詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

紫圭子『豊玉姫』

2017-08-22 10:41:36 | 詩集
紫圭子『豊玉姫』(響文社、2017年05月15日発行)

 紫圭子『豊玉姫』は「詩人の馨叢書」の第5弾。
 私は詩を音読することはない。朗読もしない。(仕方なしにすることもあるが。)なぜかというと、書くときに声を出さないからである。声を出さずに書いたものを、声に出して読むと、まったく違ったものになる。
 朗読しているひとたちは、どうやって書いているのか。
 「声」を想像しながら読んでみる。

 「豊玉」という詩の一連目。



波の音
海底から空は広がり
天空から海は満ちて

 最初の三行は「声」として聞こえる。でもそのあとの二行は、私には「声」として聞こえない。「意味」はわかるが、「声」の強さが前の三行と違いすぎていて、同じひとの「声」と感じられない。
 「広がり」「満ちて」という中途半端な声は落ち着かない。
 「から」ということばも、「間延び」している。
 「から」には「論理」が動いている。つまり「から」は「頭」を通過して、「広がる」「満ちる」という動詞を誘い出すという「文法」として動いている。言い換えると、この二行は「声」ではなく「文章」なのだ。
 「海底」から「海」へ、「空」から「天空」への言い直しも奇妙である。紫は「海底」と「天空」、「空」と「海」が対になっているというかもしれないが、うーん、その対は「頭」で整理した対ではないかなあ。
 非常に気持ちの悪い二行である。
 紫が「声」に突き動かされているというよりも、「ことば」で読者をだまそうとしている感じがするの。
 途中を端折って、

豊玉
ふりそそぐいのち
わたくしは海のはじまる地点に立った
豊玉姫の息吹にひれ伏し
対馬海底に触って
いのちの実を両手にうけて
わたつみの豊玉姫に射す陽の環

 ここも「詩」ではなく「散文」。
 「ふりそそぐいのち」「いのちの実」ということばから、紫の「頭」は感動している(何かに感応している)ことは理解できるが、「声」がまったく聞こえてこない。
 人間というのは感動したとき、「文章」をつくれないものではないだろうか。「文章」というのは、「肉体」に起きたことをあとから整理して「頭」でつくるものであって、「肉体」が感動しているとき、「声」は喉の奥をひっかいて飛び出すだけである。
 「海底(対馬海底)」ということばは一連目にも出てきたが、「海底」というときの「肉体」のリズムは、どういうものだろうか。「つしまかいてい」と聞いて、ひとは「海底」と理解できるか。このことばを書いたとき、紫はほんとうに「声」を出しているのか。そういうことに、私はつまずくのである。
 一連目の「天空」がここでは「陽の環」になっているが、「天空」というリズムで「「陽の環」ということばを発することができるだろうか。そこにも、私はつまずく。

太陽の祭り
月の祭り
陽と月と地を結ぶ鏡のような朝
五月二十一日
新月
金環食
わたくしの
豊玉元年!

 「太陽の祭り/月の祭り」と叫んだ「声(肉体)」が「陽と月と地を結ぶ鏡のような朝」という「声」を発するとは、私には考えられない。「太陽の祭り/月の祭り」をつらぬいている「恍惚」が「ような」ということばで完全に消えてしまう。
 「太陽」「月」が「鏡」に変わるのだから、そこにはエクスタシー(逸脱)があるはずなのに、「ような」では逸脱にならない。「命綱」を頼りにやっと歩いている感じである。

 「声」には「声の文法」というものがあると思う。「声の定型」と言いなおしてもいい。それが、紫の詩からは聞こえてこない。「声」は出してみたものの、「頭」で「意味」を整えている。
 こういうことをするのなら、最初から「頭」だけで書けばいいのに、と思う。「頭」で書いたものを、わざわざ「声」にする必要はない、と私は思う。
 紫は「声」に「緩急(変化)」をつけたと主張するかもしれないが。

豊玉姫 (詩人の聲叢書)
クリエーター情報なし
響文社
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)

2017-08-22 09:09:40 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「冷暗室--清水昶さん追悼」には、俳句が差し挟まれている。晩年俳句を書いていた清水をしのんでのことだろう。

ゆくはさびし 山河も虹もひといろに

 「虹」は七色。それが「ひといろ」になる。死に行くひとのみる風景だろうか。「ひといろ」の「ひとつ」が寂しい。それはひとりで死んでゆくしかない人間のさびしさだが、そうか、藤井は清水に「さびしい」ものを見ていたのか、と気づかされる。

