監督 ポール・バーホーベン 出演 イザベル・ユペール、ローラン・ラフィット、アンヌ・コンシニ、シャルル・ベルリングリ、ビルジニー・エフィラ
イザベル・ユペールが出ている。舞台はパリ。セーヌ河が登場する。しかし「フランス映画」という感じがしない。フランス人を見ている感じがしない。
なぜなんだろう。
監督がポール・バーホーベンだった。オランダ人だ。そうか、オランダ人から見るとフランス人はこう見えるのか、と思ってしまった。
もし私とポール・バーホーベンとのあいだでフランス人に対する「共通認識」があるとすれば「逸脱力」というものかもしれない。私は、この「逸脱力」をフランス人の「わがまま個人主義」と呼んでいるのだが、ポール・バーホーベンは「わがまま」というよりも「自立性」になるかもしれない。
「わがまま」と「自立性」は、どう違うか。
「わがまま」は簡単に言うと「他人をまきこむ」(他人に頼る部分がある)。「自立性」は「他人をまきこまない」。
この映画に則していうと、たとえばイザベル・ユペールの息子や別れた夫、同僚女性の夫は「わがまま」である。好き勝手なことをしながら、イザベル・ユペールに頼っている。息子が極端な例だが、経済的にはイザベル・ユペールに頼りっぱなしである。そのくせ、自分の主張をする。
同僚の夫なんかもすごいなあ。自分がセックスしたいのに、「おまえの方がセックスしたいんだろう。我慢できないんだろう」というような調子で迫ってくる。これを、許してしまう。受け入れるというよりも、むしろ誘い込んでいる。
ふつうの(?)フランス映画だったら、ここでイザベル・ユペールの方も「わがまま」を発揮して、他人に頼る。他人の人生をかき乱す。
でも、彼女はしない。
レイプされて、犯人を自分で探し出す。それも犯人を警察に突き出すということが目的ではない。ただ犯人を知りたいのだ。どんな欲望が犯人のなかに動いているか、それを突き詰めたいのだ。
これには父親の過去が影響している。父親は残忍な殺人犯である。なぜ、人を殺したのか。その理由はイザベル・ユペールにはわからない。この映画のなかではイザベル・ユペールは父親を受け入れてはいないが、いつも思い出している。そして、「答え」を探している。「答え」と自分との関係を探しているともいえる。
イザベル・ユペールは、わりと簡単に犯人を探し出す。そして、そのあとが、またすごい。犯人と共存する。つまり、レイプを再現する。そして、そのときの自分の欲望をも再確認するのである。
これは、すごい。
すごいし、ぞっとする。
こんなふうに「逸脱」していいのかどうか、私にはわからない。何か、私の感じている「人間」というものから完全に「逸脱」しきっている。
これは一体、なんなんだ。
そう思ったとき、この映画の主人公が携わっている仕事が重要だと気づいた。
イザベル・ユペールはゲームソフトの開発をしている。そのゲームは、何やらレイプシーンがあるというか、セックスと暴力が一体になったものである。そのゲームのセックスが影響している、というのではない。
ゲームは、たぶん一回限りのものではない。リプレイする。なんどもプレイする。そのことが、イザベル・ユペールの「意識」を支配している。リプレイすることで、何かを確かめる。
ふつう、人間は嫌いなことは再現しない。リプレイしない。
けれどイザベル・ユペールにとってはリプレイこそが人生なのだ。生き方なのだ。
彼女の不幸は父親が殺人犯だったことにある。だから、それから逃れるように、父親とは接触していない。けれど、それは表面的なことであって、意識はいつでもリプレイしている。
このリプレイに関係づけていうと、映画の中に非常に興味深いシーンがある。イザベル・ユペールはレイプされたときのことを思い出す。そのなかで彼女は単にリプレイするだけではなく、一度、犯人に反撃する。ただ犯されるのではなく、男を攻撃する。その瞬間、それはリプレイではなくなる。「空想」になる。「現実」ではなくなる。
ここが、たぶん、この映画のポイント。
「現実」を描きながら、どこかで「空想」になっている。「現実」と「空想」の関係のなかで、イザベル・ユペールがもがいている。もがきながら、完全に「自立」している。その「自立」は、異様である。完全に、「人間」を逸脱していると思う。
この「逸脱」を受け入れることができるかどうか。私は受け入れたくない。ぞっとする。だから最初の感想は★2個。こんな映画は嫌い。私の大好きなルノワールの描く人間から、あまりにも遠い。こんなフランス人とは知り合いになりたくない。
でも、実際に感想を書き始めると、イザベル・ユペールがその前で動くのである。生身の人間として目の前にあらわれてくる。だからよけいにぞっとするのだが。
あ、この映画はイザベル・ユペールなしにはできなかったなあと思う。「逸脱」しながら、周囲の人間から浮いてしまわない。「逸脱」しているのに、周囲の人間を「引きつける」。イザベル・ユペールを受け入れるかどうかは、彼女は問題にしていない。彼女が他人を引きつけ、支配する。
レイプというのは男が女を犯すことだが、その瞬間においても、彼女はレイプを受け入れているのではなく、レイプを主導している。支配している。支配できる「犯人」を手に入れ、リプレイする。リプレイを強要する、と言ってもいいかもしれない。
そして、そのことを、どうもイザベル・ユペールは「ゲーム」としてとらえている。すべてを「ゲーム」としてリプレイする。この奇妙な「逸脱」の原因を、父親の殺人にもとめると安易な「心理分析」になってしまう。そういうことをせず、ただ「逸脱」を、目に見える「現実」として描ききっている。
こんな映画は大嫌い。
でも、見ていると引き込まれる。
力業の映画である。
(KBCシネマ1、2017年08月30日)
*
