藤井貞和『美しい小弓を持って』(思潮社、2017年07月31日発行)
藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「現代詩は難解である」という定義、あるいは批判(非難)を思い出した。私は「難解」というようなむずかしいことばは苦手で、うーん、わからない、と言うのだが。
で、その「わからない」ということから藤井の詩を読んでみるとどうなるか。
何が書いてあるかわからないというとき、私は「意味」をさがしている。「意味」とは「結論」のことである。あるいは「要約」と言ってもいいかもしれない。
「結論」と「要約」は同じものである。なぜか。結論は単独では存在せず、論理過程と一体になって成立するものだからである。
だが、詩人が書こうとしているものが「結論」でも、「結論への過程」でもないとしたらどうだろう。
「わからない」は「結論」を探すから「わからない」。「結論」や「結論への過程」を探さなければ、「わからない」は成り立たない。
こういうことを「詭弁」というかもしれないけれどね。
でも、ことばは「結論」を目指さなくても、存在する。
あ、これは、言い過ぎかなあ。
「結論」が何かわからないままでも、ことばは発することができる。「結論」は予測がつかない。でも、なんとなくことばを言ってしまう、ということはある。
「結論」を探すことをやめて、そこに書かれていることばだけを見ると、どうなるか。詩集のタイトルにもなっている「美しい小弓を持って」の、こんな部分。
ABCはそのまま絵、美、詩なのに、Dだけ「泥」と違う音になっている。(「でい」と読めば同じ音になるが、ふつうは単独で「でい」とは読まない。)一音の意味のあることばが見つからなかったのだろうなあ。そこで「泥」。これは吉、凶の占いでいえば凶だろうなあ。そんなことはどこにも書いていないのだが、なんとなく、そう思う。このなんとなくそう思うときの感じが「わかる」だね。
「D 泥」というおみくじは、他のに比べて見劣りがする。凶に違いない。というのは「誤読」なんだけれど、「誤読」が「わかる」ということ。つまり、そこでは「私(谷内」の思いが自然に動いている。「結論」なんかを探さず、瞬間的に、動いてしまっている。
だから、どうなんだ、と言われると、どうということはないのだけれど。
で、このあと、
「あぶない」ということばに出会って、あ、これが「凶」か、と思い込む。
「あぶない」が次々に出てくる。
「あぶない」は「現実」であると同時に「予感」。「事実」になってしまったら「あぶない」は存在しない。「事故」になる。あるいは「事件」ということもある。ようするに、「いま」がかわってしまう。「いま」のままではいられない。それが「あぶない」。
あ、藤井は「あぶない」を書きたいんだなあと「わかる」。「あぶない」が「意味」をこえて迫ってくる。何が「あぶない」のかわらないが、藤井が「あぶない」と言っていることは「わかる」。
そして、この「わかる」に、次の一行が重なる。
「意味」は「わからない」のだが、「分からない」ということと「あぶない」はどこかでつながっている。そのことを藤井が発見している。そのことと藤井が出会っている、ということが「わかる」。
「うらない(みくじ)」というのは「わからないこと」を「わかる」ための方法。
そして、そこで「わかる」のは「あぶない」だけである。世の中には「あぶない」がある。
だから? それでどうした? それが「結論」?
いや、結論なんかじゃないのだけれど、ことばは面倒くさいものであって、どんなことでも書いてしまうと、そこに「論理」ができ、論理は「結論」を捏造してしまうものである。
「わからない(難解)」から書き始めたのに、「あぶない」が存在し、「あぶない」と予感して、藤井は何かを書いている、というようなことを簡単に言ってしまえる。
「結論」が正しいか、間違っているか、そういうことは問題ではない。ただ、「結論」はいつでも捏造できる。
でも、こういうことは、詩の喜びとは関係がない。
詩の「思想」とも関係がないと、私は思っている。
では、この詩の「思想」とは何か。
このことばのなかにある音とリズムだね。「意味」の否定があって、その否定と音が結びつき、さらにリズムをつくり、音楽になる。
「意味の否定」というのは、たとえば「A 絵だ」は「A=絵」ではないということ。でも、「B=絵」「C=絵」ということばの動きよりも「A=絵」に納得してしまうということ。ナンセンス。しかし、そこには不思議な「センス」もある。藤井の場合、その「センス」は「音楽のセンス」ということになるのかな?
