詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポール・バーホーベン監督「エル ELLE 」(★★★★★)

2017-08-31 12:40:20 | 映画
監督 ポール・バーホーベン 出演 イザベル・ユペール、ローラン・ラフィット、アンヌ・コンシニ、シャルル・ベルリングリ、ビルジニー・エフィラ 

 イザベル・ユペールが出ている。舞台はパリ。セーヌ河が登場する。しかし「フランス映画」という感じがしない。フランス人を見ている感じがしない。
 なぜなんだろう。
 監督がポール・バーホーベンだった。オランダ人だ。そうか、オランダ人から見るとフランス人はこう見えるのか、と思ってしまった。
 もし私とポール・バーホーベンとのあいだでフランス人に対する「共通認識」があるとすれば「逸脱力」というものかもしれない。私は、この「逸脱力」をフランス人の「わがまま個人主義」と呼んでいるのだが、ポール・バーホーベンは「わがまま」というよりも「自立性」になるかもしれない。
 「わがまま」と「自立性」は、どう違うか。
 「わがまま」は簡単に言うと「他人をまきこむ」(他人に頼る部分がある)。「自立性」は「他人をまきこまない」。
 この映画に則していうと、たとえばイザベル・ユペールの息子や別れた夫、同僚女性の夫は「わがまま」である。好き勝手なことをしながら、イザベル・ユペールに頼っている。息子が極端な例だが、経済的にはイザベル・ユペールに頼りっぱなしである。そのくせ、自分の主張をする。
 同僚の夫なんかもすごいなあ。自分がセックスしたいのに、「おまえの方がセックスしたいんだろう。我慢できないんだろう」というような調子で迫ってくる。これを、許してしまう。受け入れるというよりも、むしろ誘い込んでいる。
 ふつうの(?)フランス映画だったら、ここでイザベル・ユペールの方も「わがまま」を発揮して、他人に頼る。他人の人生をかき乱す。
 でも、彼女はしない。
 レイプされて、犯人を自分で探し出す。それも犯人を警察に突き出すということが目的ではない。ただ犯人を知りたいのだ。どんな欲望が犯人のなかに動いているか、それを突き詰めたいのだ。
 これには父親の過去が影響している。父親は残忍な殺人犯である。なぜ、人を殺したのか。その理由はイザベル・ユペールにはわからない。この映画のなかではイザベル・ユペールは父親を受け入れてはいないが、いつも思い出している。そして、「答え」を探している。「答え」と自分との関係を探しているともいえる。
 イザベル・ユペールは、わりと簡単に犯人を探し出す。そして、そのあとが、またすごい。犯人と共存する。つまり、レイプを再現する。そして、そのときの自分の欲望をも再確認するのである。
 これは、すごい。
 すごいし、ぞっとする。
 こんなふうに「逸脱」していいのかどうか、私にはわからない。何か、私の感じている「人間」というものから完全に「逸脱」しきっている。
 これは一体、なんなんだ。
 そう思ったとき、この映画の主人公が携わっている仕事が重要だと気づいた。
 イザベル・ユペールはゲームソフトの開発をしている。そのゲームは、何やらレイプシーンがあるというか、セックスと暴力が一体になったものである。そのゲームのセックスが影響している、というのではない。
 ゲームは、たぶん一回限りのものではない。リプレイする。なんどもプレイする。そのことが、イザベル・ユペールの「意識」を支配している。リプレイすることで、何かを確かめる。
 ふつう、人間は嫌いなことは再現しない。リプレイしない。
 けれどイザベル・ユペールにとってはリプレイこそが人生なのだ。生き方なのだ。
 彼女の不幸は父親が殺人犯だったことにある。だから、それから逃れるように、父親とは接触していない。けれど、それは表面的なことであって、意識はいつでもリプレイしている。
 このリプレイに関係づけていうと、映画の中に非常に興味深いシーンがある。イザベル・ユペールはレイプされたときのことを思い出す。そのなかで彼女は単にリプレイするだけではなく、一度、犯人に反撃する。ただ犯されるのではなく、男を攻撃する。その瞬間、それはリプレイではなくなる。「空想」になる。「現実」ではなくなる。
 ここが、たぶん、この映画のポイント。
 「現実」を描きながら、どこかで「空想」になっている。「現実」と「空想」の関係のなかで、イザベル・ユペールがもがいている。もがきながら、完全に「自立」している。その「自立」は、異様である。完全に、「人間」を逸脱していると思う。
 この「逸脱」を受け入れることができるかどうか。私は受け入れたくない。ぞっとする。だから最初の感想は★2個。こんな映画は嫌い。私の大好きなルノワールの描く人間から、あまりにも遠い。こんなフランス人とは知り合いになりたくない。
 でも、実際に感想を書き始めると、イザベル・ユペールがその前で動くのである。生身の人間として目の前にあらわれてくる。だからよけいにぞっとするのだが。
 あ、この映画はイザベル・ユペールなしにはできなかったなあと思う。「逸脱」しながら、周囲の人間から浮いてしまわない。「逸脱」しているのに、周囲の人間を「引きつける」。イザベル・ユペールを受け入れるかどうかは、彼女は問題にしていない。彼女が他人を引きつけ、支配する。
 レイプというのは男が女を犯すことだが、その瞬間においても、彼女はレイプを受け入れているのではなく、レイプを主導している。支配している。支配できる「犯人」を手に入れ、リプレイする。リプレイを強要する、と言ってもいいかもしれない。
 そして、そのことを、どうもイザベル・ユペールは「ゲーム」としてとらえている。すべてを「ゲーム」としてリプレイする。この奇妙な「逸脱」の原因を、父親の殺人にもとめると安易な「心理分析」になってしまう。そういうことをせず、ただ「逸脱」を、目に見える「現実」として描ききっている。
 こんな映画は大嫌い。
 でも、見ていると引き込まれる。
 力業の映画である。
                      (KBCシネマ1、2017年08月30日)
 *

