詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

仲田有里『マヨネーズ』

2017-08-07 10:28:38 | 詩集
仲田有里『マヨネーズ』(思潮社、2017年03月10日発行)

 仲田有里『マヨネーズ』には、まいってしまった。
 本の表紙には「歌集」と書かれているから歌集なのだろう。「短歌」なのだろう。けれど、どこまで読んでも「歌」が聞こえてこない。「リズム」と「メロディー」がない。私は古い人間なので、耳が退化してしまったのだろう。

 他の人には、どう聞こえているのだろう。田中庸介が「押しつけがましくなくうっすらと」という文章を寄せている。

 衣食住があり自分の身体がある。動植物がいて人がいる。しかしその存在の意味はまったくわからない、といった認識の混乱と、そこからの脱出の予感。本作『マヨネーズ』には、そんな作中主体の強く個性的な変遷が、日常語に限ったミニマルな文体でねばり強く書かれている。

 うーん、抽象的で、わからない。
 「認識の混乱と、そこからの脱出の予感」と「個性的な変遷」ということばを手がかりに考えると、まず「認識の混乱」が描かれ、そのあと「脱出の予感」が書かれている。つまり、「歌集」のなかに「時間の経過とそれにともなう認識の変化」がある。その「変化」のことを「変遷」と呼んでいるのだと思うのだが、具体的に、どの歌に「認識の混乱」が象徴的にあらわれているのか、またどの歌に「脱出の予感」が書かれているか、それが明示されていないので、どんな「変遷」を書いているかわからない。
 田中はさらに、こう書いている。

働いている若い女性の生活や恋愛がみずみずしいくったくのない文体でつづられていくのだけれども、作中主体はどこか心に苦しい葛藤をかかえたものとして描かれており、その葛藤によって右往左往することばの姿がまた非常に魅力的だ。

 先の文章に書いてあった「ミニマムな文体でねばり強く描かれている」と「みずみずしいくったくのない文体」が、私の意識の中では結びつかない。「ねばり強く」「みずみずしい/くったくがない」は、違う性質だろうなあ。「屈託」があれば「ねばる」と思う。
 同じように、「みずみずしいくったくのない文体」と「心の中に苦しい葛藤を抱えた」の同居がわからない。「みずみずしいくったくがない」なら「苦しい葛藤」は感じられないのでは? 
 さらに「葛藤によって右往左往することば」というのもわからない。「葛藤」があるなら「動けない」のでは?
 だから、まあ、私の感覚では「矛盾」としか思えないようなものを、仲田は描いていると考えればいいのかもしれないけれどね。
 でも、こんなことはいくら書いてみても、抽象から逃れられない。

 田中は、仲田の短歌のどこに感動したのだろうか。具体的にふれた部分は、どうなっているか。巻頭の「マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる」という短歌について、田中はこう書いている。

 このようないくぶんポップな文体の歌では、植物に関することばが、人間の頭部の器官の名称にダイレクトにつながっていくところにユニークな特徴がある。第一首はあっと驚くシーンであり、身体を食べ物でぐちゃぐちゃにする趣味を描いたものかと一瞬迷うけれども、あるいは植物の葉っぱに感情移入したものとして読んでいけば、これはサラダにマヨネーズを搾って食べることの描写なのかもしれない。

 「第一首」ということばからわかるように、田中は五首をまとめて引用している。だから第一首に触れる前の部分は「全体のまえがき」みたいなものなのだが。
 ここでは「いくぶんポップな文体」という新しい「文体認識」が書かれている。「日常語に限ったミニマルな文体」「みずみずしいくったくのない文体」と同じものかどうか、同じものであるなら、それをどう「言いなおした」ものなのか。よくわからない。
 わかるのは、田中が、植物(人間以外)と人間の頭部の器官(頭、口、目、耳)を結びつけていることに注目しているということ。
 「日常語に限ったミニマルな文体」というのは、日常的な細部を描く文体ということになるのか。「サラダ」は「葉っぱ(?)」と「マヨネーズ」に、さらに「マヨネーズのかかっている部分」は「全体」ではなく「頭の上(比喩だね)」という具合にとらえるということか。
 こういう「文体」に田中は出会ったことがないので、それを「みずみずしくくったくのない文体」と呼んだのか。さらに「いくぶんポップな文体」と言いなおしているのか。

