詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)

2017-08-29 09:38:02 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(17)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「透明な おめん」は中原中也の詩について書いている。未刊詩篇の「泣く心」のなかに「透明なかめん」が出てくる、と藤井は書いている。
 中原中也は、私は関心がない。何度か読もうとしたが途中で挫折する。「音」がどうも合わない。そこに「音」があるのだろうが、私の耳には聞こえない。「透明なおめん(かめん)」というよりも「透明な音」である。
 藤井は、その「音」をどう聞いたのだろうか。

作ってみるとどうでしょう、透明なおめんを。
みんな、悲しい表情を隠しても、
その隠した表情が透き通るのか、
おめんが悲しいのか。

 「透明なおめん」を中也の詩と置き換えて読む。
 中也の詩は「悲しい表情」を隠している。けれど「詩が透明」なので、隠しているはずの「悲しさ」が見えてしまう。でも、そうではなくて、詩自体が悲しいのかもしれない。表情はしっかり隠されているのかもしれない。
 詩(表現)と感情が「悲しい」という「音」で一つになっている。
 どの詩からも「悲しい」という「音」が聞こえてくる。

 そう読み替えると、うーん、なるほど。よくわかる。
 でも、この「わかる」というときの「わかる」は「論理」がわかるということ。
 これが、どうも妙に気に食わない。
 ここには「音(声)」がない。「耳(聴覚)」がない。
 これは「姿」の論理である。「視覚(目)」の論理である。
 これは、ほんとうに中也なのかな?

 藤井は、どうやって、この中也をつかみ取ったのか。
 この連にたどりつく前、二連目にこういう行がある。中也が幼稚園に「透明なおめん」(正確には中也が透明になるおめん)を忘れて帰った。そのため、先生が怒っている。

置いて帰ったおめんが、
泣いていた。 ひとばんじゅう、
つくえのした、抽斗(ひきだし)のなかで。
透明だから、見えないのさ、
だれにも。 中也にだけは、
見えたんだって。

 ここにも「見る」という動詞がある。
 一方に「泣く」という動詞がある。「泣く」は「聞く」でもある。「聞こえる」でも「姿が見えない」。この「泣く」から「聞こえる」への順序を逆にして、「聞こえる」から「見える」という「肉体」の運動の変化をしてしまうのが中也であって、ほかのひとにはできない。
 そういうことが書かれていると思う。
 先生は「聞こえる」、しかし「見えない」。そのために困ってしまった。それで怒ったということ。

 で、ここから「聞こえる」を「声」ではなく、「見える表情」に「比喩」化することで、聴覚と視覚の問題を藤井は乗り越えようとしている。
 中也の詩には「泣き声(→悲しい表情)」が隠れている。隠しても隠しても見えてしまう悲しさ(表情)がある。
 そう言ったあとで、その「悲しい表情」を「声」という比喩にもう一度転換する。
 「悲しい表情」というのは実は「泣き声」。
 「声」というのは目をつむっていても聞こえるね。「見えなくても」存在していることがわかる。「見えなくても」というのは「隠している」につながる。「隠れている」にもつながる。「隠れて、泣いている」。だから、「見えない」。
 中也は隠れて泣いている。泣いている自分を隠している。
 「隠れる/隠す」が「おめん」である。「おめん」の下には「悲しい声」が隠れている。

 書いていて混乱してしまうが、「視覚」と「聴覚」、目と耳の擦れ違い、いれかわりがあり、そこに中也の詩のポイントがあるということなのだろうけれど。

 私は、この「論理」はうさんくさいと思ってしまう。妙に説得力があるところが「うさんくさい」。

 藤井さん、中也の詩が好きなの? 無理に「論理化」していない?

 そう問いたい気持ちになってくる。
 私は最初に書いたように、中也の書いている「音」が聞こえない。そこに「音」はあるのだろうけれど、それは私の知っている「音」ではない。
 中也が好きという人は、たぶん、その「音」が好きなのだと思う。その「音」を「視覚」で明るみに出すというのは、「感覚の融合」を活用する(感覚の融合をたよりに肉体の深部に入り込む、肉体の未分節の領域に踏み込む)というよりも、「頭」で世界を「図式化」している感じがしてしまう。
 ほんとうに中也の詩が好きなら、「泣く」を「視覚化」しないだろうなあ。
 嗅覚とか触覚とか、何かわからないけれど、もっと「肉体」にまじりこむ感覚をつかって「泣く」をつかみとるだろうなあ、と思う。

 こういう言い方は「言いがかり」というものかもしれないが、藤井の書いていることは「論理的」に「わかる」。しかし、「論理的にわかる」がゆえに、何か「違う」と感じてしまう。
 私は中也の「音」がわからない。そのわからないものが、こんな簡単に「視覚」を利用して説明されるのは、どうもおかしい。
 藤井ももしかすると私と同じように中也の「音」がわからないのかもしれない。「肉耳」で受け止められないのかもしれない。そのために「肉眼」ではなく「意識化された目(論理)」で説明してしまうのかもしれない。
 そんなことを、ふと感じた。

 詩集のなかでは、この作品が一番「論理的」でわかりやすいが、わかりやすいがゆえに、とても違和感が残る。
 藤井さん、次は「中也なんか大嫌い」という感じの詩を書いてみて。
 そう注文したくなる。
 きっとおもしろくなる。

# 中原中也

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