詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)

2017-08-19 10:53:29 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとのさえずり」も「書き方(形式)」に特徴がある。

まがつびのあさ 禍つ火の朝
こうしてほろぶ 斯うして滅ぶ
ことのはじまり 言の始まり
おごりのためし 傲りのためし
ひにもえさかり 火に燃えさかり
のたうつからす 輾転つ烏
さけぶにわとり 叫ぶ鶏

 上段にひらがなが書かれ、下段には漢字まじりで書き直されている。漢詩の書き下し文みたいだ。ひらがなの書き下し文、だな。
 なぜ、こういうスタイルをとっているのだろう。「意味」がわかりにくいからだろうか。「意味」を正確に伝えるためなんだろうなあ。
 そう「理解」したうえで書くのだが。
 「ひらがな」と「漢字まじり」を比較したとき、私は、「ひらがな」の方がおもしろいと思った。というよりも「漢字まじり」はつまらないと思った。
 「ひらがな」では「意味」がわかりにくい。そこに妙な「味」がある。「なんだろうなあ」と思う瞬間が愉しい。
 「漢字まじり」は「意味」がわかるというよりも、「意味の押しつけ」と感じてしまう。ちょっとゲンナリする。がっかりもする。「こういうい意味?」反発心も起きる。他のことを考えてはいけないのかなあ。たとえば「禍つ美の朝」「事の始まり」。
 それに、こういうことを書いてしまっては藤井に申し訳ないのだが、「禍つ火の朝/斯うして滅ぶ/言の始まり」と書き下されても、うーん、何のことかわからないぞ。「意味」は何かしら限定されている感じがする。その「意味」を押しつけられている感じはするが、その「脅迫感」があるだけで、実際の「意味」はわからない。「ストーリー」がわからない。「何が起きているのか」、その「事実」がわからない。何となく「わかったような感じがする」だけである。それも「瞬間」としてであって、すべてをつないで「ストーリー」ができあがるわけではない。
 詩は、わかった感じがするだけでいいというものかもしれないが。

 ここからちょっと逆戻りして。
 「ひらがな」を読みながら、私はなぜおもしろいと思ったのか。そのとき、私の「肉体」は何に反応していたのか。
 まず、わかること。「音」の数がそろっている。それが「肉体」に入ってくる。私は音読はしないのだが、目で見る「文字の数」と黙読しながら聴く「音の数」がそろっている。音を揃える「意識」がある、ということがわかる。藤井の「作為」といってもいいかな。何かしようとしているということが、わかる。
 これは「漢字まじり」の文を読み、「あ、何か意味を伝えようとしている」と感じるのに似ている。「わかる」のは、あくまでも「漠然」としてことであって、「ストーリー(意味)」がわかるわけではない。
 「意味(ストーリー)」がわからないという点では同じなのだが、「ひらがな」の方が「自由(無責任)」な感じがする。「自由」というのは、私の方でかってに(無責任に)「誤読」できる「自由」のことである。
 漢字があると、漢字そのものに「意味」があり、それを読み違えると完全に「誤読」。ところが「ひらがな」の場合は「音」だけであり、そこには「意味」はない。脈絡からわかることばもあるが、脈絡というのはいわば「つくりあげていくもの」。昔流行ったことばで言えば「ゲシュタルト」。ひとのかずだけ「ゲシュタルト」は違う、と書いてしまうと、脱線してしまうが……。
 で、「意味」を半分置き去りにして、音を楽しむ。リズムを楽しむ。「からす」とか「にわとり」とか、具体的な「もの」を指し示すことばは、まあ、たぶん「聞き間違えない(読み間違えない)」。つまり、そこだけははっきりわかったような気持ちになる。そして、その「はっきりわかった」と思い込んだものを中心に、いま何が起きているのかなあと手さぐりをする。「意味(ゲシュタルト)」をつくっていく。
 この「ゲシュタルト」が藤井の考えているものと「重なる」かどうかは、わからない。でも、「漢字まじり」のように「意味」に誘導されるという感じがない。わからなくて、迷うのだけれど、それは自分で迷っているだけで、迷わされているという不快感がない。耳に響く音が「いま/ここ」から私を引き剥がしてくれる。
 「不快感」ということばまでたどりついて、あ、これかもしれないなあ、とまた私は振り返る。
 「ひらがな」を読んでいるときは「快感」がある。「音」がそろっている。その「音」が「意味」にならなくても、聞いていて心地よい。「リズム」が快感をつくる。「意味」がわかる快感とはまた別の「肉体」の快感がある。
 「意味」がわかったとき、たぶん「脳」が快感を覚えるんだろうなあ。
 藤井は「肉体の快感」と「脳の快感」を比較したと(?)、たぶん「肉体の快感」の方を重視するんだろうなあ、と思った。
 「ことば」を「肉体で味わう」ということを、「頭で味わう」ことよりも優先する。
 この感じ、私は好きだなあ。

