池井昌樹「豊旗雲」ほか(「森羅」6、2017年09月09日発行)
池井昌樹「豊旗雲」の全行。
一行目の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「このぼく」。ところが最後の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「あのくも」。風呂上がりに雲を見ているうちに主語が交代する。「ぼく」が「くも」になってしまう。「この(近く)」が「あの(遠く)」になる。
これが、とても自然。
誰でも何かを見ていて放心するということがあると思う。「放心」の定義はむずかしいが、「こころ」が自分から「放れていく」ということ。「放れて行った」こころは、どうなるんだろう。何かを見つけ、そこに住みつく。「ぼくのこころ」が「何かのこころ」になって生きているのを見る。
それは、もうひとりの「ぼく」の可能性かもしれない。
「帰郷」は、こう書かれている。
繰り返される「はじめて」が美しい。「はじめて」を動詞として言いなおすと「生まれる」。「ぼく」は雲や星として「はじめて」生まれてくる。生まれ変わるのである。
池井昌樹「豊旗雲」の全行。
どこへゆこうとしていたんだろう
このぼくは
どこへゆこうとしていたんだろう
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげながらかんがえる
いろんなやまやたにをこえ
みちなきみちをみちとして
あるときはひつじのすがた
またあるときはいわしやうろこ
いまとよはたにてりはえながら
くっきりかげをおとしている
ひとふろあびてはだかのままで
そらみあげているかげひとつ
おきざりにして
どこへゆこうとしているんだろう
あのくもは
どこへゆこうとしているんだろう
一行目の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「このぼく」。ところが最後の「どこへゆこうとしていたんだろう」の主語は「あのくも」。風呂上がりに雲を見ているうちに主語が交代する。「ぼく」が「くも」になってしまう。「この(近く)」が「あの(遠く)」になる。
これが、とても自然。
誰でも何かを見ていて放心するということがあると思う。「放心」の定義はむずかしいが、「こころ」が自分から「放れていく」ということ。「放れて行った」こころは、どうなるんだろう。何かを見つけ、そこに住みつく。「ぼくのこころ」が「何かのこころ」になって生きているのを見る。
それは、もうひとりの「ぼく」の可能性かもしれない。
「帰郷」は、こう書かれている。
これがぼくだとおもえるぼくが
このよのどこかにひとりいて
これがぼくだとおもいながら
よろこびにうちふるえたり
かなしみにうちひしがれたり
このよにいきているのだけれど
これがぼくだとおもえるぼくは
きえてなくなることがあり
これがぼくだとおもえるぼくが
もうあらわれないそのときから
はじめてそらをくもがながれる
はじめてほしはまたたきかける
繰り返される「はじめて」が美しい。「はじめて」を動詞として言いなおすと「生まれる」。「ぼく」は雲や星として「はじめて」生まれてくる。生まれ変わるのである。
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