詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セスク・ゲイ監督「しあわせな人生の選択」(★★★)

2017-08-21 09:42:46 | 映画
監督 セスク・ゲイ 出演 リカルド・ダリン、ハビエル・カマラ、トルーマン(犬)

 ガンを宣告された俳優と、その友人のストーリー。俳優は治療を拒否している。死期が近いとわかったら服毒自殺するつもりでいる。でも、そのまえにしたいことがある。何より気がかりなのは、愛犬の将来。飼い主を失ったら犬はどうなるのか。喪失感にとらわれるのか。獣医のところに相談にゆき、里親探しもはじめる。
 それから仲違い(?)した人とは仲直りをし、離れて暮らす息子にも会いたい。これからのことを語りたい。友人は、その手助けのためにカナダからマドリッドにやってきた。その友人との4日間を描いたものだが。
 終わり間際のセックスシーンがすばらしい。
 主人公に「服毒自殺するつもりだ」と告げられて、女友達は怒りだす。カナダの友人はどうしていいかわからない。女友達は怒って家を飛び出す。ところが電話を忘れてきたことに気づきもどってくる。その女と友人が道で出会う。女を引き止め、「こんなふうに怒りの感情を抱いたまま別れるのはつらい」と言う。これは女も同じ。ふたりは、でも、どうしていいかわからない。わからないまま友人のホテルへ行く。そこでセックスが始まる。なぜ、こんなところで、セックスが?
 この伏線が、実は、ある。アムステルダムまで主人公の息子に会いにゆく飛行機の中。主人公の不安に反応して(感応して)、友人がナーバスになる。そのとき主人公が「マスでもかけよ。不安なときは落ち着く」という。セックスには、こういう「忘我」の効能がある。
 主人公が死んでしまうという不安に、友人と女友達はどう向き合っていいかわからない。支えなければいけないとは「頭」でわかっていても、「こころ」がついていかない。どうしても怒りだしてしまう。感情を爆発させてしまう。主人公を傷つけてしまう。それが「こころ」にははっきりとわかる。そうして、ますますどうしていいかわからなくなる。わからないから、不安の中でセックスをする。「忘我」をもとめる。「忘我」をもとめながら、「肉体」はそのとおりに反応するのだけれど、「忘我(エクスタシー)」の瞬間、ふたりとも泣き出してしまう。まるで射精するように泣き出す。
 「肉体」で受け止めるしかないものがある。
 ふたりして泣くことで、ふたりは主人公の死を、受け止める「用意」ができる。もちろん、それは完璧なものではないが(つまり、実際に主人公が死んだら、また苦しみ、悲しむのだと思うが)、なんとなく、これが「生きる」ということなのだとわかる。すこし晴々とする。
 友人がカナダへ帰る日、主人公がホテルへやって来る。友人と女友達が一緒に階段を降りてくる。何が起きたのか、主人公は「わかる」。「そういうことか」という顔をする。起きたことを「受け入れる」。
 生きることは、起きたことを「受け入れる」こと。「受け止める」こと。と、書いてしまうと、「理屈」になってしまってよくないのだけれど。そういうことが、なんとういか、「肉体の欲望」と一緒に描かれるところが、なかなかおもしろい。あ、スペイン人って、こういう人間だったのか、と気づかされる。(主人公はアルゼンチン人が演じているが、舞台はマドリッド。)
 最後の最後、主人公は犬のことでわがままを言う。(犬の名前は「トルーマン」で、これが映画の原題になっている)。ここも、なかなかいい。わがままが言える相手がいるというのはすばらしいことだ。わがままを受け止めてもらえる人がいるというのは、とてもいいことだ。
 ここから振り返ると、さまざまなエピソードが「受け入れ/受け止め」という形で展開していたということに気がつく。アムステルダムでの主人公と息子のハグのシーンなんか、見ていて「あれっ」と思うのだが、その「あれっ」と思ったことが静かに補足説明されるところなんかも美しいなあ。
                      (KBCシネマ2、2017年08月20日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

アイム・ソー・エキサイテッド! [DVD]
クリエーター情報なし
松竹
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)

2017-08-21 09:03:15 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「詞(ツー)」には「詞は宋代の詩」という註釈がついている。宋代の詩を参考にしてつくったということかな?