 さらに「何本も出てきた葉っぱがてかてかと光って口の端っこにつける」「薄い葉が冷たくなってる冬の朝君の目と植物と話すような話を」という歌については、こう書いている。

葉っぱと「口」「息」が不思議な接続を遂げる。葉っぱを口の端っこにつけるのも、冷たくなっている薄い葉に白い息が出る口のイメージが接続するのも、顔を植物で飾った森の妖精を彷彿とさせる。

 「森の妖精」って「日常語」? 「森の妖精」は直接出て来ないが、そういうものを感じたから「みずみずしいくったくのない文体」と呼ぶのかなあ。
 読めば読むほど、わからなくなる。

 で、私はこれ以上田中の文章を手がかりにするのをやめた。田中の文書を読んでも、結局、私には何もわからないだろうなあということがわかったからである。
 仲田の短歌もわからなければ、田中の感動もわからない。

 仲田の歌にもどる。読み直してみる。

マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる

 リズムをまったく感じない。数えてみれば確かに「五七五七七」になるのかもしれないがリズムというのは数えて確かめるものではないだろう。最初の「マヨネーズ」は五音。「下七七」の「マヨネーズと」は六音。破調。しかし破調の効果を私は感じない。単に「散文」を「五七五七七」に近づけただけという感じがする。言い換えると「短歌」が仲田の肉体から生まれてきたというよりも、頭で短歌を装っているという感じ。
 それは最初のマヨネーズと次のマヨネーズが、仲田の中でどう変わっているか(田中のことばを借りて言えば「変遷」しているか)が直感的に感じられないことにも通じる。「意味」を考えれば「意味」は捏造できるかもしれない。でも「意味」を捏造してしまったら「詩(文学)」にはならないだろう。
 ことばがねじれ、別なことばになる。知っているはずなのに、知らないことばにであった感じ、あるいは、あ、そうだった、こういうことを覚えていると思い出す感じが、一首の中で「うねり」となってことばを支配しないと「音楽」は聞こえない。

ゆるやかに流れる町の空気から逃げるかばんを持って電車で

 「かばん」が見えてこない。どういう「かばん」か明確にならないと「町の空気」も「電車」も見えてこない。ことばがことばと呼応し合わない。メロディーやリズムが生まれようがない。

いつまでも続く季節が新しい夏と同時に始まっている

 「いつまでも続く」と「始まる」という動詞の矛盾、共存を「同時」ということばで印象づけることで「詩」をつくろうとしている。それは、しかし「頭」が理解することであって、ことばが響きあって直感させる「事件」ではない。

なるようにしてくださいと神様に祈ったけれど会いたい君に

 仲田がどんな「神様」に祈ったのか知らないけれど、ふつう「こうこうしてください」と祈るのであって、「なるようにしてください」というのは投げやりな諦めの態度ではないのか。「神様に祈った」というよりも、投げやりにそう祈ったけれど、「君に会いたい」「君に会えるようにしてください」といまは神様に祈っているということか。
 これも、「頭」で考え直さないといけない。

リピートにした一曲が繰り返し始まるたびに少し目覚める

 「リピート」と「繰り返し」。英語と日本語。音の数を合わせるためにつかいわけられている。「意味」はわかるが、「意味」には私は感動することができない。
 「意味」というのは誰もが持っている。「思想」と同じである。
 そんなものをわざわざ「他人」に寄り添って感じたり、考えたりすることはしたくない。「考える」前に、それが目の前にあらわれてきたとき、ひとは感動する。少なくとも、私の場合は、予想外の「意味」「思想」がなまなましくあらわれてきたときに、驚く。
 わざわざ「頭」で考え直すのはめんどうくさい。
 それはどういうことかと言いなおすと、この歌の場合「一曲」が何か、ぜんぜんわからないことにつきる。「かばん」の歌でも触れたが、そこに「仲田」がいないのだ。「他人」がいない。

 短歌なのにランボーを引き合いに出しては申し訳ないが。
 ランボーは「私とは一個の他者である」と言った。その「他者」が動かないと、詩は生まれない。「他者」こそが新しい音楽をつくる。「他者」を受け止めるために、それまでのことばがそれまでのリズムとメロディーを変えるとき、ことばが詩になる。
 これは、しかし、「頭」でつくりだすものではなく、「直感」がそうしてしまうのである。
 「頭」で動かされたことば、私は苦手だ。

マヨネーズ
クリエーター情報なし
株式会社思潮社
コメント
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