)」「生まれる」という感じがつたわってくる。「補色効果」だ。「あかつき」「表情ゆたか」という「意味」だけではなく、ことばの「音」そのものが「消えていく」というより、「増えてくる」(増殖する)という感じの「活気」を持っている。まあ、これは、私の印象だから、違う印象をもつひともいるだろうけれど。
 で。
 「息絶える古代史」と書かれているのだが、どうも逆に「古代史が生まれる」という感じがする。いわゆる「学校教育」でいう「歴史(古代史)」は「終わる/消える」のかもしれないが、「教科書」から逸脱していく「古代史」が動き始めると言えばいいのか。
 「古代史」が始まるといっても、「古代」の見直しというのではなく、「新しい古代」を出発点に「新しい歴史」が始まるといえばいいのかなあ。

さきをゆく水軍のあとの白波 偽造の集成される内海文書(ないかいもんじょ)
群書類従(るいじゅう)がびしょぬれで歴民博へたどりつく ない城壁に
のろしの火を塗る 学芸員の手腕がもっとも問われるところ

 「さきをゆく水軍のあとの白波」の「さき」とあと」の組み合わせがやはり「補色」だが、「教科書の歴史」の「補色となる別の歴史」というものが、さまざまな文書の読み直しをとおして始まる。読み直しは「学芸員の手腕」ということばであらわされていると思う。
 「教科書の歴史」をはみだしている「歴史」が、いたるところにある。それをどうやっていきいきと動かし「歴史」として生み出すか。いや、生み出せるか。
 丸山真男や吉田茂も登場したあと、最後の四行はこう書かれる。

歴史はどんな時代にも生産されつづけたのであり
アートの試み映画演劇 小田さん(実)の「何でも見てやろう」
身を躍らせていた仮面よ それらの
芸能史をどう評価してゆくか 歴史の最難関

 「歴史」はたいがいが「権力の変遷」の歴史である。そこではある権力が誕生し、また滅んで行く。その周辺に動いている「非権力(庶民)」の歴史はなかなかストーリー(意味)にはならない。「教科書」には書かれない。けれども、そこにも「歴史」はある。ひとの暮らしがあり、暮らしをいろどる「芸能」がある。
 「芸能」のなかで、ひとは何をしているのだろう。何のために「芸能」にかまけるのか。

 詩も(文学も)、どこかで「芸能」と通じているはずである。
 一方、「権力」の「文学」というものがある。「万葉集」や「古今集」には「読み人知らず」の歌もあるが、基本的には「権力者」の歌が「歴史」をつくっている。
 それはそれとして、藤井は「別の歴史」にも目配りをしている。「教科書」にはない「歴史」を掘り起こそうとしている。そういう「願い」をこの詩のなかで語っているように思う。「権力」に与しない詩を書こうとしている。「権力」にくみしないことばの響きを甦らせようとしている。
 「ストーリー(意味)」にならないように、瞬間瞬間の、イメージの炸裂として書いているように感じられる。

日本文学源流史
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