藤井貞和『美しい小弓を持って』(4)(思潮社、2017年07月31日発行)
「葉裏のキーボード」は風にゆれる草の葉(あるいは木の葉)を見ているのだろうか。
風が吹くと、葉が小刻みに裏返る。それがキーボードの動きに見える。
私は木の葉(草の葉)が風に吹かれて裏返るのを見ても、そんなふうに感じたことはなかったが、そう言われれば、そう見えるかもしれない。
「事実」が先にあるのではなく、「ことば」が先に動いて、「事実」の見方を教えてくれる。「ことば」によって「事実」の見方を学ぶ、と言ってもいい。
ここから風景と藤井との、ことばによる交流が始まる。
詩は、こう展開する。
あ、これは何かなあ。
「基地」を「墓地」と読み違えるというのはあっても、「打ち間違える」はどうかなあ。私はアルファベット入力ではなく、親指シフト入力。打ち間違えることはない。アルファベット入力でも打ち間違えないなあ。
「打つ」という動詞を基本にして「文字変換変換」を考えると、これは「嘘」である。
これは「見間違え」が先にあって、「見間違えた」ことを「打ち間違え」に言いなおしている。
(藤井は風景を「見間違えている」。「比喩」というのは「見間違え」を強引に「正当化」して主張することである。葉裏のキーボードは「事実」ではなく「見間違え」を「比喩」であると主張することで、ごまかしている。その影響が、「打ち間違い」にも影響してきている。)
いやしかし、「見間違い」「打ち間違い」には、そんな明確な区別はないだろう。
とっさに出たことばなのである。
この「とっさ」を「のり」と考えるといいのだと思う。
言い換えると、藤井は、ここでは「事実」を書いてるのわけではない。「のり」でことばを動かしている。
風が吹いた。葉が裏返った。緑の色が変化する。その変化を「比喩」にすると、どうなるか。
藤井はキーボードを思い出した。
でも、そのキーボードというのは、単に入力機械ではない。
キーボードを打ちながら、藤井は文字の変換も見ている。
指の動きと目の動きが交錯する。指の認識と目の認識が交錯する。
これは手(指)と目の、メールのやりとりなのか、と書いてしまうとまた違ったことになってしまうが。
さらに、詩はこうつづく。
うーん。「あなた」は「葉(裏)」か「かぜ」か。これは、区別ができない。「一体」となって動いている。
だから、というのは論理の逸脱だが、強引に「だから」ということばを利用して、私はこう言いたい。
だから、「打ち間違い」「読み間違い」は区別できない。おなじもの。一体になった動き。「比喩」で語り始めたときから、藤井は藤井以外のものと一体になって動いている。
「現実」に起きていることは、何か区別のできない「一体」のものである。
「さわる(打つ)」と「見る(見える)」、「見える」と「鳴る(聞く)」が交錯する。その「交錯」の瞬間に「メール」とか「パソコン」が「比喩」として入り込む。その「入り込む瞬間」の、何か区別のできない動き、「のり」によって突然うまれてくる「逸脱」。
「逸脱」というのは「一体」とは矛盾するものだが、つまり「一体」から離れていくのが「逸脱」というものだが、「逸脱」は「一体」がうみだす「のり」が加速してうまれるものである。
あ、何を書いているか、わからなくなりそう。
藤井のこの詩には「軽快」がある。「のり」の軽さと、速さがある。明るさもある。
この「軽快」というのは、私にとっては重要だ。読むときに「軽快さ」がないと、読んでいてつまずく。
最近、私は若い世代の詩、そのことばのリズム(音楽)にまったくついていけない。読んでいて、ことばが耳に入ってこない。
ところが藤井の詩ではそういうことがない。
何が書いてあるのか、その「意味」を語りなおせと言われれば、答えに詰まってしまうが、読んでいて、ともかく読みやすい。
きのう読んだ「口寄せ」には「/」という「音」のない「記号」があった。しかし、その「記号」さえ「分断」を視覚化していて、それが「わかる」。もちろん「わかる」は私の誤読だが。
どうして瞬間瞬間に、「誤読」が可能なのか。