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)

2017-08-31 10:22:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(19)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「紫の群生」には紫式部が出てくる。いや、名前が出てくるだけで、実際は出て来ないのかも。こう始まる。

紫式部さーん、
わたしはあんたに仕える約束を、
ときにほったらかして、
ちがう哲学、
ちがう物語で、
生のすきまを重ねる毎日だ。

 紫式部の研究(源氏物語の研究?)が藤井の専門なのか。でもときどき横道にそれてて違うことをしている。たとえば、こうやって詩を書くこととか。まあ、そういう「自画像」を書いているのだと思う。
 この詩(引用部分)で私が注目するのは二か所。ひとつは「紫式部さーん、」という書き出し。「紫式部さん」ではなく「さーん」と音引きが書かれている。そうすると、そこから「声」が聞こえてくる。藤井は「声(音)」を大切にしている。「声(音)」のなかにこそ「意味」があると感じているのかもしれない。
 もう一か所は「ほったらかして」。ここも「意味」よりも「音(声)」の方が前面に出てくる。口語だね。ひとの声が聞こえてきそうなことばだ。
 と、書いて、私は不安になる。
 「ほったらかす」は、正しい日本語(?)というか、文章語でいうとどうなるのだろうか。思いつかない。「放置する」ということばが最初に頭に浮かんだが、「放置する」はどんなにがんばっても「ほったらかす」という「音(声)」にはならないなあ。
 いちばん音が近いのは「ほうっておく」かなあ。でも、これでは「らかす」が結びつかない。「らかす」の方に重点を置いて知っていることばを探すと「散らかす」。うん、「ほっ散らかす」ということばがあるな。「ほっ」と「らかす」には、何か手を「はなす」(放す=放る)と、それをそのままにしておく。「そのままにしておく」が「ら+かす」? 「ら」は五段活用? でも、「放る」は五段活用じゃないだろうなあ。
 「たる」は何だろう。「……てある」がつまったもの? 「してある」。ほうりだしてある、放置してある、散らかしてある。「ある」は「あり」で、「ら変」というのだったっけ、「あら」という活用があったなあ。「して+あら」は「たら」か。そうかもしれないなあ。
 で、こういうことは、まあ、どうでもよくて。
 いや、いちばん関係があるのかなあ。
 「して+あり」が「たり」で、「して+あら」が「たら」だとしたら、ここに「口語」特有の「短縮」がある。「ほうる」を「ほっ」というのも「口語」の「短縮」だね。文法用語があったなあ。促音とか撥音とか拗音とか、音便とか……忘れてしまったが、ことばを「肉体」のうごきがめんどうくさがって短縮してしまう。いいやすいようにしてしまう。この瞬間「音(ことば)」が「肉体」と深く結びつく。「意味」よりも「肉体」の方が優先される。
 ここに、私は何かを感じる。「生きている」感じ。「頭」ではなく、「肉体」が動いていて、それが私に響いてくる感じ。
 あ、まだ「かす」が残っているか。
 「かす」は「させる(強制)」という感じかなあ。そうすると「かす」は「課す」なのか。そのままを「強制する」。うーん、違うけれど、新たに何かする(動詞)を禁止する、禁止の強制(?)なのかもしれない。いや、絶対に違うぞ。なぜ違うと断言できるかというと、このことを考えていたとき、私の「肉体」がぜんぜん動かなかったからだ。「頭」だけが動いていた。こういうのは、全体に間違い。
 「かす」の「か」ではなく「す」に目を向けるべきなんだろうなあ。「す」は「する」。「ほったらかす」は「ほうりだしたままにしてある」ということを「する」のだ。「ほうりだしたままにしてある」でも「ほうりだしたままにする」でもなく、「ほうりだしたままにしてある、ということをする」。
 そのとき「か」は? うーん、わからないが、「春雨」ということばは「はるあめ」ではなく「はるさめ」。ことばの調子を整える(?)ために、本来存在しなかった音がまぎれ込んでいる。その方がいいやすい。そういう何かなのではないだろうか。「頭」ではなく、「肉体(舌や口の動き)」が要求する何か。
 あ、こんなことは、詩の「鑑賞」とは何の関係もないことか。
 そうかもしれないが、私は気になる。