 私は、こんなことも考えた。もし、「ひらがな」と「漢字まじり」が逆だったら、どうなのだろう。

禍つ火の朝   まがつびのあさ 
斯うして滅ぶ  こうしてほろぶ 
言の始まり   ことのはじまり 
傲りのためし  おごりのためし
火に燃えさかり ひにもえさかり
輾転つ烏    のたうつからす
叫ぶ鶏     さけぶにわとり

 とても奇妙なものを見ている感じがしないだろうか。
 なぜ、奇妙に感じるのだろうか。
 たぶん「漢字」に「意味」があるのに、その「意味」を解体している(わざと、あいまいに、不定形にしている)と感じるからだろうと思う。
 「意味」はできあがってしまうと、それが「消える」とき、何か「不安」のようなものが入り込むのだ。
 これは逆に言うと、人間は、それだけ「意味(ゲシュタルト)」を求めたがるものなのだということかもしれない。

 で、ここから私はさらに飛躍する。論理を端折って、テキトウなことを書く。
 藤井は、この詩では「音(ひらがな)」を「意味(漢字)」に変換してみせているが、それは「意味」を重視しているからではなく、「無意味(音楽)」を重視していることを逆説的に証明するためではないだろうか。
 ことばは「音楽(音)」である。「音楽」を生かしながら詩を書くにはどうすればいいのか。そういうことを模索しているように感じるのである。
 「音」から始まり「意味」にたどりつき、それをさらに「音(音楽)」に結晶させる。そういうことを夢見ているのかもしれないなあ、と私はかってに「妄想」する。誤読する。

 私は最近の若い詩人の「音楽」についていけない。私の「肉体」にその音が入ってこない。
 藤井の「音楽」が藤井の狙い通りに私の「肉体」に入ってきているかどうかはわからないが、何と言えばいいのか、私は藤井のことばに「音への偏愛」のようなものを感じ、みょうに落ち着く。書いている「意味」はわからないが、「音」が聞きづらい(音が不愉快)ということがない。

美しい小弓を持って
クリエーター情報なし
思潮社
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加計学園「獣医学部」問題

2017-08-19 00:32:39 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園「獣医学部」問題
            自民党憲法改正草案を読む/番外113(情報の読み方)

 加計学園「獣医学部」問題を、少し違った視点で見つめなおしてみる。獣医学部新設には「石破4条件」がクリアすることが不可欠と言われている。そのことと関係する。
 いま、大学の獣医学部はどうなっているのか。
 加計学園が問題になったころ、2017年04月22日の読売新聞(西部版・14版)には、鹿児島大学と山口大学が共同で大学院を設置するという記事が載っている。

 鹿児島大と山口大は21日、来年4月を目標に大学院の「共同獣医学研究科」を設置すると発表した。複数の国立大が共同設置する全国初の学部となった2012年4月開設の「共同獣医学部」(6年制)の1期生が来春卒業する予定で、その受け皿とするために大学院の設置を決めた。
 4年制の博士課程で、定員は両大とも6人ずつの計12人。手術方法といった臨床獣医学などを修める獣医科学コースと、専門医資格を取得できる獣医専修コースを設ける。

 この記事からわかるように、鹿児島大学と山口大学では、2012年に「共同獣医学部」を設けていた。
 何のためにか。
 2012年09月17日の読売新聞の「山口県版」に、

共同獣医学部 設置半年 国際認証取得に高い壁 山口大・鹿児島大
 
という見出しで、こんな記事がある。

 全国初の複数の大学による共同学部として、山口大と鹿児島大の共同獣医学部が新設されて9月で半年になる。両大は規模拡大の利点を生かし、質・量ともに獣医学教育の向上を進めているが、目標とする国際認証取得には、課題も多い。

 ここで注目すべきは「国際認証取得」ということばである。
 日本の獣医学部は世界的水準に達していない。まず「国際認証取得」を獲得するために、鹿児島大と山口大は連携したことがわかる。
 その「経緯」については、さらに詳しく書いている。(山口版なので、山口大学を中心にして書いている。)

 山口大が鹿児島、宮崎、鳥取大と共同獣医学部設置の検討を始めたのは2007年。背景には、▽自治体で食肉検査などを行う獣医師や畜産動物専門の獣医師の減少▽欧米に比べて遅れている獣医教育の充実の必要性▽口蹄疫(こうていえき)など国境を越えた感染症の発生――などがあり、獣医学教育の改革は不可避だった。
 しかし、鳥取大が交通の利便性の悪さを理由に離脱。宮崎大も学内での連携に方向転換した。山口大と鹿児島大は10年3月、共同獣医学部設置に合意。国際認証の取得を目指す。

 大学の連携も、なかなかむずかしいことがわかる。ここにも「国際認証」ということばがある。
 「国際認証」というのは、どういうことなのか。

 山口大の丸本卓哉学長は「獣医学教育を評価するAVMA(米国獣医師会)やEAEVE(ヨーロッパ獣医科大学協会)の認証を取得したい」と構想を話す。国際的な信用が高まり、卒業生が欧米の機関に就職しやすくなるなどの効果が生まれるからだ。
 ただ、認証取得のためには、▽全ての講義や実習を英語で行う▽学生1人当たり50頭の小動物診療――など高いハードルがある。

 詳しいことはわからないが、なかなかたいへんな「認証」らしい。

 で、このことと加計学園「獣医学部」と、どういう関係があるか。
 既存の獣医学部は(鹿児島大と山口大は)、「国際認証」を取得するには単独ではむずかしいと判断し、共同で「教育内容」を深めようとした。そうしないと、とても「国際認証」は取得できない。つまり、日本の獣医学部の水準は国際的に低いと認識している。
 これは「共同獣医学部」に加わらなかった島根大、宮崎大も同じだろう。一番の課題は「獣医学部」のレベルアップである。たぶん、獣医教育にたずさわるひとの共通認識であるはずだ。
 私は「獣医学部」の現状については何も知らないけれど、読売新聞の記事の書き方からみるかぎり、関係者は同じことを思っていると推測できる。
 読売新聞の記者は、こう書いている。

 文科省や大学の担当者、獣医教育改革に携わってきた研究者……。取材した誰もが「獣医学を国際レベルに引き上げなければならない」という危機感を共有していた。共同獣医学部設立という“大きな前進”を生かすためには、遠隔講義の回数を増やしたり、教官が移動して両大学の学生を直接指導したりするなどの取り組みが必要だと感じた。

 そこで、問題である。
 日本の獣医学教育の水準が、そんなに低いのなら、いま新しい獣医学部をつくって、それがどんな効果をあげることができるか。
 多くの教育関係者は、疑問に思っているはずである。
 それを、もっと国民に知らせないといけない。
 「獣医学部を新設するよりも、既存の獣医学部の水準をアップすることの方を優先しないといけない。既存の獣医学部のレベルアップのために何をするべきかを問題にしないといけない」
 その声が共有されれば、加計学園問題は、別の展開になるだろう。
 野党も追及の仕方を考えないといけない。
 安倍も加計も(加計は姿をみせないが)、ほんとうのことを言わないなら、ほんとうのことを言うひとを探してきて、獣医学部の新設は急務ではないということを語らせればいい。そうすれば、なぜ、安倍が加計学園に肩入れしているのか、その肩入れに問題がないのかというところから、問題をより深く追及できるはずである。
 獣医学部を新設して、その大学がいきなり国際水準に達することができると考えるのは、いくら何でも「空想」というものだろう。そこから問題点を追及すべきである。そうしないと、獣医学部の問題は何も解決しない。

 新聞に書かれていることを読むだけでも、そういうことが考えられる。
 実際に獣医学部の教育に接することができるひと(取材できるひと)は、ほんとうの問題点がどこにあるか知っているはずである。
 自分は知っているから、それでいい、というのではなく、その知っていることを他人に語り(他人に伝え)、いま起きている権力の私物化を告発すべきである。
 「事実」を知っている人間が、みんな口を閉ざしている。口を閉ざすことで、安倍から何かの見返りを受け取ろうとしている。
 そんなふうにしか思えない。




 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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