藤井のことばが、どこかで「日本語」の「文学」の伝統を呼吸しているからだと思う。特に「音」の「文学」をしっかり呼吸していて、それが「声」の美しさになって響いてくる。
どこが、ということは具体的には言いにくい。けれどあえて言えば、
この行末の「して」が、とても「論理的」なのである。「して」が次のことばを誘い出す。
この響きは、
に引き継がれている。
ともに「……して」、そのあとに別の動詞がくる。「……して」というのは、別の何かを誘い出すための動きなのである。その動きを守って、藤井のことばは動いている。こういうところに「文学の(日本語の伝統の)論理」がある。それが「……して」という「リズム(音楽)」となって動いている。
だからね、というのは、またとんでもない飛躍なのだが。
こういうリズムのおかげで、藤井の詩はとても読みやすい。「理解」できなくても「のり」で、どこかに誘われていってしまう。
こういうのを、詩の快感という。
*
私の書いているのは「批評」ではない。もちろん「評論」でもない。「感想」ですらない。
「でたらめ」である。
と、書いて気づくのだが、私は藤井の詩に触れて、どこまで「でたらめ」が書けるか、「でたらめ」を維持したまま反応できるか、それが知りたくなったのである。
藤井の詩が何を書いているか、その「意味」を私は私のことばで語りなおすことができない。つまり藤井の書いている詩の「意味」がわからない。わからないのに、読みながら、ところどころで何かを感じてしまう。反応してしまう。
これは何なのだろうか。
わからないまま、その反応を整えずに、ただ書き流してみたい。
私が書いていることが「でたらめ」であるとして、なぜ「でたらめ」を書くことができるか。藤井のことばと交わりながら「でたらめ」を書き続けると、それはどこにたどりつくのか。そういうことを知りたい。
「葉裏のキーボード」は風にゆれる草の葉(あるいは木の葉)を見ているのだろうか。
葉裏のキーボードを、
かぜがさわります。
なんだか通信したそうにして、
メールがやってくる。
葉裏のパソコンが、
かたかたと打っている、それが、
ここから見える。
風が吹くと、葉が小刻みに裏返る。それがキーボードの動きに見える。
私は木の葉(草の葉)が風に吹かれて裏返るのを見ても、そんなふうに感じたことはなかったが、そう言われれば、そう見えるかもしれない。
「事実」が先にあるのではなく、「ことば」が先に動いて、「事実」の見方を教えてくれる。「ことば」によって「事実」の見方を学ぶ、と言ってもいい。
ここから風景と藤井との、ことばによる交流が始まる。
詩は、こう展開する。
切実なメールが、
交わされている。 「基地」を、
「墓地」と打ち間違えている。
あ、これは何かなあ。
「基地」を「墓地」と読み違えるというのはあっても、「打ち間違える」はどうかなあ。私はアルファベット入力ではなく、親指シフト入力。打ち間違えることはない。アルファベット入力でも打ち間違えないなあ。
「打つ」という動詞を基本にして「文字変換変換」を考えると、これは「嘘」である。
これは「見間違え」が先にあって、「見間違えた」ことを「打ち間違え」に言いなおしている。
(藤井は風景を「見間違えている」。「比喩」というのは「見間違え」を強引に「正当化」して主張することである。葉裏のキーボードは「事実」ではなく「見間違え」を「比喩」であると主張することで、ごまかしている。その影響が、「打ち間違い」にも影響してきている。)
いやしかし、「見間違い」「打ち間違い」には、そんな明確な区別はないだろう。
とっさに出たことばなのである。
この「とっさ」を「のり」と考えるといいのだと思う。
言い換えると、藤井は、ここでは「事実」を書いてるのわけではない。「のり」でことばを動かしている。
風が吹いた。葉が裏返った。緑の色が変化する。その変化を「比喩」にすると、どうなるか。
藤井はキーボードを思い出した。
でも、そのキーボードというのは、単に入力機械ではない。
キーボードを打ちながら、藤井は文字の変換も見ている。
指の動きと目の動きが交錯する。指の認識と目の認識が交錯する。
