監督 セスク・ゲイ 出演 リカルド・ダリン、ハビエル・カマラ、トルーマン(犬)
ガンを宣告された俳優と、その友人のストーリー。俳優は治療を拒否している。死期が近いとわかったら服毒自殺するつもりでいる。でも、そのまえにしたいことがある。何より気がかりなのは、愛犬の将来。飼い主を失ったら犬はどうなるのか。喪失感にとらわれるのか。獣医のところに相談にゆき、里親探しもはじめる。
それから仲違い(?)した人とは仲直りをし、離れて暮らす息子にも会いたい。これからのことを語りたい。友人は、その手助けのためにカナダからマドリッドにやってきた。その友人との4日間を描いたものだが。
終わり間際のセックスシーンがすばらしい。
主人公に「服毒自殺するつもりだ」と告げられて、女友達は怒りだす。カナダの友人はどうしていいかわからない。女友達は怒って家を飛び出す。ところが電話を忘れてきたことに気づきもどってくる。その女と友人が道で出会う。女を引き止め、「こんなふうに怒りの感情を抱いたまま別れるのはつらい」と言う。これは女も同じ。ふたりは、でも、どうしていいかわからない。わからないまま友人のホテルへ行く。そこでセックスが始まる。なぜ、こんなところで、セックスが?
この伏線が、実は、ある。アムステルダムまで主人公の息子に会いにゆく飛行機の中。主人公の不安に反応して(感応して)、友人がナーバスになる。そのとき主人公が「マスでもかけよ。不安なときは落ち着く」という。セックスには、こういう「忘我」の効能がある。
主人公が死んでしまうという不安に、友人と女友達はどう向き合っていいかわからない。支えなければいけないとは「頭」でわかっていても、「こころ」がついていかない。どうしても怒りだしてしまう。感情を爆発させてしまう。主人公を傷つけてしまう。それが「こころ」にははっきりとわかる。そうして、ますますどうしていいかわからなくなる。わからないから、不安の中でセックスをする。「忘我」をもとめる。「忘我」をもとめながら、「肉体」はそのとおりに反応するのだけれど、「忘我(エクスタシー)」の瞬間、ふたりとも泣き出してしまう。まるで射精するように泣き出す。
「肉体」で受け止めるしかないものがある。
ふたりして泣くことで、ふたりは主人公の死を、受け止める「用意」ができる。もちろん、それは完璧なものではないが(つまり、実際に主人公が死んだら、また苦しみ、悲しむのだと思うが)、なんとなく、これが「生きる」ということなのだとわかる。すこし晴々とする。
友人がカナダへ帰る日、主人公がホテルへやって来る。友人と女友達が一緒に階段を降りてくる。何が起きたのか、主人公は「わかる」。「そういうことか」という顔をする。起きたことを「受け入れる」。
生きることは、起きたことを「受け入れる」こと。「受け止める」こと。と、書いてしまうと、「理屈」になってしまってよくないのだけれど。そういうことが、なんとういか、「肉体の欲望」と一緒に描かれるところが、なかなかおもしろい。あ、スペイン人って、こういう人間だったのか、と気づかされる。(主人公はアルゼンチン人が演じているが、舞台はマドリッド。)
最後の最後、主人公は犬のことでわがままを言う。(犬の名前は「トルーマン」で、これが映画の原題になっている)。ここも、なかなかいい。わがままが言える相手がいるというのはすばらしいことだ。わがままを受け止めてもらえる人がいるというのは、とてもいいことだ。
ここから振り返ると、さまざまなエピソードが「受け入れ/受け止め」という形で展開していたということに気がつく。アムステルダムでの主人公と息子のハグのシーンなんか、見ていて「あれっ」と思うのだが、その「あれっ」と思ったことが静かに補足説明されるところなんかも美しいなあ。
(KBCシネマ2、2017年08月20日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ガンを宣告された俳優と、その友人のストーリー。俳優は治療を拒否している。死期が近いとわかったら服毒自殺するつもりでいる。でも、そのまえにしたいことがある。何より気がかりなのは、愛犬の将来。飼い主を失ったら犬はどうなるのか。喪失感にとらわれるのか。獣医のところに相談にゆき、里親探しもはじめる。
それから仲違い(?)した人とは仲直りをし、離れて暮らす息子にも会いたい。これからのことを語りたい。友人は、その手助けのためにカナダからマドリッドにやってきた。その友人との4日間を描いたものだが。
終わり間際のセックスシーンがすばらしい。
主人公に「服毒自殺するつもりだ」と告げられて、女友達は怒りだす。カナダの友人はどうしていいかわからない。女友達は怒って家を飛び出す。ところが電話を忘れてきたことに気づきもどってくる。その女と友人が道で出会う。女を引き止め、「こんなふうに怒りの感情を抱いたまま別れるのはつらい」と言う。これは女も同じ。ふたりは、でも、どうしていいかわからない。わからないまま友人のホテルへ行く。そこでセックスが始まる。なぜ、こんなところで、セックスが?
この伏線が、実は、ある。アムステルダムまで主人公の息子に会いにゆく飛行機の中。主人公の不安に反応して(感応して)、友人がナーバスになる。そのとき主人公が「マスでもかけよ。不安なときは落ち着く」という。セックスには、こういう「忘我」の効能がある。
主人公が死んでしまうという不安に、友人と女友達はどう向き合っていいかわからない。支えなければいけないとは「頭」でわかっていても、「こころ」がついていかない。どうしても怒りだしてしまう。感情を爆発させてしまう。主人公を傷つけてしまう。それが「こころ」にははっきりとわかる。そうして、ますますどうしていいかわからなくなる。わからないから、不安の中でセックスをする。「忘我」をもとめる。「忘我」をもとめながら、「肉体」はそのとおりに反応するのだけれど、「忘我(エクスタシー)」の瞬間、ふたりとも泣き出してしまう。まるで射精するように泣き出す。
「肉体」で受け止めるしかないものがある。
ふたりして泣くことで、ふたりは主人公の死を、受け止める「用意」ができる。もちろん、それは完璧なものではないが(つまり、実際に主人公が死んだら、また苦しみ、悲しむのだと思うが)、なんとなく、これが「生きる」ということなのだとわかる。すこし晴々とする。
友人がカナダへ帰る日、主人公がホテルへやって来る。友人と女友達が一緒に階段を降りてくる。何が起きたのか、主人公は「わかる」。「そういうことか」という顔をする。起きたことを「受け入れる」。
生きることは、起きたことを「受け入れる」こと。「受け止める」こと。と、書いてしまうと、「理屈」になってしまってよくないのだけれど。そういうことが、なんとういか、「肉体の欲望」と一緒に描かれるところが、なかなかおもしろい。あ、スペイン人って、こういう人間だったのか、と気づかされる。(主人公はアルゼンチン人が演じているが、舞台はマドリッド。)
最後の最後、主人公は犬のことでわがままを言う。(犬の名前は「トルーマン」で、これが映画の原題になっている)。ここも、なかなかいい。わがままが言える相手がいるというのはすばらしいことだ。わがままを受け止めてもらえる人がいるというのは、とてもいいことだ。
ここから振り返ると、さまざまなエピソードが「受け入れ/受け止め」という形で展開していたということに気がつく。アムステルダムでの主人公と息子のハグのシーンなんか、見ていて「あれっ」と思うのだが、その「あれっ」と思ったことが静かに補足説明されるところなんかも美しいなあ。
(KBCシネマ2、2017年08月20日)
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