 「ほったらかす」はきちんとした日本語かどうか私は知らないが、「口語」という印象が強い。たぶん、「文章語」にはなじまないだろうなあ。少なくとも役所やなんかがつくっている文章には出てこないだろうなあ、という感じがする。
 口語、俗語というものではないにしろ、どうしても「声」が聞こえてくる。そして「肉体」が見える。「肉体」で共有するものだと思う。「頭」で処理したものではなく、「肉体」が先に動いて、納得(?)している何かをあらわすと思う。この方がいいやすい。あるいは聞きやすい。つまり「わかりやすい」。
 そして、この「声」(聞こえる音)というのが、藤井の詩を動かしていると、私はいつも感じる。
 「紫式部さーん」や「あんた」にも、「意味」以上に「口語(声)」を感じる。藤井が詩を書くとき(あるいは推敲するとき)音読するかどうかは知らないが、ことばを「声」にしなくても「肉耳」は「声(音)」を聞いていると思う。文字を黙読するだけで、藤井の「肉耳」には「音」が聞こえるのだと思う。
 藤井がおぼえている「音」が「声」になって「肉体」のなかで動いている。
 「耳」で聞くというよりも、「舌」や「喉」の動き(あるいは手足も動いているかもしれない)が、無意識に「耳」につながって、「音」になるか。「舌」「喉」など発生器官が「ひとつ」になって「肉耳」になっている。そういうことを感じる。
 こういう「肉耳」の感じが、私は好き。

 「ほったらかす」という「音」のなかにある、解放された感じ。「あ」の音が多くて、とても明るい。何もかもが自由な感じは、ものを「ほったらかした」ときの解放感に似ている。「放置する」では解放感がない。「ほったらかす」というとき、手も足も、肉体全体が束縛から解放されるような喜びがある。
 あ、こんなことは藤井は書いていないし、この詩のテーマ(意味)でもないかもしれない。
 けれど、私は「意味」とか、その作品を「文学史(文学見取り図)」のなかで位置づけるために読んでいるのではないので、こういう感想になるのだ。
 「紫式部さーん」「ほったらかして」という「音」が、ほかのことばの動きにも影響している。それが楽しい。

春楡の木
クリエーター情報なし
思潮社
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