これは手(指)と目の、メールのやりとりなのか、と書いてしまうとまた違ったことになってしまうが。
さらに、詩はこうつづく。
返信したそうに、
しばらく鳴って、
動かなくなる、あなたはだれ。
うーん。「あなた」は「葉(裏)」か「かぜ」か。これは、区別ができない。「一体」となって動いている。
だから、というのは論理の逸脱だが、強引に「だから」ということばを利用して、私はこう言いたい。
だから、「打ち間違い」「読み間違い」は区別できない。おなじもの。一体になった動き。「比喩」で語り始めたときから、藤井は藤井以外のものと一体になって動いている。
「現実」に起きていることは、何か区別のできない「一体」のものである。
「さわる(打つ)」と「見る(見える)」、「見える」と「鳴る(聞く)」が交錯する。その「交錯」の瞬間に「メール」とか「パソコン」が「比喩」として入り込む。その「入り込む瞬間」の、何か区別のできない動き、「のり」によって突然うまれてくる「逸脱」。
「逸脱」というのは「一体」とは矛盾するものだが、つまり「一体」から離れていくのが「逸脱」というものだが、「逸脱」は「一体」がうみだす「のり」が加速してうまれるものである。
あ、何を書いているか、わからなくなりそう。
藤井のこの詩には「軽快」がある。「のり」の軽さと、速さがある。明るさもある。
この「軽快」というのは、私にとっては重要だ。読むときに「軽快さ」がないと、読んでいてつまずく。
最近、私は若い世代の詩、そのことばのリズム(音楽)にまったくついていけない。読んでいて、ことばが耳に入ってこない。
ところが藤井の詩ではそういうことがない。
何が書いてあるのか、その「意味」を語りなおせと言われれば、答えに詰まってしまうが、読んでいて、ともかく読みやすい。
きのう読んだ「口寄せ」には「/」という「音」のない「記号」があった。しかし、その「記号」さえ「分断」を視覚化していて、それが「わかる」。もちろん「わかる」は私の誤読だが。
どうして瞬間瞬間に、「誤読」が可能なのか。
藤井のことばが、どこかで「日本語」の「文学」の伝統を呼吸しているからだと思う。特に「音」の「文学」をしっかり呼吸していて、それが「声」の美しさになって響いてくる。
どこが、ということは具体的には言いにくい。けれどあえて言えば、
なんだか通信したそうにして、
この行末の「して」が、とても「論理的」なのである。「して」が次のことばを誘い出す。
この響きは、
しばらく鳴って、
に引き継がれている。
ともに「……して」、そのあとに別の動詞がくる。「……して」というのは、別の何かを誘い出すための動きなのである。その動きを守って、藤井のことばは動いている。こういうところに「文学の(日本語の伝統の)論理」がある。それが「……して」という「リズム(音楽)」となって動いている。
だからね、というのは、またとんでもない飛躍なのだが。
こういうリズムのおかげで、藤井の詩はとても読みやすい。「理解」できなくても「のり」で、どこかに誘われていってしまう。
こういうのを、詩の快感という。
*
私の書いているのは「批評」ではない。もちろん「評論」でもない。「感想」ですらない。
「でたらめ」である。
と、書いて気づくのだが、私は藤井の詩に触れて、どこまで「でたらめ」が書けるか、「でたらめ」を維持したまま反応できるか、それが知りたくなったのである。
藤井の詩が何を書いているか、その「意味」を私は私のことばで語りなおすことができない。つまり藤井の書いている詩の「意味」がわからない。わからないのに、読みながら、ところどころで何かを感じてしまう。反応してしまう。
これは何なのだろうか。
わからないまま、その反応を整えずに、ただ書き流してみたい。
私が書いていることが「でたらめ」であるとして、なぜ「でたらめ」を書くことができるか。藤井のことばと交わりながら「でたらめ」を書き続けると、それはどこにたどりつくのか。そういうことを知りたい。
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