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イザベル・ユペールが出ている。舞台はパリ。セーヌ河が登場する。しかし「フランス映画」という感じがしない。フランス人を見ている感じがしない。
なぜなんだろう。
監督がポール・バーホーベンだった。オランダ人だ。そうか、オランダ人から見るとフランス人はこう見えるのか、と思ってしまった。
もし私とポール・バーホーベンとのあいだでフランス人に対する「共通認識」があるとすれば「逸脱力」というものかもしれない。私は、この「逸脱力」をフランス人の「わがまま個人主義」と呼んでいるのだが、ポール・バーホーベンは「わがまま」というよりも「自立性」になるかもしれない。
「わがまま」と「自立性」は、どう違うか。
「わがまま」は簡単に言うと「他人をまきこむ」(他人に頼る部分がある)。「自立性」は「他人をまきこまない」。
この映画に則していうと、たとえばイザベル・ユペールの息子や別れた夫、同僚女性の夫は「わがまま」である。好き勝手なことをしながら、イザベル・ユペールに頼っている。息子が極端な例だが、経済的にはイザベル・ユペールに頼りっぱなしである。そのくせ、自分の主張をする。
同僚の夫なんかもすごいなあ。自分がセックスしたいのに、「おまえの方がセックスしたいんだろう。我慢できないんだろう」というような調子で迫ってくる。これを、許してしまう。受け入れるというよりも、むしろ誘い込んでいる。
ふつうの(?)フランス映画だったら、ここでイザベル・ユペールの方も「わがまま」を発揮して、他人に頼る。他人の人生をかき乱す。
でも、彼女はしない。
レイプされて、犯人を自分で探し出す。それも犯人を警察に突き出すということが目的ではない。ただ犯人を知りたいのだ。どんな欲望が犯人のなかに動いているか、それを突き詰めたいのだ。
これには父親の過去が影響している。父親は残忍な殺人犯である。なぜ、人を殺したのか。その理由はイザベル・ユペールにはわからない。この映画のなかではイザベル・ユペールは父親を受け入れてはいないが、いつも思い出している。そして、「答え」を探している。「答え」と自分との関係を探しているともいえる。
イザベル・ユペールは、わりと簡単に犯人を探し出す。そして、そのあとが、またすごい。犯人と共存する。つまり、レイプを再現する。そして、そのときの自分の欲望をも再確認するのである。
これは、すごい。
すごいし、ぞっとする。
こんなふうに「逸脱」していいのかどうか、私にはわからない。何か、私の感じている「人間」というものから完全に「逸脱」しきっている。
これは一体、なんなんだ。
そう思ったとき、この映画の主人公が携わっている仕事が重要だと気づいた。
イザベル・ユペールはゲームソフトの開発をしている。そのゲームは、何やらレイプシーンがあるというか、セックスと暴力が一体になったものである。そのゲームのセックスが影響している、というのではない。
ゲームは、たぶん一回限りのものではない。リプレイする。なんどもプレイする。そのことが、イザベル・ユペールの「意識」を支配している。リプレイすることで、何かを確かめる。
ふつう、人間は嫌いなことは再現しない。リプレイしない。
けれどイザベル・ユペールにとってはリプレイこそが人生なのだ。生き方なのだ。
彼女の不幸は父親が殺人犯だったことにある。だから、それから逃れるように、父親とは接触していない。けれど、それは表面的なことであって、意識はいつでもリプレイしている。
このリプレイに関係づけていうと、映画の中に非常に興味深いシーンがある。イザベル・ユペールはレイプされたときのことを思い出す。そのなかで彼女は単にリプレイするだけではなく、一度、犯人に反撃する。ただ犯されるのではなく、男を攻撃する。その瞬間、それはリプレイではなくなる。「空想」になる。「現実」ではなくなる。
ここが、たぶん、この映画のポイント。
「現実」を描きながら、どこかで「空想」になっている。「現実」と「空想」の関係のなかで、イザベル・ユペールがもがいている。もがきながら、完全に「自立」している。その「自立」は、異様である。完全に、「人間」を逸脱していると思う。
この「逸脱」を受け入れることができるかどうか。私は受け入れたくない。ぞっとする。だから最初の感想は★2個。こんな映画は嫌い。私の大好きなルノワールの描く人間から、あまりにも遠い。こんなフランス人とは知り合いになりたくない。
でも、実際に感想を書き始めると、イザベル・ユペールがその前で動くのである。生身の人間として目の前にあらわれてくる。だからよけいにぞっとするのだが。
あ、この映画はイザベル・ユペールなしにはできなかったなあと思う。「逸脱」しながら、周囲の人間から浮いてしまわない。「逸脱」しているのに、周囲の人間を「引きつける」。イザベル・ユペールを受け入れるかどうかは、彼女は問題にしていない。彼女が他人を引きつけ、支配する。
レイプというのは男が女を犯すことだが、その瞬間においても、彼女はレイプを受け入れているのではなく、レイプを主導している。支配している。支配できる「犯人」を手に入れ、リプレイする。リプレイを強要する、と言ってもいいかもしれない。
そして、そのことを、どうもイザベル・ユペールは「ゲーム」としてとらえている。すべてを「ゲーム」としてリプレイする。この奇妙な「逸脱」の原因を、父親の殺人にもとめると安易な「心理分析」になってしまう。そういうことをせず、ただ「逸脱」を、目に見える「現実」として描ききっている。
こんな映画は大嫌い。
でも、見ていると引き込まれる。
力業の映画である。
(KBCシネマ1、2017年08月30日)
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