思想の詩終わる六月 きみがゆく

 「思想」ということばが生硬だが、生硬なことばを輝かせる力が清水にはあった。「思想」で終わらせず「思想の詩」とロマンチックし、それを「終わる」ということばでセンチメンタルにする。
 青春の抒情というものを感じる。1960年代の青春だけれど。

水売りの声も届かぬ 幽境へ

 清水の詩のことばの特徴は、「思想」というような生硬なことばと、「水売り」というような土着に近い日常(現代は消えてしまった暮らしと肉体)の風景が交錯するところにあった。それを思い出す。
 それだけではなく「声」が魅力的だ。独特のリズム、スピードがある。それに反応して藤井は「水売りの声」と書いているのだと思う。
 この年代のひとの詩には「声」がある。それは「地声」であり、「音楽」でもある。
 いまの若い世代のことばにも「音楽」はあるのだろうけれど、どうも、それは私には聞き取れない。
 「水売りの声」はなくなってしまったものの「象徴」かもしれない。

五七五終わる わたしの初夏に

 「終わる」「わたし」「初夏」も清水の詩には印象的につかわれている。それは「意味」であるよりも「肉体」そのものである。
 こういう感想は「印象批評」というものなのかもしれないが、「印象批評」のまま書いておく。
 ことばそのものに「肉体」を感じ、その「肉体」に反応する、ということが1960年代の詩にはあったように思える。
 先に取り上げた「思想」ということばなど、生硬そのものだが、生硬なものに正面からぶつかる「肉体」のやわらかさがあった時代だと思う。

 「針の精子--「白鯨」」もまた清水を追悼する詩である。「まぼろしの党員は/首都の地下室で花を噛んで眠っている」という清水の二行が引用されている。

灰白色から火の野のいろに変わる
あけがたの裂け目の日付変更線
巨きな夢に託した
野の舟のゆくえ 「暗視」とあなたはいう

 死んだのに朝日が差してくる。燃え上がるように赤く染まる野。「火」というまがまがしい比喩。「日付変更線」という即物的な概念。その衝突。その瞬間に見える何か。それを見る力を「暗視」というのだろう。明るい視力は存在を正しく見る。暗い視力は存在を「比喩」にかえて見てしまう。
 「野の舟」とは何か。
 こういうことを問うことは意味がない。「野の舟」が見えるかどうか、それが問題である。読者に、その「比喩」を「現実」として見る(実感できる)視力を清水は要求していた。「暗い視力」。それは「現実」を「見る」というよりも「現実」を「歪める」力だ。「歪める」瞬間にだけ見える「亀裂」のようなものと「暗視」は共犯関係にある。

 この詩は「ハムレット」のパロディーかもしれない。夜明けの描写は、次のように言いなおされるから。「ことば、ことば、ことば」と書いたシェークスピア。清水も「ことば、ことば、ことば」を書いたのだ。その「ことば、ことば、ことば」に藤井は感応し、こう書いている。

四十年と言う轟音
父の亡霊
山からのあいさつはあるか
亡霊に物語は回復するか
こどもたちのこどもたちのこどもたち

 「ことば」という「亡霊」。その「亡霊」に託す「物語」。「物語」とは青春が傷つき破れるという「定型」を必要としている。抒情とセンチメンタル。センチメンタルだけれど、それをたとえば「回復する」というような、何か生硬なもので傷つける。
 「まぼろしの党員」の「まぼろし」と「党員の衝突も、そういう類のものだろう。
 「こどもたちのこどもたちのこどもたち」は、わたしには「ことばのことばのことば」と聞こえてくる。

どこかにあるはずで
地図にはない県庁所在地
生殖可能な
さいごの男女を神の県外に避難させること
革命の卵子が
神殿で産むこどものたちのために
無事でありますように

 清水と藤井の文体、ことばが交錯している。私の思い込みなのかもしれないが「どこかにあるはずで/地図にはない県庁所在地」ということばのねじれ方は清水の「文体」である。「生殖」や「革命」も清水のことばであると思う。でも「圏外」ではなく「県外」と書く方法、「神殿」ということばには藤井の「色」が強い。
 「意味(ストーリー)」ではなく、こういうことば、文体の交錯に、あ、藤井は清水の詩が好きだったんだなあと感じる。藤井が清水と一緒になって詩をつくっている感じがする。
 亡くなった人と一体になる、というのが藤井の「追悼」の形なのだろうと思う。
源氏物語の始原と現在――付 バリケードの中の源氏物語 (岩波現代文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
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