詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)

2017-08-30 09:33:39 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(18)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとりして」には岸上大作の歌が二首引用されている。

「美化されて
長き喪の列訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(池上大作)

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 詩の中に樺美智子と佐藤泰志だが登場する。岸上は樺美智子を追悼しているのだが、藤井は樺美智子、佐藤泰志、岸上大作の三人のことを思い、書いている。
 なぜ三人を書いているのか。理由が最後に書かれている。

あなたはだれか、歌人たち、
そして泰志。 逝ったひとを呼ぶ現代詩があってもよかろう。

 三人を呼び寄せる、思い起こす現代詩を書きたい。だから、書いた。
 でも、なぜ、この三人なのか。
 岸上の歌の中にある「ひとり」「一つ」ということばが手がかりになるかもしれない。樺美智子は群衆のなかで死んだ。岸上と佐藤は自殺した。死ぬときの状況を考えると「ひとり」「一つ」ということばは「共通項」といえないかもしれない。
 けれど、

ひとりしてきかねばならぬ

 というときの「ひとり」は「葬列(複数の人)」のなかにいて、なおかつ「自分ひとり」という思いがある。「複数の中にいて、なおひとり」というのは樺美智子の状況に似ている。
 そして、「ひとりしてきかねばならぬ」は、たとえ複数の人がいても「私は一人」という強い自覚と、また思い出す相手は「ひとり」という意識がある。樺の「ひとり」の声をきかねばならない。「一対一」という関係で聞かねばならないと「誤読」することもできる。
 藤井は、そのときの岸上の態度と藤井を重ね合わせているのだろう。
 岸上を思う、樺を思う、佐藤を思う。そのとき「一対一」になる。藤井自身を、いま藤井の周囲にいる人から切り離し、孤絶して、「一対一」になる。「一対一」になって故人を呼び出す。対話する。

 また、この作品には「要約」という形で、佐藤の「読書感想ノート」が引用されている。

樺美智子を
生きのこったにんげの
身勝手な美化においてはならないと。

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと。

 連の最後の「と」は「読書感想ノート」に、「……と書いている」をあらわしている。「書いている」が省略されたものだろう。
 佐藤は「ひとり」で樺のことを思い、岸のことを思い、二人を呼び出して「読書感想ノート」を書いた。
 その姿に藤井は自分自身を重ねている。
 どうして、藤井は佐藤に自分の姿を重ねたのか。どのことばに藤井を重ねたのか。

忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと
佐藤泰志は二十一歳の小説家志望だ、その時。
読書感想ノートのなかで。

 「忘れるな、すべての美化ははじき返されるしかないと」も「読書感想ノートのなかで」書いているということだろう。
 この「すべての美化ははじき返される」は、岸上の書いた「ひとり」「一つ」に通じると思う。岸上の歌のなかの「美化」と重ねながら、そう思う。
 「美化」の「化」は「変化」である。それは「他との関係」のなかでおきる。他の何かと比較し(あるいは他の何かを美を支えるものとして存在させることで)、「美」が「美」になる。「美化」がそういうものであるなら、それは他の存在によって「醜化」ということも起きうる。あるときは「美」とたたえられ、あるときは「醜」と否定されるということが起きる。
 こういうことに藤井は異議を唱えているのだと思う。
 佐藤のことばの中に、そして岸上の歌の中に、そういう異議を感じ取り、それに共感しているのだと思う。
 だれを、何を、どうとらえるか。それは「一対一」の関係のなかでおこなわれるべきことなのである。自分を「集団」のなかに組み入れ、「集団」として何か(誰か)を「美化」するということはしない。「美」であろうと、「醜」であろうと、それは「一対一」の関係のなかで、自分「ひとり」で判断する。決定する。
 佐藤が、はたしてそういうことを書いているかどうかわからないが、藤井の詩を読みながら、私はそう感じた。佐藤の中にいる「ひとり」を感じ取り、共感している藤井がここに書かれていると思う。

 「美化」の否定は、岸上の歌と佐藤の「読書感想ノート」に共通する意識であり、藤井は、その意識に共感しているということがいえる。佐藤のノートに「ひとり/一つ」ということばがあるかどうかわからないが、佐藤の孤独に藤井は「ひとり/一つ」を感じているのだと思う。岸上と佐藤をつなぐ「自殺(ひとりで死ぬ)」という行為が「ひとり/一つ」と重なるかもしれない。

 とりとめもなく書いてしまったが、「ひとり/一つ」と「美化の否定」がこの詩のなかを動いている。藤井自身が、それに身を寄せている。身を寄せながら、そうやって生きた岸上と佐藤を詩の中に呼び出している。

 でも、こういう感想は「意味」に傾きすぎているかもしれないなあ。こんな感想を書いてはいけないのかもしれないなあ、という気がする。

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