別なことばで言うと、読みやすい。「意味」はつながらない、「意味」はでたらめなのに、音が読みやすい。音が「意味」とは別の統一感を持って動いている。
こんなことを書いても詩の感想にもならないし、ましてや批評にはならないとひとは言うかもしれない。私もそう思うが、しかし、藤井の詩に向き合ったとき、最初に動くのは、いま書いたようなことなのだ。
いま感じたことが、次の詩を読むとどうかわるのか、それはわからない。私は、そういうことを「決めたくない」。思ったことを「整えたくない」。垂れ流し続けたい。
あすも(ただし気が変わるかもしれない)、つづきを書いてみよう。
藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「現代詩は難解である」という定義、あるいは批判(非難)を思い出した。私は「難解」というようなむずかしいことばは苦手で、うーん、わからない、と言うのだが。
で、その「わからない」ということから藤井の詩を読んでみるとどうなるか。
何が書いてあるかわからないというとき、私は「意味」をさがしている。「意味」とは「結論」のことである。あるいは「要約」と言ってもいいかもしれない。
「結論」と「要約」は同じものである。なぜか。結論は単独では存在せず、論理過程と一体になって成立するものだからである。
だが、詩人が書こうとしているものが「結論」でも、「結論への過程」でもないとしたらどうだろう。
「わからない」は「結論」を探すから「わからない」。「結論」や「結論への過程」を探さなければ、「わからない」は成り立たない。
こういうことを「詭弁」というかもしれないけれどね。
でも、ことばは「結論」を目指さなくても、存在する。
あ、これは、言い過ぎかなあ。
「結論」が何かわからないままでも、ことばは発することができる。「結論」は予測がつかない。でも、なんとなくことばを言ってしまう、ということはある。
「結論」を探すことをやめて、そこに書かれていることばだけを見ると、どうなるか。詩集のタイトルにもなっている「美しい小弓を持って」の、こんな部分。
同級生の「おみくじ」といったら、ひどかった。
「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。
ABCはそのまま絵、美、詩なのに、Dだけ「泥」と違う音になっている。(「でい」と読めば同じ音になるが、ふつうは単独で「でい」とは読まない。)一音の意味のあることばが見つからなかったのだろうなあ。そこで「泥」。これは吉、凶の占いでいえば凶だろうなあ。そんなことはどこにも書いていないのだが、なんとなく、そう思う。このなんとなくそう思うときの感じが「わかる」だね。
「D 泥」というおみくじは、他のに比べて見劣りがする。凶に違いない。というのは「誤読」なんだけれど、「誤読」が「わかる」ということ。つまり、そこでは「私(谷内」の思いが自然に動いている。「結論」なんかを探さず、瞬間的に、動いてしまっている。
だから、どうなんだ、と言われると、どうということはないのだけれど。
で、このあと、
弦を叩いてかがみのおくにかげの見える人、
歌人の言う、あなたはけさ行かないほうがよい。
かげを認めると、烏(からす)が鳴いているこれはあぶない、
子供が二、三人、けさは隠されるじつにあぶない。
「あぶない」ということばに出会って、あ、これが「凶」か、と思い込む。
消されるかもしれない、あぶないぞ。
未知る季節に世は満ちる、ああそんなにあぶないのか。
迎え火があなたを手招きする、あぶないな。
みくじの読めないうらがわに置く あぶない。
「あぶない」が次々に出てくる。
「あぶない」は「現実」であると同時に「予感」。「事実」になってしまったら「あぶない」は存在しない。「事故」になる。あるいは「事件」ということもある。ようするに、「いま」がかわってしまう。「いま」のままではいられない。それが「あぶない」。
あ、藤井は「あぶない」を書きたいんだなあと「わかる」。「あぶない」が「意味」をこえて迫ってくる。何が「あぶない」のかわらないが、藤井が「あぶない」と言っていることは「わかる」。
そして、この「わかる」に、次の一行が重なる。
神ひとり、髪一本、分からなくなった。
「意味」は「わからない」のだが、「分からない」ということと「あぶない」はどこかでつながっている。そのことを藤井が発見している。そのことと藤井が出会っている、ということが「わかる」。
「うらない(みくじ)」というのは「わからないこと」を「わかる」ための方法。
そして、そこで「わかる」のは「あぶない」だけである。世の中には「あぶない」がある。
だから? それでどうした? それが「結論」?
いや、結論なんかじゃないのだけれど、ことばは面倒くさいものであって、どんなことでも書いてしまうと、そこに「論理」ができ、論理は「結論」を捏造してしまうものである。
「わからない(難解)」から書き始めたのに、「あぶない」が存在し、「あぶない」と予感して、藤井は何かを書いている、というようなことを簡単に言ってしまえる。
「結論」が正しいか、間違っているか、そういうことは問題ではない。ただ、「結論」はいつでも捏造できる。
でも、こういうことは、詩の喜びとは関係がない。
詩の「思想」とも関係がないと、私は思っている。
では、この詩の「思想」とは何か。
「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。
このことばのなかにある音とリズムだね。「意味」の否定があって、その否定と音が結びつき、さらにリズムをつくり、音楽になる。
「意味の否定」というのは、たとえば「A 絵だ」は「A=絵」ではないということ。でも、「B=絵」「C=絵」ということばの動きよりも「A=絵」に納得してしまうということ。ナンセンス。しかし、そこには不思議な「センス」もある。藤井の場合、その「センス」は「音楽のセンス」ということになるのかな?
別なことばで言うと、読みやすい。「意味」はつながらない、「意味」はでたらめなのに、音が読みやすい。音が「意味」とは別の統一感を持って動いている。
こんなことを書いても詩の感想にもならないし、ましてや批評にはならないとひとは言うかもしれない。私もそう思うが、しかし、藤井の詩に向き合ったとき、最初に動くのは、いま書いたようなことなのだ。
いま感じたことが、次の詩を読むとどうかわるのか、それはわからない。私は、そういうことを「決めたくない」。思ったことを「整えたくない」。垂れ流し続けたい。
あすも(ただし気が変わるかもしれない)、つづきを書いてみよう。
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