みどり葉をまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉裏をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 さて、どう「誤読」すればいいのか。
 私は詩に限らずことばを読むときは「動詞」に注目する。「動詞」は人間を裏切らないからだ。
 この詩の書き出しには「さしかける」「つくる」「まもる」という動詞がある。「何か」をきみに「さしかけ」、何かを「つくり」、そうすることできみを「まもる」ということをしたいのだ。「何か」というのは書き出しの「みどり葉」だから、「みどりの葉」を「さしかける」ことで、きみを「まもる」。「みどり葉」は四行目で「葉裏」と言いなおされている。言いなおしたものを「同じ」というのは乱暴かもしれないが、まあ、同じものと、便宜上考えておく。「みどり葉」は「木(大樹)」の比喩だな。大樹に身を寄せひとは自分を守る。人を守ることのできる大樹になる。比喩だから「何か」と言いなおして考えた方が的確だろうなあと思う。
 途中を端折って、詩の最後は、こうだ。

離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる。
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ

 ふーん。「まもる」は「あいする」という動詞にかわっていくのか。そうすると、この詩は愛の詩ということになるのか。
 でもね。
 こんな「要約(ストーリー)」は「意味」になりすぎていて、楽しくない。というか、藤井のことばを読んでいるときに感じる楽しさとは関係がないなあ。
 ほかに動詞はないのかなあ。
 そう思いながら書き出しを読み返す。何が一番目立つ? 「……に」の繰り返しだね。これを「動詞」に言いなおすとどうなるのだろう。
 行をすこし書き換えてみる。

みどり葉をまどさきに、
にわのおもてに、
日のあしに、
あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、

 「……に」「さしかける」ということになる。「……に」というのは、さしかける「対象」を指し示していることになる。指し示しながら、対象を並べている。並べているけれど、それは「まとめる」というのとは違うなあ。ぜんぶまとめて、何かを「さしかけ」「まもる」という具合にはつながらないなあ。
 むしろ逆だろうなあ。
 「……に」と並べているけれど、これは「ひとつずつ」ということではないだろうか。世界は連続している。つながっている。けれど、その「つながり」を切り離し、ひとつひとつのものとして「まもる」ということかもしれない。
 「……に」は、そういう具合に読みたい。
 きみを「まもる(あいする)」というのは、どこまでもどこまでも、その細部(?)にこだわって、細部まで「まもる」ということなのかもしれない。
 そうやってつづきを読み直すと。

葉裏をつくろう。
葉ごとに、
芯ごとに、
むしのいきに、
あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 「葉裏をつくろう」の「つくる」は何だろう。「葉」には「表」があり「裏」がある。つくらなくても、それは存在している。そうすると「つくる」は別の意味だね。
 なんだろう。

といきになって

 ここに「なる」という動詞が隠れていることに気がつく。
 この「なる」をいろいろなところに補うことはできないか。

葉裏(になって)。
葉ごとに「なって」、
芯ごとに「なって」、
むしのいきに「なって」、
あおいきに「なって」、
といきになって、きみを守ろう。

 むしのいきに「なっても」、あおいきに「なっても」と読むこともできるかもしれない。検診だ。
 そしてこの「なって」は前半部分にも補えるかもしれない。「なって」をちょっと変形させると

みどり葉を
まどさきに「なったきみに」、
にわのおもてに「なったきみに」、
日のあしに「なったきみに」、
あめあとのみずたまりに「なったきみに」、
きみのひとみに、
さしかけよう

 になるかもしれない。「きみのひとみ」は「まどさき」をみつめるとき「まどさきになる」、「にわのおもて」をみつめるとき「にわのおもてになる」、「日のあし(日脚)」をみつめるとき「ひのあし」になる。
 きみがみつめるものが、その瞬間瞬間、藤井にとっての「絶対的」な「きみ」そのものなのだ。
 そういう具合に読むことはできないだろうか。
 きみをそういう具合にとらえなおすとき、そのきみは藤井自身でもある。区別ができない。「一体化」している。「あいする」というときの「感じ」は、確かにそういうものだなあ、と私の「肉体」は思い出す。

 で、このときの、こういう感じを引き出藤井の「ことばのリズム」が気持ちがいい。自然にそういうことを思う。読点「、」の多い、ぶつぶつの文体なのだけれど、私の「肉体」はなぜかなじんでしまう。
 若い人の「文体」では、こういうことが起きない。

うた―ゆくりなく夏姿するきみは去り
クリエーター情報なし
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする