詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』

2017-08-13 13:32:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(思潮社、2017年07月31日発行)

 藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「現代詩は難解である」という定義、あるいは批判(非難)を思い出した。私は「難解」というようなむずかしいことばは苦手で、うーん、わからない、と言うのだが。
 で、その「わからない」ということから藤井の詩を読んでみるとどうなるか。

 何が書いてあるかわからないというとき、私は「意味」をさがしている。「意味」とは「結論」のことである。あるいは「要約」と言ってもいいかもしれない。
 「結論」と「要約」は同じものである。なぜか。結論は単独では存在せず、論理過程と一体になって成立するものだからである。
 だが、詩人が書こうとしているものが「結論」でも、「結論への過程」でもないとしたらどうだろう。
 「わからない」は「結論」を探すから「わからない」。「結論」や「結論への過程」を探さなければ、「わからない」は成り立たない。
 こういうことを「詭弁」というかもしれないけれどね。

 でも、ことばは「結論」を目指さなくても、存在する。
 あ、これは、言い過ぎかなあ。
 「結論」が何かわからないままでも、ことばは発することができる。「結論」は予測がつかない。でも、なんとなくことばを言ってしまう、ということはある。
 「結論」を探すことをやめて、そこに書かれていることばだけを見ると、どうなるか。詩集のタイトルにもなっている「美しい小弓を持って」の、こんな部分。

同級生の「おみくじ」といったら、ひどかった。
「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 ABCはそのまま絵、美、詩なのに、Dだけ「泥」と違う音になっている。(「でい」と読めば同じ音になるが、ふつうは単独で「でい」とは読まない。)一音の意味のあることばが見つからなかったのだろうなあ。そこで「泥」。これは吉、凶の占いでいえば凶だろうなあ。そんなことはどこにも書いていないのだが、なんとなく、そう思う。このなんとなくそう思うときの感じが「わかる」だね。
 「D 泥」というおみくじは、他のに比べて見劣りがする。凶に違いない。というのは「誤読」なんだけれど、「誤読」が「わかる」ということ。つまり、そこでは「私(谷内」の思いが自然に動いている。「結論」なんかを探さず、瞬間的に、動いてしまっている。
 だから、どうなんだ、と言われると、どうということはないのだけれど。
 で、このあと、

弦を叩いてかがみのおくにかげの見える人、
歌人の言う、あなたはけさ行かないほうがよい。
かげを認めると、烏(からす)が鳴いているこれはあぶない、
子供が二、三人、けさは隠されるじつにあぶない。

 「あぶない」ということばに出会って、あ、これが「凶」か、と思い込む。

消されるかもしれない、あぶないぞ。

未知る季節に世は満ちる、ああそんなにあぶないのか。

迎え火があなたを手招きする、あぶないな。

みくじの読めないうらがわに置く あぶない。

 「あぶない」が次々に出てくる。
 「あぶない」は「現実」であると同時に「予感」。「事実」になってしまったら「あぶない」は存在しない。「事故」になる。あるいは「事件」ということもある。ようするに、「いま」がかわってしまう。「いま」のままではいられない。それが「あぶない」。
 あ、藤井は「あぶない」を書きたいんだなあと「わかる」。「あぶない」が「意味」をこえて迫ってくる。何が「あぶない」のかわらないが、藤井が「あぶない」と言っていることは「わかる」。
 そして、この「わかる」に、次の一行が重なる。

神ひとり、髪一本、分からなくなった。

 「意味」は「わからない」のだが、「分からない」ということと「あぶない」はどこかでつながっている。そのことを藤井が発見している。そのことと藤井が出会っている、ということが「わかる」。
 「うらない(みくじ)」というのは「わからないこと」を「わかる」ための方法。
 そして、そこで「わかる」のは「あぶない」だけである。世の中には「あぶない」がある。

 だから? それでどうした? それが「結論」?
 いや、結論なんかじゃないのだけれど、ことばは面倒くさいものであって、どんなことでも書いてしまうと、そこに「論理」ができ、論理は「結論」を捏造してしまうものである。
 「わからない(難解)」から書き始めたのに、「あぶない」が存在し、「あぶない」と予感して、藤井は何かを書いている、というようなことを簡単に言ってしまえる。
 「結論」が正しいか、間違っているか、そういうことは問題ではない。ただ、「結論」はいつでも捏造できる。

 でも、こういうことは、詩の喜びとは関係がない。
 詩の「思想」とも関係がないと、私は思っている。
 では、この詩の「思想」とは何か。

「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 このことばのなかにある音とリズムだね。「意味」の否定があって、その否定と音が結びつき、さらにリズムをつくり、音楽になる。
「意味の否定」というのは、たとえば「A 絵だ」は「A=絵」ではないということ。でも、「B=絵」「C=絵」ということばの動きよりも「A=絵」に納得してしまうということ。ナンセンス。しかし、そこには不思議な「センス」もある。藤井の場合、その「センス」は「音楽のセンス」ということになるのかな?
 別なことばで言うと、読みやすい。「意味」はつながらない、「意味」はでたらめなのに、音が読みやすい。音が「意味」とは別の統一感を持って動いている。

 こんなことを書いても詩の感想にもならないし、ましてや批評にはならないとひとは言うかもしれない。私もそう思うが、しかし、藤井の詩に向き合ったとき、最初に動くのは、いま書いたようなことなのだ。
 いま感じたことが、次の詩を読むとどうかわるのか、それはわからない。私は、そういうことを「決めたくない」。思ったことを「整えたくない」。垂れ流し続けたい。
 あすも(ただし気が変わるかもしれない)、つづきを書いてみよう。

 
美しい小弓を持って
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思潮社
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自衛隊日報

2017-08-13 11:47:09 | 自民党憲法改正草案を読む
自衛隊日報
            自民党憲法改正草案を読む/番外112(情報の読み方)

 2017年08月11日朝日新聞(西部版・14版)の1面。

相田氏関与認めず/日報再調査は拒否/防衛省答弁 監察結果なぞる

 という見出しで、衆参委の閉会中審査の記事が出ている。そのなかにこんな部分がある。

 小野寺氏(防衛相)は、防衛観察本部の聴取結果を踏まえ、「(稲田氏に)報告したかどうかは意見が分かれた」と答弁。「(報告した事実が)『ない』とした方は明確に『なかった』と終始一貫している。(報告を)『したかもしさない』という方は意見が二転三転し、あいまいなところもあった」と説明した。


(1)「報告をした事実がない」は「明確」
(2)「したかもしれない」は「二転三転し、あいまい」
(3)だから、「明確」な方が正しい(稲田は知らなかった/関与していない)

 と言いたいようだが、これは、奇妙な論の展開ではないか。

(1)複数の人間がいる。そのうちの誰かは「報告した事実がない」という。これは、その人が報告していなければ、「私は報告していない」と明確に言える。だれかが稲田に報告しているのを聞いていても(その場にいっしょにいても)、「私は報告していない」と言うことができる。
(2)「したかもしれない」が「二転三転」している、というのはどうしてなのか。それを考えてみる必要がある。「報告した」と発言したひとが、ほんとうに「報告したのか」と再度確認され、さらにそのとき稲田はどう反応したのか、他のひとはそのときどう反応したのかと詰問されたからかもしれない。その人が「報告した」のは事実だが、稲田の反応、他の人の反応については正確に答えられなかった。そのために「あいまい」な部分が残った、ということかもしれない。
(3)複数の「証言」があるとき、その証言に揺らぎがないかどうかだけで、それが「事実」とは断定できない。少しでも疑問があれば、その疑問をもっと追及しなければならない。
さらに私はこう考える。
(4)「したかもしれない」という証言が揺れているのはなぜなのか。その人物に対して、どのような訊問の仕方をしたために証言がゆれたのか。その「過程」を明確にしなければならない。「二転三転」しているから「正確ではない」とはいえない。多くの「冤罪」は取調官の「証言の強要」によって生じている。「ほんとうはこうなのじゃないか」と証言をリードするようなことはおこなわれなかったか、それを点検しなければならない。どんな「答え」も「質問」の仕方によって、内容が違ってくる。
(5)「報告をした事実がない」と主張しているひとに対しては、「だれそれは報告したと答えているが、そのときあなたはどこにいたのか。(誰が右隣にいて、誰が後ろにいたのか)声を明瞭に聞き取ることができたのか。」「では、そのひとは、どういう報告(発言)をしたいたのか。そのときの稲田の反応は?」などを聞いてみるべきである。きっと「あいまい」な部分が出てくるだろう。それでも「誰も報告していない」と断定できるのかという問題が生じるはずである。

 他の事例と比較してみよう。
 文部省の「加計学園」をめぐる「文書」。文部省は存在しない、と言い張っていた。ところが「文書」はあった。多くの人間が「記憶にない」と言い張っている。ところが、「文書」は残っている。
 「記憶」については、いつでも「ない」と言い張れる。全体的な「証拠」が出てくるまでは「記憶にない」と言い張れる。証拠が出てきたときは、「あ、そうだった、いま思い出した」と言い逃れができる。「すっかり忘れていた。記憶を訂正します」と、言い張ることができる。

 「したかもしれない」とひとりでも答えているなら、それは「報告した」のだ。
 「していない」と答えているひと、「したかもしれない」とこたえているひと、防衛省が「調査/監察」した人物を全員喚問し、国会の場で答弁させればいい。
 「監察結果にこう書いてある」というのでは何も答えたことにはならない。
 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
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