紫圭子『豊玉姫』(響文社、2017年05月15日発行)
紫圭子『豊玉姫』は「詩人の馨叢書」の第5弾。
私は詩を音読することはない。朗読もしない。(仕方なしにすることもあるが。)なぜかというと、書くときに声を出さないからである。声を出さずに書いたものを、声に出して読むと、まったく違ったものになる。
朗読しているひとたちは、どうやって書いているのか。
「声」を想像しながら読んでみる。
「豊玉」という詩の一連目。
最初の三行は「声」として聞こえる。でもそのあとの二行は、私には「声」として聞こえない。「意味」はわかるが、「声」の強さが前の三行と違いすぎていて、同じひとの「声」と感じられない。
「広がり」「満ちて」という中途半端な声は落ち着かない。
「から」ということばも、「間延び」している。
「から」には「論理」が動いている。つまり「から」は「頭」を通過して、「広がる」「満ちる」という動詞を誘い出すという「文法」として動いている。言い換えると、この二行は「声」ではなく「文章」なのだ。
「海底」から「海」へ、「空」から「天空」への言い直しも奇妙である。紫は「海底」と「天空」、「空」と「海」が対になっているというかもしれないが、うーん、その対は「頭」で整理した対ではないかなあ。
非常に気持ちの悪い二行である。
紫が「声」に突き動かされているというよりも、「ことば」で読者をだまそうとしている感じがするの。
途中を端折って、
ここも「詩」ではなく「散文」。
「ふりそそぐいのち」「いのちの実」ということばから、紫の「頭」は感動している(何かに感応している)ことは理解できるが、「声」がまったく聞こえてこない。
人間というのは感動したとき、「文章」をつくれないものではないだろうか。「文章」というのは、「肉体」に起きたことをあとから整理して「頭」でつくるものであって、「肉体」が感動しているとき、「声」は喉の奥をひっかいて飛び出すだけである。
「海底(対馬海底)」ということばは一連目にも出てきたが、「海底」というときの「肉体」のリズムは、どういうものだろうか。「つしまかいてい」と聞いて、ひとは「海底」と理解できるか。このことばを書いたとき、紫はほんとうに「声」を出しているのか。そういうことに、私はつまずくのである。
一連目の「天空」がここでは「陽の環」になっているが、「天空」というリズムで「「陽の環」ということばを発することができるだろうか。そこにも、私はつまずく。
「太陽の祭り/月の祭り」と叫んだ「声(肉体)」が「陽と月と地を結ぶ鏡のような朝」という「声」を発するとは、私には考えられない。「太陽の祭り/月の祭り」をつらぬいている「恍惚」が「ような」ということばで完全に消えてしまう。
「太陽」「月」が「鏡」に変わるのだから、そこにはエクスタシー(逸脱)があるはずなのに、「ような」では逸脱にならない。「命綱」を頼りにやっと歩いている感じである。
「声」には「声の文法」というものがあると思う。「声の定型」と言いなおしてもいい。それが、紫の詩からは聞こえてこない。「声」は出してみたものの、「頭」で「意味」を整えている。
こういうことをするのなら、最初から「頭」だけで書けばいいのに、と思う。「頭」で書いたものを、わざわざ「声」にする必要はない、と私は思う。
紫は「声」に「緩急(変化)」をつけたと主張するかもしれないが。
紫圭子『豊玉姫』は「詩人の馨叢書」の第5弾。
私は詩を音読することはない。朗読もしない。(仕方なしにすることもあるが。)なぜかというと、書くときに声を出さないからである。声を出さずに書いたものを、声に出して読むと、まったく違ったものになる。
朗読しているひとたちは、どうやって書いているのか。
「声」を想像しながら読んでみる。
「豊玉」という詩の一連目。
玉
光
波の音
海底から空は広がり
天空から海は満ちて
最初の三行は「声」として聞こえる。でもそのあとの二行は、私には「声」として聞こえない。「意味」はわかるが、「声」の強さが前の三行と違いすぎていて、同じひとの「声」と感じられない。
「広がり」「満ちて」という中途半端な声は落ち着かない。
「から」ということばも、「間延び」している。
「から」には「論理」が動いている。つまり「から」は「頭」を通過して、「広がる」「満ちる」という動詞を誘い出すという「文法」として動いている。言い換えると、この二行は「声」ではなく「文章」なのだ。
「海底」から「海」へ、「空」から「天空」への言い直しも奇妙である。紫は「海底」と「天空」、「空」と「海」が対になっているというかもしれないが、うーん、その対は「頭」で整理した対ではないかなあ。
非常に気持ちの悪い二行である。
紫が「声」に突き動かされているというよりも、「ことば」で読者をだまそうとしている感じがするの。
途中を端折って、
豊玉
ふりそそぐいのち
わたくしは海のはじまる地点に立った
豊玉姫の息吹にひれ伏し
対馬海底に触って
いのちの実を両手にうけて
わたつみの豊玉姫に射す陽の環
ここも「詩」ではなく「散文」。
「ふりそそぐいのち」「いのちの実」ということばから、紫の「頭」は感動している(何かに感応している)ことは理解できるが、「声」がまったく聞こえてこない。
人間というのは感動したとき、「文章」をつくれないものではないだろうか。「文章」というのは、「肉体」に起きたことをあとから整理して「頭」でつくるものであって、「肉体」が感動しているとき、「声」は喉の奥をひっかいて飛び出すだけである。
「海底(対馬海底)」ということばは一連目にも出てきたが、「海底」というときの「肉体」のリズムは、どういうものだろうか。「つしまかいてい」と聞いて、ひとは「海底」と理解できるか。このことばを書いたとき、紫はほんとうに「声」を出しているのか。そういうことに、私はつまずくのである。
一連目の「天空」がここでは「陽の環」になっているが、「天空」というリズムで「「陽の環」ということばを発することができるだろうか。そこにも、私はつまずく。
太陽の祭り
月の祭り
陽と月と地を結ぶ鏡のような朝
五月二十一日
新月
金環食
わたくしの
豊玉元年!
「太陽の祭り/月の祭り」と叫んだ「声(肉体)」が「陽と月と地を結ぶ鏡のような朝」という「声」を発するとは、私には考えられない。「太陽の祭り/月の祭り」をつらぬいている「恍惚」が「ような」ということばで完全に消えてしまう。
「太陽」「月」が「鏡」に変わるのだから、そこにはエクスタシー(逸脱)があるはずなのに、「ような」では逸脱にならない。「命綱」を頼りにやっと歩いている感じである。
「声」には「声の文法」というものがあると思う。「声の定型」と言いなおしてもいい。それが、紫の詩からは聞こえてこない。「声」は出してみたものの、「頭」で「意味」を整えている。
こういうことをするのなら、最初から「頭」だけで書けばいいのに、と思う。「頭」で書いたものを、わざわざ「声」にする必要はない、と私は思う。
紫は「声」に「緩急(変化)」をつけたと主張するかもしれないが。
豊玉姫 (詩人の聲叢書) | |
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