清岳こう『つらつら椿』(土曜美術社出版販売、2017年07月06日発行)
清岳こう『つらつら椿』の詩篇は「椿の名前」をタイトルにしている。私は椿のことは知らない。名前をきいても花を思い出せないし、花を見比べても違いがわかるかどうか見当もつかない。
あ、困った、と思いながら読むのだが。
詩は、椿の花について書いているわけではない。たとえば「紅神楽」という作品は、こんな感じ。
「山田先生」のことを書いている。「ながれゆく」から後の部分は、三連目でこう書き直されている。
なぜそれが「現在」であり「今日」なのか。人間は変わらないものだからである。どんなふうに変わらないかというと、「いま」を楽しむ、「いま」を生きるのが人間である。「未来(計画)」などを生きるのではない、ということ。
それを、どう、現実にはつたえるかというと。
あるときの体育祭。まあ、高校生ははめをはずすものである。
「現在」「今日」までつづく体育祭を守った。若者は(高校生は)反抗するもの。権威を否定するもの。そうやって生きている。その力を奪っては、教育を放棄すること。とは、書いてはいないのだけれど、まあ、そうなんだろう。そう思う。
清岳は、そういう山田先生のような人間をていねいに描いている。椿とそこに描かれた人とのあいだにどういう関係があるのか、よくわからない。花がわかるひとは、関係がわかるかもしれないけれど、よっぽど花に詳しくない限り、いや、それはこの椿ではなく、あの椿ではないか、とは言えないだろう。
で、思うのだが。
そのほんとうにわかる人にもわかるかどうかわからないことを、きちんと書いているのがとてもおもしろい。
いろいろな人が出てくる。その人たちは、書かれていることばを読めば確かにひとりひとり違う。けれど、思い出すと、えーっと、どの人だったかなあ、と私なんかは思ってしまう。
詩を書いた清岳に申し訳ないという気持ちもあるが、心底申し訳ないわけでもない。だって、私には関係ない人なんだから。区別がつきようがない。区別がつかないけれど。
ほら、椿が30種類以上も並んでいるのを見たとして、そのあと、その30種類を思い出せる? 思い出せないよね。あ、きれいな椿が並んでいた。あの椿、それぞれにひとつひとつ名前がついているんだよな。というようなことをぼんやり考える。あの白い椿よりも、赤い椿の方が強い感じがしたな、とかなんとかテキトウに振り返ったりする。
それでいいんだと私は思う。
それ以上のことを思うと、嘘になる。
椿にはひとつひとつ名前がある。人間にもひとりひとり名前がある。それは、思い出したり、思い出さなかったり。あるいは忘れてしまったり。きょうはあの人を思い出し、あすは別な人を思い出す。そういう具合に、この詩集は読めばいいんじゃないだろうか、と思う。
清岳はもっと思い出してよ、というかもしれないけれどね。
清岳こう『つらつら椿』の詩篇は「椿の名前」をタイトルにしている。私は椿のことは知らない。名前をきいても花を思い出せないし、花を見比べても違いがわかるかどうか見当もつかない。
あ、困った、と思いながら読むのだが。
詩は、椿の花について書いているわけではない。たとえば「紅神楽」という作品は、こんな感じ。
日曜・祭日は産土神社の神主
平日は桑畑のなかの高校教師
けれど 山田先生の日本史は
ながれゆく「時間」でも
さかのぼる「時代」でもなかった
菊池川にうずまく「現在」だった
有明の海によせてはかえす「今日」だった
「山田先生」のことを書いている。「ながれゆく」から後の部分は、三連目でこう書き直されている。
山田先生の楽しみは
机に並べた古代を聴くこと
甕のかけらは死者を抱きしめ ぶつくさつぶやき
にぶく光る矢じりは少年と鹿を追い落ち葉をふみしめ
職員会議中でも
まどかな石包丁は稲田をわたる乙女たちの歌を歌い
そのあとにつづく
乱世 爛熟 飢饉 富国強兵などとも無縁だった
なぜそれが「現在」であり「今日」なのか。人間は変わらないものだからである。どんなふうに変わらないかというと、「いま」を楽しむ、「いま」を生きるのが人間である。「未来(計画)」などを生きるのではない、ということ。
それを、どう、現実にはつたえるかというと。
あるときの体育祭。まあ、高校生ははめをはずすものである。
まして 今回の借り物競走
あきれたことには 校長の手を取りゴールを駆けぬけ
あろうことか プールに投げ込み英雄きどり
あれもこれも 百害あって一利なし
伝統も何もあったものじゃない
今後 体育祭中止! 永久に 体育祭中止!
が職員会議で通過しそうになった時
トンカラリン遺跡の暗がりをぬくりあげ
山田先生がすっくと立ちあがり
巨体をふるわせ バカヤロウと叫び
「現在」「今日」までつづく体育祭を守った。若者は(高校生は)反抗するもの。権威を否定するもの。そうやって生きている。その力を奪っては、教育を放棄すること。とは、書いてはいないのだけれど、まあ、そうなんだろう。そう思う。
清岳は、そういう山田先生のような人間をていねいに描いている。椿とそこに描かれた人とのあいだにどういう関係があるのか、よくわからない。花がわかるひとは、関係がわかるかもしれないけれど、よっぽど花に詳しくない限り、いや、それはこの椿ではなく、あの椿ではないか、とは言えないだろう。
で、思うのだが。
そのほんとうにわかる人にもわかるかどうかわからないことを、きちんと書いているのがとてもおもしろい。
いろいろな人が出てくる。その人たちは、書かれていることばを読めば確かにひとりひとり違う。けれど、思い出すと、えーっと、どの人だったかなあ、と私なんかは思ってしまう。
詩を書いた清岳に申し訳ないという気持ちもあるが、心底申し訳ないわけでもない。だって、私には関係ない人なんだから。区別がつきようがない。区別がつかないけれど。
ほら、椿が30種類以上も並んでいるのを見たとして、そのあと、その30種類を思い出せる? 思い出せないよね。あ、きれいな椿が並んでいた。あの椿、それぞれにひとつひとつ名前がついているんだよな。というようなことをぼんやり考える。あの白い椿よりも、赤い椿の方が強い感じがしたな、とかなんとかテキトウに振り返ったりする。
それでいいんだと私は思う。
それ以上のことを思うと、嘘になる。
椿にはひとつひとつ名前がある。人間にもひとりひとり名前がある。それは、思い出したり、思い出さなかったり。あるいは忘れてしまったり。きょうはあの人を思い出し、あすは別な人を思い出す。そういう具合に、この詩集は読めばいいんじゃないだろうか、と思う。
清岳はもっと思い出してよ、というかもしれないけれどね。
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